《参考1》中之島図書館「大阪の地名を調べるには」より
https://www.library.pref.osaka.jp/site/osaka/guide-chimei.html
難波宮以来の歴史を有する大阪。「放出」「高津」など、往古の雰囲気を伝える地名から近世の賑わいを伝える「阿波座」「土佐堀」、今は失われた「雑喉場」まで、由緒のある地名も少なくありません。 そこで、大阪の地名を探るための資料を、「放出」「雑喉場」について調べるという例を用いて紹介いたします。
★大坂三郷の町名について知りたい。
『大阪の町名―大坂三郷から東西南北四区へ―』の巻末索引で「雑喉場」で掲載箇所を確認していくと、251頁に、京町堀5丁目、かつての雑喉場町に、「近世大坂の三大市場の一つといわれた雑喉場魚市場があった。」として、現在では「雑喉場魚市場跡」顕彰碑が建てられていることなど、雑喉場の来歴が説明されています。
『大阪の町名 ―大坂三郷から東西南北四区へ―』大阪町名研究会編 清文堂出版 1977年 中・央 374-119# / 291.63-806N大阪市内旧三郷(中央区・北区・西区)の町名について書かれた資料です。第1部は総説で古代から昭和に至る町名変遷の概説と大阪の地名に関する特徴が記述されています。第2部の「町名のうつりかわり」では「東区」「西区」「南区」「北区」の各区の町名ごとに由来と変遷が述べられています。出典資料も多く、記載されたこれらの資料から調査を深めていくことも可能です。参考文献一覧も揃っています。
『大坂町鑑集成』有坂隆道、藤本篤著 清文堂出版 1976年 中・央 378-691# / 291.63-607N『大坂町鑑』というのは、江戸時代の大坂三郷(現在の中央区・北区・西区の辺り)の町名や橋の名前などをイロハ順に配列して、その位置を記述したものです。江戸時代の大坂で出版された3種の町鑑(宝暦6年、天保13年、明治3年)を翻刻と合わせて1冊の本にしたのが、この資料です。今は失われた町名の位置を確認するには適した資料といえます。ちなみに、これら3種の原本【宝暦版378-160# / 天保版378-156# / 明治版378-480#】も当館は所蔵しています。
《参考2》ふらっとぶらっと西天満「西天満今昔」より
http://www.nishi-temma.csd-g.com/information.html
大阪市北区西天満はかつての、旧樋之上町、旧若松町(以上現西天満一丁目付近)旧真砂町、旧絹笠町(以上現西天満二丁目付近)旧伊勢町、旧源蔵町、旧老松町一、旧老松町二(以上現西天満三丁目付近)旧梅ヶ枝町南、旧老松町三、旧神明町(以上現西天満四丁目付近)旧西堀川町、旧富田町、旧木幡町(以上現西天満五丁目付近)旧梅ヶ枝町北(以上現西天満六丁目付近)と旧町制の15町からなり、現在一~六丁目に区分けされています。中でも、現在も大阪天満宮の天神祭の陸渡御のコースとなっている、旧老松町一、二、三は現在も老松通りとして古美術商やギャラリー、グルメショップ等が立ち並ぶ大人のスポット的な街並みになっています。
・・・「旧町名由来案内」は、「旧町名継承碑」より以前に設置されたもののようです。北区以外では見かけませんので、北区オリジナルかもしれませんね。
《参考3》あっちこっち北区まちの歴史は宝物
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000038804.html
平成20年度北区歴史発信事業では、「見つけよう!知られざる北区の歴史」をテーマに市民ワークショップを行い、身近ながらも意外と知られていない北区の歴史を調べて、「あっちこっち北区 まちの歴史は宝物」にまとめました。またこの情報誌には、あわせて行った掘り起こし調査から興味深いものを抜粋して掲載しています。
【木幡町】
町名は★「夕日神明社」のゆかりに由来すると伝えられている。なお 旧南木幡町には★「薬罐屋町」の異名が付けられていた。
《露天神社「難波神明社」》
530-0057大阪市北区曽根崎2-5-4/06-6311-0895
http://www.tuyutenjin.com/matsu.html
「夕日の神明」とも称されたこの社は、平安初期弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の皇子河原左大臣源融公が今の西天満伊勢町あたりの孤島に祀られたのが始めといわれている。往時はこの地を「大神宮の北の洲」、または「神明の鼻」と称し、一帯が境内地であった。伊勢町、木幡町の名はここを起源としているといわれている。文治年間(1185~1189)、源義経が福島で梶原景時と「逆櫓の論」をした時、当社に寄付物を奉納し願書を収めたと伝えられている。後醍醐天皇の御代には勅願書となり度々行幸の栄を受け、後代の江戸期には、大阪城代および両町奉行の崇敬が殊に厚く、境内も広大であった。社殿が東向きの春日出の「朝日の神明社」、南向きの鶴町の「日中の神明社」、西向きだった当社「夕日の神明社」をあわせて『大阪三神明』と称した。また、東京芝神明宮、京都松原神明宮、同東山神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮と当神明宮をもって『日本七神明』ともいわれた。しかし、天保5年(1834年)7月11日の火災によって社殿が焼失し次第に社勢も衰え、明治42年の「北の大火」でも被災、翌年当社に合祀された。当社現御祭神のうち、天照皇大神、豊受姫大神はこの神である。現在は、当社東方約500メートルに位置する旧境内地の一隅に碑を設け、当社大祭に先立ち7月19日に例祭を斎行している。また、往時は毎年6月1日に冬季から貯蔵しておいた天然の氷を食べて、夏中はやり病にかからないよう祈願をしていた。この行事は一般に「氷の朔日」と呼ばれ、近松の『心中刃氷朔日』の題名にもとり入れられている。
《参考4》大阪市「サインシステムとシンボルマーク」2009.3.16
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010368.html
サインシステム、これは散歩道の案内標示の方法のことです。歴史の散歩道のサインシステムは、次の3つから構成されます。(1)シンボルマーク (2)案内板 (3)路面標示 シンボルマークは、主要な交差点等に掲げて、そこに散歩道があることを、案内板は史跡等の方向・距離を示し、サイン柱に標示しています。シンボルマークのデザインは、樹木と瓦を表現しています。樹木は散歩道の緑を意味し、瓦は難波の宮跡などの代表的な発掘品であることから、史跡を表現するものとして採用しています。路面標示(つたい石)は、そこが散歩道であることを知らせ、散歩道のコースと史跡箇所とを分けて標示し、より詳細に目的地へ案内できるものとしています。
《武田薬品「堀川寮」》(五代目武田長兵衛本宅)
530-0054大阪市北区南森町1-2
http://keikan.art.coocan.jp/n/n_44_02.html
2013武田薬品「堀川寮」建替工事(名和組)
【近江屋武田長兵衛】
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/009.html
《報道発表》2015.1.26北区菅原町に歴史顕彰板が完成しました
http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000295402.html
★「天満地区HOPEゾーン協議会」では、天神さんから大川浜へ「もてなし」のまちなみづくりをテーマに、天満の歴史や文化など地域の特性を活かした、魅力ある居住地づくりに大阪市と連携して取り組んでいます。かつて天満青物市場としてにぎわった水辺近くには、乾物問屋街であった菅原町を中心に、伝統的な建物や川に面して建てられた「浜蔵」などが今なお多く残っています。このたび北区菅原町に、「蔵のまち天満・菅原町」歴史顕彰板が設置されました。かつて「太平橋」が架かっていたところ、大川沿い遊歩道の西の方です。(北区菅原町)天満青物市場の歴史、菅原町の建物の特徴、今も「現役」の土蔵などを紹介しています。ぜひ現地で覧いただき、昔の面影をたどりながら大阪・天満の歴史あるまちなみをお楽しみください。
《北村商店「久宝寺屋」》
530-0046大阪市北区菅原町1-2/06-6361-2258
http://kita-ku.jugem.jp/?eid=353
https://www.rakuten.co.jp/oq-kitamura/index.html
《天満地区HOPEゾーン事業》2017.3.31
http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000116291.html
《天神橋筋商店街周辺回廊整備計画-天神橋大回廊-》
https://www.osaka.cci.or.jp/Chousa_Kenkyuu_Iken/Sonota/tenjinbashi_21.html