・・・「天満橋」から「天神橋」にかけての「大川」北岸沿いに、旧町名継承碑が集中して設置されています。
《大川》
http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000001321.html
北区は大阪の玄関口に位置しており、区の北側を流れる淀川は、毛馬から分かれ大川となって都心部に入り、中之島で堂島川と土佐堀川に分流します。北区は、この淀川、大川、土佐堀川に三方を囲まれており、便利な水運と豊かな用水を生かして今日まで発展してきました。江戸時代には、「水の都」「天下の台所」と称された大坂の拠点として栄え、中之島や堂島付近には蔵屋敷が立ち並び、天満青物市場、堂島の米市場等で賑わっていました。また、北部方面も、近代化が進むにつれて、淀川、大川等の用水と水陸の交通のよさを生かし、金属、紡績、パルプ産業等の工業が発達しました。区制の発足は、旧北区が明治12年で、明治22年の大阪市制の施行に伴い大阪市北区となり、旧大淀区は、大正14年の第2次市域拡張により東淀川区となり、昭和18年の分増区によって淀川左岸区域が東淀川区から分かれて大淀区となりました。平成元年2月13日、旧北区と旧大淀区が合区して、新しい北区がスタートしました。
大川はかつての淀川本流であるが、淀川放水路が開削された1907年(明治40年)以降は旧川扱いとなっている。当初「新淀川」「淀川」だった呼び分けは、次第に「淀川」「旧淀川」となったが、旧淀川は上述の区間ごとの名称で呼ばれることが多い。
中之島より上流が大川、または天満川、下流が安治川と呼ばれる。中之島では南北両岸に分かれ、北が堂島川、南が土佐堀川と呼ばれる。なお、河川調書では土佐堀川は別河川扱いとなる。
都島区毛馬町で淀川(新淀川)より分岐して南流、川崎橋をくぐると西流に転じ、東からは寝屋川が合流、天神橋の直前で、中之島の北へ堂島川、南へ土佐堀川となって分岐する。
堂島川はかつて大江橋の直前で堂島の北側へ曽根崎川を分岐していた。また、1878年(明治11年)には田蓑橋の上流側から大阪駅に向けて梅田入堀川(堂島堀割川)が開削された。しかし、曽根崎川は梅田入堀川より上流部が1909年(明治42年)の「北の大火(天満焼け)」で生じた瓦礫の廃棄場所になって埋め立てられ、1923年(大正14年)には下流部も埋め立てられた。梅田入堀川も1967年(昭和42年)には全て埋め立てられ、阪神高速11号池田線やオオサカガーデンシティの一部に利用されている。
土佐堀川は堂島川との分岐後すぐに南へ東横堀川を分岐、端建蔵橋の直前で南へ木津川を分岐する。かつては錦橋の直前で南へ西横堀川も分岐していたが、1962年(昭和37年)に阪神高速1号環状線の建設のために埋め立てられた。
中之島より下流には、かつて淀川河口に蓋をするように九条島が横たわっていたが、1684年(貞享元年)に河村瑞賢が水運と治水のために現在のような直線状に開削し、安治川と命名。九条島は分断され、安治川右岸側は西九条と呼ばれるようになった。沿岸の三角州には江戸時代半ば以降新田が作られたが、明治以降工業地帯へと変わっていった。
西九条地区と対岸の九条地区の間には河底トンネルである安治川トンネルがあり(安治川トンネル及び後述の渡船については大阪市の公営渡船を参照)その下流で六軒屋川と合流する。合流点のすぐ下流左岸には1990年代まで瀬戸内海航路の客船が発着していた弁天埠頭がある。そこから川幅が急速に広がり、大阪港の安治川内港が広がる。港区は工場などの地下水くみ上げによる地盤沈下が著しかったため高潮に弱く、1947年(昭和22年)より川の南岸を削って出た土砂で港区全体をかさ上げすると同時に、削った跡地に埠頭を整備したもので、川幅の面では2kmほど北を並行する淀川(新淀川)と比べても遜色ない。
天保山大橋より下流の安治川南岸は明治以後の旅客港としての築港で、最近まで高松市や小豆島まで客船が通じていた。またUSJへも観光船で行ける。天保山の対岸、安治川北岸の桜島や梅町は、築港にやや遅れて造られた工業港の北港で、天保山からは市営渡船で渡ることができる。
かつて築港は遠距離航路の旅客や輸出入貨物の拠点だったが、コンテナ化が進んだ1970年代以後は、本格航路のほとんど全てが戦後の埋立地にできた南港発着となった。
【新川崎町】
少し離れて2カ所に設置されており、しかも「町名由来」の部分の表現が少し異なっています。
●その1/当町は明治初期、西成郡川崎村の一部であったが、明治8年12月新川崎町となった。同12年2月北区に、同22年4月市制の施行にともない大阪市北区新川崎町となった。昭和19年4月天満橋筋2丁目の一部が新川崎町に編入された。同53年2月住居表示の実施にともない新川崎町は天満橋1丁目・天満1丁目の各一部となった。町名の由来は、当町域が川崎町と区別して大蔵省造幣局の敷地が新川崎町となったものである。更に、当町の北部分は明治29年に創立の三菱金属大阪精錬所(現三菱マテリアル)となった。平成7年3月 大阪市北区役所
●その2/・・・町名は、当町域に明治4年4月大蔵省造幣局が創設され、旧天満1丁目が先に川崎町と称していたことと区分して、局敷地全域に新の冠称が付けられたことに由来する。平成7年3月 大阪市北区役所
・・・表現が不十分だったので新しいものを設置し、古いものを撤去せずそのままにしたのではないかと思います。
【空心町1~2丁目】
町名は、仏照寺「言天満別院」の僧侶の名をとったという説があるが、詳細は不明である。
《参考》「北の大火」八軒家かいわいマガジンより
http://www.hachikenya.org/kiji/text/10063_120801.shtml
明治四十二年、七月にはいってからは雨も降らず、天神祭が終わっても焼けつくような日が続きました。空気は乾燥しきっています。おまけに七月三十日には台風が九州に接近、夜半から強い東風が吹いてきました。日が変って三十一日の午前四時。ついに怖れていたことが起こります。北区空心町から火の手があがったのです。火元は★空心町二丁目のメリヤス製造販売業玉田方。庭に備え付けていたランプを消し忘れていたのが、折からの強風に煽られて落下、近くに積んであったメリヤスに燃え移ったのです。これが「天満焼け」と呼ばれる北の大火の発端でした。
【金屋町1丁目】
町名の由来は、江戸時代天満組の惣年寄金屋氏宅にちなむとする説がある。
【朝日町】
町名の由来は「佳名による命名」かと考えられる。
【信保町1丁目】
町名は、延享年間(1716~35)、当町で製造販売された「しんぽ」という売薬があり、それが次第に町の通称となり、のちに「信保」の2文字をあてたことに由来するとの説があるが、信保町の町名は元禄8年(1695)の文書にすでに記録されている。
【岩井町】
町名は、岩層が厚く井戸を掘るのに苦労したが、そこから湧出する水は良質であったので、岩井町の町名ができたとする説がある。
【龍田町】
町名は、由来について「佳名による」とした資料もあるが確かなものはなく、元禄元年(1688)
版と伝える「辰歳増補大坂図」にすでに記載のある町名であり、天満本願寺(現天満別院)の門前町であった。
【壺屋町1丁目】
町名は、古く酒蔵があり、酒壺と関係があるのではないか、また陶器のみずがめ、油がめが販売されていたともいわれているが、元禄期以前の古町名を考察すると、壺屋町は茶染町であるところから、衣料繊維の染色用の壺が多数存在した町に由来すると考えられる。
【河内町1丁目】
町名は、江戸時代寝屋川筋の河内の人が集まり、商売を始めた町であったとの伝承による。
【滝川町】
町名は、元禄元年(1688)版と伝える「辰歳増補大坂図」にすでに「たき川丁」と記載があり、由来については明らかではないが、当地域に佳字表現として、朝日町・龍田町があり、当町も同種の命名かと考えられる。
【此花町1~2丁目】
町名は「難波津に咲くやこの花冬ごもり、今を春べにさくやこの花」という古歌に由来する。
【市之町】
町名は、江戸時代からのもので、天満青物市場の近くに位置することに関係するといわれている。市之町の町名成立は、江戸時代の絵図を検討すると1730~49年の間と考えられる。
【玉江町1~2丁目】
《玉江橋》
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000023595.html
大江橋や渡辺橋と同様に、元禄期の堂島開発によって架けられた橋である。この時、古代大坂に架けられていたとされる堀江橋の名前で復活されたが、のちに玉江橋と変更されている。玉江の由来は、『中之島誌』によると、欽明朝のころ堀江で美しい玉が見つかり、堀川戎神社の御神霊としたが、その場所を玉江と呼んだという縁起から命名したとされている。江戸時代、玉江橋の北には肥後藩、中津藩の蔵屋敷があり、南には久留米藩の蔵屋敷や理宝院という薬師堂があり、縁日には大層賑わった。明治18年の大洪水で流失した後、一たん木橋で復旧されたが、明治42年の北の大火で類焼している。その後、昭和4年に第一次都市計画事業によって近代的な3径間鋼ゲルバー桁に架け替えられた。昭和44年には高潮対策による嵩上とともに下流側に新橋が架けられ、拡幅された。また、平成3年には改装工事が行われ、堂島川の常安橋とともに、現代的なアルミ製の高欄や照明灯、タイル舗装が用いられている。
【常安町】
《淀屋常安》
https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/010.html
常安は土佐堀川の河原で、淀屋の蔵に集まってくる米を店頭に出し、私設の米市場を開いた。そこに仲買人が集まり、米相場が発展することになった。次いで幕府に中之島の開拓を出願し、常安請地として整備を進め、元和5年(1619)に完成した。近世大坂のインフラ整備を進め、大坂が「天下の台所」として発展する基盤を築いた。
【宗是町】
江戸期~昭和53年の町名江戸期は大坂三郷北組のうち中之島中央部、土佐堀川に架かる筑前橋北詰を少し西に入った内町で、西は田簑橋筋までを町域とした(宝暦町鑑)町名は、当地に住した早川宗是の名に由来する早川氏は大坂指折りの豪商である両替商千草屋(平瀬氏)の縁者とも、崇禅寺馬場の仇討ちの生田伝八郎の子孫ともいわれるが、詳細は不明(中之島誌)町域の過半は因幡鳥取藩蔵屋敷が占めていた元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によれば、家数2軒、役数12、年寄は置かれず鳥取藩屋敷名代として倉橋屋庄兵衛が任命されていた明治2年大阪北大組、同12年北区、同22年からは大阪市北区の町名大正14年旧鳥取藩蔵屋敷地に株式会社★大阪ビルヂングの社屋が完成し、町域の過半が同ビルにより占められることとなった大正9年の世帯数62・人口334(男187・女147)昭和53年中之島1~6丁目となる。
《大阪ビルヂング「ダイビル」》
《参考》土地区画整理事業等の換地確定図
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu160/web-content/sonota/choumei_kitaku.html
【西堀川町】
《NEWS》2016.1.21毎日新聞より
天神橋筋商店街の3丁目と4丁目の間に復元されている夫婦橋。その名前の由来、昔、大小二つの池があり、女夫(めおと)池と呼ばれていた所に天満堀川が開削されたので、女夫橋と名付けられた、という説のほかに、夫婦にまつわる悲しい伝説もある。昔、このあたりに仲の良い若い夫婦が住んでいた。しかし、生活が苦しく、夫は「3年たったら必ず戻って来る」と約束して出稼ぎに出た。妻は帰りを心待ちにしていたが、3年たっても夫は帰ってこない。悲しんだ妻は思いあまって池に身投げした。その後に夫が戻ってきて妻の死を知り、後を追って池に身を投げた。哀れんだ人々が、その池を女夫池と名付けた−−。この話は古い書物に出ており、上田秋成は「雨月物語」で似た話を書き、近松門左衛門も「津国女夫池」で題材にしており、女夫池は有名だったようだ。復元された夫婦橋の南側に、かつての写真が飾られている。1929(昭和4)年に架け替えられた、ガス灯を備えた近代橋だ。前回見た、地蔵堂の脇の親柱は、大正3年と刻まれていたから、その前の橋のだろう。夫婦の悲話が秘められた夫婦橋跡を、夜ともなれば家への帰り道を忘れた男たちがそぞろ歩く……。天満堀川跡をたどって扇町の交差点を西へ渡り、立ち飲みや沖縄料理店、ラーメン屋の並びを通って、阪神高速の高架下を南へ曲がる。堀川に架かる綿屋橋が陸橋となって残っている。「天満堀川跡には三つばかり、橋が残ってるんやけど、いずれも車を通すため」と大阪案内人の西俣稔さんが解説。堀川跡はたいがい埋め立てられているが、この部分は川底に道を付けている。だから陸橋が必要なのだ。“川底道路”は綿屋橋の南から急な下りとなり、橋を過ぎた所で地下に潜って東へカーブ。扇町公園東端の小高くなっている一角の下から出て天神橋筋に合流する。川底道路を車で通って、川底からポコンと大通りに出る度、不思議な感覚に襲われるのだが、地形を巧みに使っているのに感心する。「扇町公園の手前に扇橋が架かってたんやけど、その痕跡がこんな所に……」と西俣さんは綿屋橋から東へ歩く。足を止めたのは扇橋モータープール。消えた橋の名前は、近くのビルなんかに残っていたりする。商店街を南下して、豆腐屋さんの角を東へ曲がり、紅梅温泉の通りを歩く。このあたりは同心、与力町。その名の通り、江戸時代に同心、与力の役宅があったから。東西奉行所に与力が各30人、その下に同心が各50人。たったこれだけの人数で、天下の台所とうたわれた大坂の町を治めていた。この通りは、寺が並ぶ寺町だ。大坂の陣のあと、大坂城主となった松平忠明が、戦乱で焼けた大坂の町の復興を進め、その一環として寺を集めた。大坂城の守りを固める意味もあった。NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公、真田幸村は、大坂冬の陣で真田丸という出城を築き、徳川勢を打ち破った。先日、NHKの番組で、諸説ある真田丸の場所を特定していたが、それが天王寺の寺町の一角だった。寺の周囲に巡らせた塀の防御力と、広い本堂の使い勝手の良さ、高台に位置する立地を生かした陣構えだった、という。昔の寺社は戦乱と無縁ではいられなかったのだ。