学校跡地 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《参考》大阪女子大学同窓会「斐文会」

https://hibunkai.jimdo.com/%E6%96%90%E6%96%87%E4%BC%9A/%E6%B2%BF%E9%9D%A9/

1924(大正13)大阪府女子専門学校開校

1925(大正14)帝塚山に移転

1949(昭和24)大阪女子大学設置

1951(昭和26)大阪府女子専門学校廃止

1976(昭和51)堺市大仙町へ移転完了

2002(平成14)大阪府が府立3大学再編統合決定

2007(平成19)大仙学舎廃止・全学府立大学へ移転

★「記念の碑」発祥の地帝塚山に建設

2008(平成20)★「記念の碑」大仙学舎跡地に建設

 

・・・発祥の地「帝塚山」の碑も紹介しておきます。

 

 

《参考》大阪府立農学校

http://www.museum.osakafu-u.ac.jp/html/jp/history/photo/detail.php?id=1

1888年(明治21)に堺区車之町(現★堺市堺区車之町)に開校したが、設備の充実と生徒数の増加に伴い敷地も少々手狭となってきたため、2年後の1890年(明治23)に大阪市東成郡鶴橋村(現・大阪市生野区)の約43,000 坪の敷地を持つ新学舎へ移転した。新しい校地は、大阪の陣における古跡の一つともいわれる丘で通称「御勝山」。新学舎はこの地名に因んで「勝山農学校」とも呼ばれ、西洋風の本館がひときわ目を引くものであった。市街地を一歩離れると、ハイカラな建物も少なかった当時、学校は地域の象徴でもあり誇りでもあったことだろう。現在、勝山時代の大阪府立農学校の跡地には、その事実を伝える★石碑のみが残されている。

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009129.html

 

・・・「勝山農学校」の碑も紹介しておきます。

 

 

《NEWS》2017.5.25毎日新聞より

大阪守った気象台跡/古墳、徳川本陣、農学校と変遷経て

御勝山南公園(大阪市生野区勝山南3)のすぐ北を通る勝山通を挟んで、向こうにも公園がある。あちらは御勝山公園。どうやら元は一体だったのが、真ん中を道路が通って分断され、公園の名前も別々になったと見て取れる。御勝山南公園の北東角に移動する。そこには「大阪管区気象台跡」の石碑。1933(昭和8)~68(昭和43)年までこの地にあり、その後、今の大阪合同庁舎4号館(中央区大手前4)に移転した。 前身の大阪測候所ができたのが1882(明治15)年。いまはない蜆川に架かっていた梅田橋の南詰というから、北区堂島3のNTTのあたりだろうか。8年後、堂島浜通に移ったが、1909(明治42)年の北の大火で焼けてしまい、西区に移るも地盤が悪くて地震観測に適さず、地震観測室だけ一足先にこの地に引っ越したという。 碑文によると、室戸、ジェーン、第2室戸の昭和の三大台風も経験。第2室戸台風の時は、大阪市民を高潮被害から守ったとして、当時の台長が大阪市民文化賞を受賞した。54(昭和29)年には日本最初の気象レーダーが設置された。気象台ができるまで、ここには★府立農学校があった。勝山通を渡る陸橋から、北の御勝山公園に建つ農学校跡の碑を見ることができる。近代農業の指導者養成のため、1888(明治21)年に堺で開校。2年後にここに移転した。敷地は4万3000坪というから、14万平方メートルもの広さで、公園どころか、あたり一帯がすっぽり入ったという。「大大阪」の時代の1926(大正15)年、工業化に伴って工場労働者など人口が爆発的に増え、「農業より工業だ」とばかり、宅地にするために農学校は堺へ追い返された。農学校の前は何だったのか。御勝山公園には、柵で囲われたこんもりした小山がある。5世紀に造営された御勝山古墳だ。古墳としては小さく、さして興味を引かれないが、ここが歴史の舞台として脚光を浴びたのが大坂夏の陣だ。当時、岡山と呼ばれていたこの小山に、徳川秀忠が本陣を置き、約2・3キロ西の茶臼山に陣取った家康と共に、約3・5キロ北に位置する大坂城を攻め落とした。「戦に勝ったので、岡山は御勝山と呼ばれるようになった」本陣が置かれたために、古墳は損壊されたという。当時、昔の墓の価値がいかばかりだったかは知らないが、天下を決する戦の前には、たいした人物が葬られているとも思えない古墳など、物の数でもなかっただろう。さらに後世、道路が通って分断されるというわけだ。 そこから北に進み、最初の角を右へ。地蔵堂が現れる。西俊徳地蔵。その先には東俊徳地蔵。まーるいお顔のお地蔵さんがいてはる。どちらも、八尾の高安と四天王寺を行き来していた俊徳丸が休んだ所と伝わる。色鮮やかな新しい花が供えられており、地域の人々の手でずっとまつられているのが見て取れる。さらに東へ歩けば、平野川に当たる。俊徳橋が架かっている。東へ約3キロ行けば、近鉄、JRの俊徳道駅がある。「俊徳丸という伝説の人物が、街道や駅の名前になっているのは珍しい。それだけ人々に親しまれていたということでしょう」。

 

 

《参考1》宮澤賢治と農学校

http://www.odette.or.jp/seishunkan/kenji.html

1915年(大正4)盛岡高等農林学校入学。(農学科第二部)寄宿舎に入る。土曜午後、日曜日は盛岡郊外を散策。1916年(大正5)関西方面修学旅行で初めて上京。修学旅行において★「大阪府立農学校」を見学しようとした賢治たち一行は、わざわざ天王寺駅から2kmあまりを歩いて訪ねたのですが、この日は「休校」だったので、見学はできず空振りに終わったということです。

★賢治の同級生・森川修一郎による「農学科二年修学旅行記」3月25日の記載より

此処(注:農事試験場畿内支場)にて中食を終へ、直に場長殿に送られて柏原発車大阪天王寺着直に府立農学校に向ふ。幸か不幸か其日同校は休校中に付き、唯校舎や農場畜舎等を歩いたのみで、大した得る所もなかつた。が唯府立として其設備の完全なのに驚いた。我校にも大きな畜舎や温室等欲しいと思つた。

「国立盛岡高等農林学校」の方が、府立農学校よりも明らかに「高等」で格としても上であるにもかかわらず、当時の「大阪府立農学校」は高農生を羨ましがらせるほどの設備を擁していたのです。

 

・・・こんなところで宮澤賢治との関係が出てくるなんて、おもしろいですね。

 

 

《参考2》岩手大学農学部農業教育資料館

020-8550岩手県盛岡市上田3-18-8/019-621-6678

http://news7a1.atm.iwate-u.ac.jp/edu/

岩手大学の構内に青森ヒバのレトロで趣のある建物がある。これは宮澤賢治も学んだことがある盛岡高等農林学校 – (現岩手大学農学部農業教育資料館)の校舎である。全国に専門学校は多く設立されたが現存する校舎は少なく、重要文化財に指定されている。

庭に立つ賢治像は、この学校の教育学部の藁谷収(わらがい・おさむ)教授によるもの。賢治の代表的なポートレイト写真がモチーフで、賢治の哲学性を感じさせるものですが、このポーズは、賢治の敬愛するベートーヴェンを真似たそうです。

 

《参考3》「散歩するベートーヴェン」/作:Julius Schmid (1854~1935)

 

農業教育資料館と並ぶ『百年記念館』には、平成18年から賢治を通じての交流を目的とした「宮沢賢治センター」も設置されています。

★《宮澤賢治センター》岩手大学内「百年記念館」

http://kenji.cg.cis.iwate-u.ac.jp/

賢治★生誕110年の年である2006年の開学記念日[6月1日]を期して、岩手大学では、「宮澤賢治センター」を設立することにいたしました。

 

・・・せっかくの機会ですので、宮澤賢治について寄り道をします。

 

 

《宮沢賢治生誕120年記念企画展『化学と宮沢賢治』》

2016年10月15日(土)~2017年1月15日(日)

於:大阪市立科学館(大阪市北区中之島4-2-1)/06-6444-5656

2016年で★生誕120年を迎え、各地で記念イベントが行われている作家・宮沢賢治。彼の書く童話や詩には、化学に関する用語が心象風景を表す言葉として使われおり、10月15日から「大阪市立科学館」(大阪市北区)では、そんな化学の目線で賢治を紹介する企画展『化学と宮沢賢治』を開催。宮沢賢治の作品で登場する、水の組成の話やマグネシア、リチウムの燃える色などの化学用語が、実際にはどのような物質や現象なのかを関連資料と共に展示する本展覧会。詩『ソックスレット』に出てくる「リービッヒ冷却管」や、作品『或る農学生の日誌』で学生らが河原で標本採集する「高師小僧」などを展示。また、11月27日には彼が自然や心理描写を表現するために元素や化学をどのように用いたかを紹介する講演会も(無料で先着80名、9/21受付開始)。企画展は入場無料、ただし館内展示場の観覧券別途要(大人400円、高・大学生300円)。

 

・・・私が大好きなのは、

 

★種山ヶ原「風の又三郎」/作:中村晋也

http://www.ne.jp/asahi/musee/nakamura/

http://blog.so-net.ne.jp/nf_m/2008-10-11-1

http://www.kyocera.co.jp/company/csr/facility/museum/collection/sculpture/03/

 

★「宮澤賢治、銀河へ」/作:畑中純

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784890369256

 

【畑中純】(1950年3月20日~2012年6月13日)

福岡県小倉市(現:北九州市)出身。漫画家としてだけでなく、版画家としても活動した。2007年より、「東京工芸大学芸術学部マンガ学科」教授をつとめた。2012年6月13日、腹部大動脈瘤破裂のために死去(62歳)。

 

・・・もう5年が経ちました、合掌。