・・・自宅(羽曳野)の近くに「玉手山」(柏原市)があります。
《玉手橋》
左岸:藤井寺市道明寺3丁目/右岸:柏原市石川町・玉手町
石川に架かる吊り橋。1928年(昭和3)当時の大阪鉄道(現:近鉄)が、道明寺村(現:藤井寺市)側にある道明寺駅から石川対岸の玉手村(現:柏原市)側にある玉手山遊園地への通行路として設置したが、現在は主に柏原市内の玉手山西側の地区から近鉄道明寺駅を利用する通勤・通学者が利用している。
長さ151m・幅員3.2mの5径間吊橋で、径間は18.1m - 38.1m - 37.9m - 38.5m - 18.9mとなっている。主塔と橋台は鉄筋コンクリート製であるが、部分的に装飾を兼ねたレンガで補強されている。 上路部は鉄製トラス補剛桁でアスファルトで舗装されているものの、架橋構造は典型的な吊り橋である。したがって、渡るときに少々揺れを感じる場合がある。なお、本橋は歩行者・自転車専用である。
1998年(平成10)玉手山遊園は閉園となった。のちに整備の上で「柏原市立玉手山公園」として再開した。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138188
2001年(平成13)吊り橋としては日本全国で★初の国の登録有形文化財となった。
《参考》「玉手山古墳群」
http://mobile.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2016080900022/?doc_id=5170
今から1700年ほど前に玉手山丘陵上に築かれた、前方後円墳と円墳による古墳群です。北から順に1号墳、2号墳…10号墳となっています。その範囲は南にある羽曳野市・駒ヶ谷周辺の古墳まで含めるのが一般的ですが、地理的な隔たりや、古墳の規模、埋葬施設の構造などから、ここでは10号墳までを玉手山古墳群の範囲と考えます。玉手山古墳群はその規模や数から考えて、古墳時代前期の古墳群として奈良盆地東南部に次ぐ古墳群と位置づけられます。
●「玉手山と大坂夏の陣」
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014041800015/
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌・慶長20年(1615)の夏の陣と、2度にわたって豊臣氏と徳川氏の最終決戦が行われた。ここ玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地であり、豊臣方の先陣★後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃って討ち死にした地でもある。戦いは、要衝「小松山」の争奪をめぐって行われた。小松山とは、現在、市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っているあたりで、市立玉手山公園を始め、片山から玉手、円明にかけての一帯が戦場となった。玉手山公園内など、付近一帯には、又兵衛基次の碑を始めとして、両軍戦死者供養塔や戦跡碑、徳川方の武将の墓などが残されている。
・・・そのような歴史と文化に彩られた地に創設されたのが、
《玉手山学園》
582-0026柏原市旭ヶ丘3-11-1/072-978-6661
http://www.houjin.fuksi-kagk-u.ac.jp/index.html
「関西福祉科学大学」「関西女子短期大学」「関西福祉科学大学高等学校」「関西女子短期大学幼稚園」、本学園の歴史は1942年(昭和17)、太平洋戦争開戦直後の緊迫した情勢下での「玉手山高等女学校」設立に始まります。実業家山田藤一の創設への情熱と、自ら築き上げた私財の寄附により学園はこの大阪柏原の地に設立されました。天地万象の恩を感じ、恩に謝し報いることを人生の哲理にしていた創立者山田藤一は「感恩」こそを教育の原点として、「感恩」を実践し得る人間の育成を学園の校是として掲げました。爾来、本学園は幾多の厳しい試練を克服し、たゆまぬ教育実践と不断の改革を重ねて今日に至っています。この間、建学の精神「感恩」は単なる標語や観念論としてではなく、教育目的・目標へと具体化・体系化され、たゆむことなき構造化・現代化が図られ、平成9年のわが関西福祉科学大学の開設にあたっても、その設置理念の原点となり現在も学園教育のなかに脈々と生き続けています。
・・・高校新校舎で「玉野勢三」さんの作品に出会うなんて、なんという奇縁でしょう。
・・・さらにさらに、理科室でカエルさんたちとも出会えました。これだけで来た甲斐があるというものです。
・・・さてさて、大学では何と出会えるでしょうか。