青木繁 | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「小灘一紀」さんのブロフィールの中に、青木繁「海の幸」会賛助会員と書かれていましたので気になり、調べてみました。

 

《1904「海の幸」》重要文化財/作:青木繁/所蔵★ブリジストン美術館

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199370

http://www.bridgestone-museum.gr.jp/collection/highlight/aoki.html

左手に向かって行進する一群の漁師たちを描いています。漁師たちは手に銛(もり)を持ち、ある者は肩に、ある者は銛に刺して、鮫とみられる大きな魚を担いでいます。この絵は1904年夏に東京美術学校を卒業したばかりの青木が、友人の坂本繁二郎、森田恒友、そして恋人の福田たねと千葉県館山市の布良(めら)海岸に旅行した際に制作したもので、この年秋の白馬会第9回展に出品されました。中央部の二人の白い顔は、その後に青木が加筆修正したとみられ、こちらを向く顔には福田たねのイメージが重ねられているようです。洋画では、最も早い1967年に重要文化財に指定された作品の一点です。

 

 

《参考1》ブリヂストン美術館★建て替え

http://www.bridgestone-museum.gr.jp/news/2016/0108_01.html

2015年5月18日より長期休館に入ったブリヂストン美術館。その後の半年間で、ビルの解体は進み、9階建てのビルの姿は外からはほとんど見えなくなりました。2015年末で1階部分まで解体され、2016年からは地下の解体に入ります。2015年5月に終了した「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展で多くのお客様で賑わったエントランスホールも7月には解体されてしまいました。その光景は、現場で働いてきた美術館スタッフとしては、胸が詰まる想いでした。63年間、本当にお疲れ様でした。

2016年6月より新築工事に着工しました。現在は「山留め工事」を行っている最中です。「山留め工事」とは地下を掘る際に、周囲の崩壊や土砂の流出を防ぐために、掘削の側面を固める工事の事。「SMW杭打機」という重機を使用して、セメントや水や土等を混ぜ合わせながら、35メートルの穴を掘ります。そこに、最長28.5メートルの鉄骨(H型鋼)を入れて、山留め壁を作ります。ダイナミックに見えますが、緻密な計算のもとに行われる作業です。地面に挿入する鉄骨の数は、なんと371本。9月からスタートしたこの作業は11月半ばまで行われます。

2017年の6月中旬から、本格的に地下躯体の工事がスタートしました。7月には、最深部にある基礎スラブ(基礎の底盤)の設置工事を行いました。基礎スラブは、建物の全重量を支えるため、その厚さは3.6メートルもあります。コンクリートを流し込む前に、総重量400トンもある鉄筋を組み立てます。大型クレーンで長く重い鉄筋の束を地下へ下ろし、最後は人の手で一本一本、移動し組立てていきます。美術館が入る新しいビルは、地下2階、地上23階建て。高さ約150メールのこの高層ビルを支えるための重要な工事です。

 

・・・古い美術館には、ずいぶん昔「海の幸」を観るために訪問したことがあります。予想より小さな作品だったので驚いたことを、今でも鮮明に覚えています。新しい美術館、楽しみです。

 

★新ブリヂストン美術館

(仮称) 永坂産業京橋ビル内/東京都中央区京橋1-10-1

延床面積: 約6,650㎡/設計・監理: 株式会社日建設計/美術館内装デザイン: TONERICO: INC./施工: 戸田建設株式会社

http://www.bridgestone-museum.gr.jp/news/press/20160617_01.html

公益財団法人石橋財団ブリヂストン美術館(東京/館長:石橋寛)は、2015年5月より長期休館し、新美術館建設に向けて準備を進めています。この度、2016年6月17日に、当館が入居する(仮称)永坂産業京橋ビルの工事安全祈願の神事が執り行われ、無事に着工を迎えました。新しいブリヂストン美術館では、旧美術館の約2倍の面積をもつ展示空間に、印象派、抽象絵画、日本近代洋画、日本古美術など2,500点以上にのぼる多様な石橋財団コレクションを、独自性豊かな企画とともに公開していきます。また、以前と同じ敷地内に新築される当館は、入口が従来の八重洲通り沿いから、銀座と日本橋をつなぐ中央通り沿いへと移動します。そして開館後は、京橋一丁目の再開発における芸術と文化の拠点として、地域の発展に貢献していきます。開館時期:★2019年秋(予定)

 

《NEWS》2012.6.2朝日新聞デジタルより

還暦2館/東京国立近代美術館・ブリヂストン美術館

近現代美術の総合館である東京国立近代美術館と、個人のコレクションから出発した私立のブリヂストン美術館。都心にある2館が今年、そろって「還暦」を迎えた。いまでこそ美術館は身近な存在だが、開館当時は日本の美術館の「草創期」。その歩みを振り返ると、両館が開館したのは1952年。戦後の混乱がようやく収まってきた中で誕生した、初めての国立美術館が東京国立近代美術館(57年までの名称は国立近代美術館)だった。70年にフィルムセンター、77年に工芸館を開設。収集・研究・展示の対象は主に20世紀以降の芸術で、ジャンルは絵画、彫刻から写真や工芸、デザイン、映画に及ぶ。51年開館の神奈川県立近代美術館とともに先駆け的な存在だったが、70年代以降、各地に公立の美術館が誕生。90年前後からは広島、水戸、東京などに現代美術に特化した美術館が私立も含めて登場し、近代美術館を取り巻く状況は大きく変化した。それでも「日本近代の重要な作家の主要作品を収集するという大きな方針は変わらない」と、東京国立近代美術館の松本透副館長は話す。「過去を現代の目で見ると同時に、現在を歴史の側から見る。両方向の視点を鑑賞者に提示していきたい」 10月16日から60周年記念展「美術にぶるっ!ベストセレクション日本近代美術の100年」を本館の全フロアで開く。重要文化財13点をはじめ所蔵品の代表作を公開する展示と、開館当時の50年代に焦点を当てた企画展を準備している。ブリヂストン美術館は、実業家★石橋正二郎氏(1889~1976)のコレクションを展示する施設として開館。印象派などフランス絵画を中心とした西洋近代美術や日本近代洋画の展示で親しまれている。開催中の60周年記念展「あなたに見せたい絵があります。」(6月24日まで)では、モネやルノワール、セザンヌらの作品と、藤島武二、坂本繁二郎など近代日本の洋画を合わせてテーマごとに展示。コレクションの豊かさを改めて感じさせる。石橋コレクションは★青木繁作品の収集から始まり、その後に西洋美術にも広がったという経緯があり、日本近代洋画はおもに姉妹館の石橋美術館(福岡県久留米市)が所蔵している。「これまで東京は西洋美術、日本近代絵画は久留米を中心に展示してきたが、これからはその展示方法も見直していきたい」と、ブリヂストン美術館の島田紀夫館長は話す。収集の対象は近年、戦後美術にも広げている。美術運動アンフォルメルに参加した作家や、抽象表現主義のジャクソン・ポロックの作品も所蔵品に加わった。「老舗」の印象があるが、今回の展示ではインターネットでの発信を期待してブロガー約100人を招いて説明会を開くなど、新しい試みにも取り組んでいる。こうした近代美術館の今後について、女子美術大の北澤憲昭教授(日本美術史)は「コレクションを持たずに企画展を開くアートセンター的な美術館が公立、私立を問わずに登場している。所蔵品を研究し、美術を歴史的に位置づける役割を担う近代美術館と、現代美術をスペクタクル的に見せる現代美術館の分化がさらに進むのでは」と見ている。

 

 

《参考2》青木繁「海の幸」会

http://uminosac.web.fc2.com/

「海の幸」を頂点に明治浪漫主義時代を駆け抜けた夭折の天才画家★青木繁は明治37年7月、東京美術学校を卒業してまもない頃、写生旅行に友人の坂本繁二郎、森田恒友、それに女友達★福田たねを伴って、南房布良★小谷家に投宿しました。この布良地区は千葉県館山市の南に位置して、国道410号沿いの太平洋に面した小さい漁師町です。この小谷家に於いて、青木繁の「海の幸」は1904(明治37)年に制作されました。この年の第9回白馬会展へ出品された「海の幸」を、詩に謳い賛美した蒲原有明をはじめ、浪漫派の文学者たちが共鳴したことから、一躍時の人となった経緯があります。現在、重要文化財である「海の幸」は福岡県久留米市の「石橋財団★石橋美術館」に常設されています。築130年を経て現存する小谷家は、江戸から明治にかけての漁師の網元の造りで、瓦葺きの木造平屋建て、間取りは6部屋、玄関の腰板には丸い鉄鋲が見られ、天井材は珍しい桑材、戸袋のわきはナマコ壁跡、周囲を木々に囲まれた敷地は200坪ほど。また近くの阿由戸浜を臨む見晴らしのよい高台には、青木繁没後50年を記念して、旧友たちによって昭和36年に建立された碑を見ることもできます。私たちは特定非営利活動法人・青木繁「海の幸」会 として、第一義は文化遺産である小谷家を当面の現状保存と、次いで当時の姿に修復して復元保存する計画、と同時に芸術文化の振興や啓発活動を行います。第二義は房総一帯の文人画人に親しまれてきた海岸線にまだまだ残っている自然、私たちの原風景といえる景観等の保存と保全に貢献する考えです。千葉県及び館山市の行政の皆さま、地元の皆さま、青木繁に関係する各県各地の皆さま、全国の青木絵画を賛美する皆さまのご協力を得ながら、全国に寄金等を募ることによって保存および保全活動をすすめてまいります。

 

《参考3》青木繁が友人・梅野満雄宛てに書いた手紙より

ここに来て海水浴で黒ん坊だ。ここは万葉にある「女良」だ。近所に安房神社という官幣大社がある。古い土地だ。漁場としても有名な荒っぽい所で冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切って、二カ月も沖で暮らして漁をするそうだ。沖ではクジラ、ヒラウオ、カジキ、マグロ、フカ、キワダ、サメがとれる。みな二十貫から百貫(1貫は3.75キログラム)のものを釣るのだ。恐ろしいような荒っぽいことだ。・・・雲ポッツリ、またポッツリ、ポッツリ!波ピッチャリ、ピッチャリ!砂ヂリヂリとやけて風ムシムシとあつくなぎたる空!はやりたる潮!童謡「ひまにゃ来て見よ、平沙の浦わぁー、西は洲の崎、東は布良アよ 沖を流るる黒瀬川アーサアサ、ドンブラコッコ スッコッコ!!」これが波のどかな平沙浦だよ。浜地にはスイカなどよくできるよ。ハマグリも水の中から採れるよ。晴れると大島利島シキネ島が列をそろえて沖を十里にかすんで見える。それから浜磯ではモクツ、モク、ワカメ、ミル、トサカメ、テングサ、メリグサ、アワビ、ハマグリ、タマガヒ、トコボシ、ウニ、イソギンチャク、ホラノカヒ、サザエ、アカニシ、ツメッケイ等だ。まだまだその外に名も知らぬものが倍も二倍もある。今は少々制作中だ。大きい。モデルをたくさん使っている。いずれ東京に帰ってからごらんに入れるまで黙っていよう・・・

 

 

《NEWS1》2016.3.9毎日新聞より

久留米市民会館/「海の幸」緞帳残したい。青木繁の代表作、忠実に再現7月閉館/福岡

老朽化のため、今年7月に閉館する久留米市民会館の舞台に掛かる緞帳の行方が宙に浮いている。明治期を代表する久留米出身の洋画家、青木繁(1882~1911)の代表作「海の幸」を忠実に再現した巨大な緞帳は、来館者に市と青木の関係をアピールする存在。市内の石橋美術館にある実物の「海の幸」は今秋、東京★ブリヂストン美術館(休館中)に移ることが決まっており、せめて緞帳だけでも残せないかと市民は気をもんでいる。緞帳は69年の市民会館開館に合わせ、市が京都の綴錦織業者に依頼し、約1500万円で制作した。縦7・4メートル、横19・5メートル、重さ1・3トン。200色の糸を使い、延べ約1500人の職人が10カ月かけて作ったという。監修は、青木作品研究の第一人者で京都国立近代美術館長などを歴任した美術評論家の河北倫明氏(故人)。石橋美術館の森山秀子副館長は「色がよく再現されている」と評価する。しかし、市が閉館後の用途を検討するため2013年に緞帳の状態を調べたところ、寿命はあと10年との結果が出た。市民会館に代わって4月にオープンする久留米シティプラザにはサイズが合わず設置できない。市は他施設での再利用や個人・団体への譲渡も選択肢に残してはいるが、西村信二・文化振興課長は輸送や維持管理などに多額の費用がかかるため譲渡は厳しいとの見方を示し、「ほつれなども目立ち、劣化が進んでいる。廃棄するしかないかもしれない」と話す。一方、地元の文化関係者には保存を求める声もある。久留米連合文化会副会長で洋画家の江口登さん(74)は「『海の幸』は久留米の文化のシンボル。緞帳は長年、市民に親しまれており廃棄はもっての外。どこかに展示する道を探るべきだ」と訴える。久留米市民会館のように高度経済成長期に建設された大型文化施設は現在、全国的に★建て替えや閉館の時期を迎えている。施設の顔や街の文化的シンボルともいえる緞帳の存廃は各地で議論になっているが、対応は各自治体でさまざまだ。北海道三笠市は、2014年に築45年の市民会館を耐震改修する際、老朽化した緞帳を廃棄する方針だったが、炭鉱全盛時の街の様子が描かれており、議会などで「炭鉱で栄えた街の象徴だ」などの意見が相次ぎ、方針転換。倉庫でライブハウスを運営する男性に無償譲渡した。青森県弘前市は13年、築49年の市民会館の大規模改修に伴い、同県出身の板画家★棟方志功がデザインした緞帳と同じ絵柄で新品を作り直した。古い緞帳も史料として、改修後の市民会館で保存している。

 

《NEWS2》2017.7.20西日本新聞より

2017年7月19日午後5時20分ごろ、久留米市城南町の市役所北側で、旧★市民会館解体工事現場の仮囲いフェンス(高さ約3メートル)が風にあおられ、約40メートルに渡って道路に倒れた。発注元の久留米市によると、倒れたフェンスが交通誘導員の男性(69)にぶつかり、腰に軽いけがを負ったという。事故当時、工事現場側の歩道は通行できないように規制しており、ほかにけが人はいない。フェンスは車道にはみ出すように倒れ、撤去のため、一時全面通行止めになった。市によると、フェンスの脚を支える固定が不十分だったことが原因とみられる。20日以降の工事作業はいったん中止し、詳しい検証と安全対策を検討する方針。

 

《NEWS3》2017.8.15毎日新聞より

7月に解体が始まった久留米市の市民会館に設置されていた同市出身の洋画家、青木繁(1882~1911)の代表作「海の幸」をモチーフにした緞帳の一部が遺族の手に残ることになった。市は劣化が進んでいるとして廃棄処分を決めていたが、遺族や関係者の働きかけで、長く市民に親しまれてきた緞帳は完全廃棄を免れた。遺族は東京・新橋で九州の郷土料理店を営む松永洋子さん(72)。久留米市は今年5月に緞帳の廃棄を決定。新聞報道などで知った松永さんは市に電話し、一部をもらい受けたいと伝えたが衛生面や安全面を理由に断られた。しかし、千葉市の建設会社関係者が松永さんの意向を知り、市民会館の解体業者に直接相談したところ、一部を切り取って残すことが可能になったという。市も「業者との契約上は問題ない」としている。解体業者が切り取ったのは青木の恋人だった福田たねらを描いたとされる部分。縦3・1メートル、横5・6メートルで緞帳全体(縦7・4メートル、横19・5メートル)の約10分の1の大きさになった。松永さんは7月末に久留米を訪れ、残った緞帳と対面。およそ半世紀前、市民会館の開館直後に舞台で見た記憶がよみがえったといい「99%諦めていたが、奇跡的に残すことができた。うれしい」と涙ぐんだ。緞帳の修復などを検討するため同行した佐賀大の石井美恵准教授(染織品保存修復科学)は「穴や欠損はなく、線維の状態も良好。表面をクリーニングすれば十分展示に堪えられる」と評価した。緞帳は現在、久留米市内で保管されており、石井准教授らがクリーニングした後、松永さんが最終的な保管場所を探す予定だ。

 

《NEWS4》2013.5.18日経アーキテクチュア編集部より

暴れ川の記憶を形に/久留米市民会館

大阪万博のエキスポタワー(1970)、沖縄海洋博のアクアポリス(1975)、愛・地球博のグローバル・ループ(2005)。国内で開催された主要な博覧会のシンボル施設を次々と設計した、日本を代表する建築家の一人である故★菊竹清訓氏。菊竹氏の生地・福岡県久留米市の久留米市民会館(1969竣工)を探訪する。久留米市民会館は、菊竹が後に設計した久留米市庁舎(1994地上20階建て)のすぐ隣にある。大小のホールに会議室や福祉センターなどを併設した複合建築で、福祉センターは市庁舎別館に変わって現在に至る。プランは三角形のグリッドに載っており、敷地の矩形に対して斜め方向の壁で機能が分割されている。主要な機能である大ホールは全部で1348席。照明と音響の調整室が、客席から突き出た位置に配されている。実はこれが中央から微妙にずれていて、左右の客席ブロックの大きさが違う。ステージに立つ演者も、すごくやりにくそうである。なぜ、こんなややこしいことをしたのか。その理由は、天井にある2枚の巨大な羽根のようなものと関係している。これが実は、「音響反射板」であるとともに、必要に応じて客席を仕切る可変壁でもあるのだ。ホールの客席数は、そこで催す予定の興行の規模によって決まる。しかし大規模な興行は年に数回しかなく、地方都市で行われる日常的な市民の催しは、小規模なものがほとんどだ。結果として、ガランとしたホールで催しを行うことが多くなってしまう。これを何とかしようというのが、可変壁のアイデアである。可動反射板は水平の軸を中心に回転させると壁になる。これにより、客席は3 つに分割される。組み合わせも自由だ。中央部だけ使う、上手側ないしは下手側だけを使う、上手側ないしは下手側を中央部と組み合わせて使う、全部使う――。いずれも客席数は異なり、想定する催しの規模に応じて選ぶことができる。

 しかしこの可動反射板は、機械のメンテナンスができなくなったことから、現在は動かしていないとのこと。市内には他の文化施設も生まれているので、客席の規模を変えて対応する必要が薄れた、という側面もあるだろう。さて、久留米といえば菊竹の生地である。建築家の幼少期の生活環境について聞き書きをした『こどもと住まい─ 50人の建築家の原風景』(仙田満、住まいの図書館出版局)を読むと、菊竹家があったところが推測できる。場所は水天宮の近くで、すぐ脇には筑後川が流れている。実はこの記事のために久留米を訪れた日(2012年7月14日)に、九州を豪雨が襲った。久留米では筑後川の治水整備が進んでいるせいか被害は出なかったが、近辺の市町村では河川の氾濫による家屋の浸水も起こった。菊竹の生家の近くを訪れたのは、その翌日である。天候は回復していたが、筑後川の水かさは堤の上端に近いところまで達しており、超えてしまったときのことを想像すると恐ろしくなった。水天宮も、この川を鎮めるために建立されたものなのだろう。「暴れ川」として名高い筑後川は、過去に幾度となく氾濫し、水害をもたらしている。昭和初期の記録を調べると、1928年、1935年、1941年に久留米で大きな洪水が発生した。1928年生まれの菊竹は、子ども時代にこれを体験している。菊竹の作品を振り返ると、スカイハウス(1958年)、江戸東京博物館(1992年)など、地上から高く建築物を持ち上げたものがある。それは近くを流れる川が氾濫し、水が押し寄せた時のことを想定しているのではないか。また、海上都市(1958年)やアクアポリス(1975年)など、水上の建築プロジェクトも多い。それは洪水により水に浸かった街の光景を何度となく目にしていたからだ、とも想像できる。氾濫する筑後川の記憶は、久留米市民会館においても見られるだろうか。まず考えられるのは人工地盤状のプラザの存在だ。この施設を訪れた人は、階段やスロープでまず2階レベルに上がるようになっている。菊竹自身は明らかにしていないが、空中に持ち上げられたプラザは、洪水への恐れを無意識に反映しているように思える。水の流れを設計に採り入れることも行った。ホワイエの上に降った雨は、屋上にためられた後、滝となって下に落ちる。それを受け止める池が、2階のプラザには設けられている。雨水はさらに1階へと落ちて、市庁舎側の道路に沿って配された水路に達するようになっている。これは阿蘇の外輪山から有明海へと注ぐ筑後川と、そこに堤防やダムを建設してきた治水の歴史を形象化したものとも受けとれる。★水への構えは菊竹建築を貫くテーマであり、やはりそれは出身地、久留米の建築作品にもしっかりと表れていた。(文・写真:磯達雄、イラスト:日経アーキテクチュア宮沢洋)

 

・・・青木繁の「緞帳」もさることながら、菊竹清訓「建築」のスゴサを知ることができました。調べる事って大切だから、寄り道・回り道はやっぱりとまらない。さて、この「受難」の時代に、どう「伝え」どう「残す」のかです。

 

 

《参考4》中之島・中央公会堂「元緞帳のタペストリー」

1968年(昭和43)50周年時に設置の緞帳(取替5回目)巾11m×高さ3.14m。「小鳥が来る街」原画:中畑艸人(一水会)寄贈:日本生命、そごう。2002年(平成14)にタペストリーとして展示、巾9.6m×高さ2.8m。

 

 

・・・中之島「中央公会堂」は、大阪が誇るべき「どう伝えるか、どう残すか」のシンボルだと思います。機会あるごとに、何度も訪れたい場所でもあります。