・・・「旧第四師団司令部庁舎」は工事中で建物の姿は見えませんが、秋のリニューアル・オープンと比較するために、内部見学した時の画像を再掲しておきます。
《旧第四師団司令部庁舎》
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000393918.html
このたび、今秋開業予定の大阪城公園本丸広場にある旧第四師団司令部庁舎(もと大阪市立博物館)の改修後の愛称を「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」に決定しました。大阪の文化や娯楽が集まり、大阪の未来を担っていく場所になって欲しいという思いを込めました。大阪城公園の魅力創出、新たな賑わいづくりを目指し、大阪城天守閣を訪れる市民や多くの観光客を対象にした飲食、物販施設などを開業します。
第4師団の前身は大阪鎮台。創設時の歩兵連隊は、第8、第9、第10及び第20連隊からなる。創設間もない鎮台時代から佐賀の乱・萩の乱・西南の役に従事。隷下連隊は江戸や地方と違って士族や農民が少なく商人の割合が多い大阪連隊だったが、西南の役では示現流で斬り込んで来る薩摩武士相手に多大な損害を出すも奮戦し、明治天皇直々にその勇敢勇戦さを賞されている。
日清戦争時には遼東半島に上陸、同地の警備に当たる。日露戦争時には小川又次を師団長として、南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加した。
1937年(昭和12年)2月、師団は満州に駐屯し、まもなく盧溝橋事件が勃発。支那事変(日中戦争)では北支や満蒙を転戦していたが、1940年(昭和15年)7月に中支に派遣され、漢水作戦、予南作戦、江北作戦等に参加。1941年(昭和16年)9月には、第一次長沙作戦に従事。
この後、師団は大本営直轄となり、来るべき南方作戦に備えて部隊の集結と再編成を行った(編制を4単位制師団から、3単位制に移行。篠山の歩兵第70連隊は第25師団に編入された)。
1941年(昭和16年)12月8日勃発の太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦では、フィリピン攻略作戦に参加し、第2次バターン半島攻略作戦に従事。第4師団はコレヒドール島上陸に成功し同攻略戦の勝利に大きく寄与した。その後は本土警備に当たり、1943年(昭和18年)9月、再動員されることとなり、スマトラ島警備やビルマ方面を担当する第15軍の隷下に入りタイに移動、同国のランパンにおいて終戦を迎えた。
鉄道唱歌の東海道第1集57番の劇中にて、「三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豊太閤の築きたる 城に師団は置かれたり」と歌われた第4師団司令部は、大坂城本丸に置かれていた。前身の大阪鎮台本営も本丸に置かれ、1885年(明治18年)より本丸に移築された和歌山城二の丸御殿の一部(紀州御殿)に入り、第4師団創設以降も司令部は紀州御殿に入っていた。1918年7月1日、兵器部が大阪陸軍兵器支廠内仮事務所を閉鎖し司令部内に移転し事務を開始。
1931年(昭和6年)に大坂城天守の再建と同時進行で本丸南東角に新庁舎が建設され、移転した。これは、昭和御大典記念事業として大阪市が本丸の公園化および天守再建を計画したことによる。同年11月6日に大手前公園(1924年開園)と本丸を合わせ大阪城公園が開園。司令部庁舎の建設には市民からの募金のうち80万円が充てられた。設計は第4師団経理部によるもので、欧州の古城を模した重厚なロマネスク様式である。紀州御殿は大阪市に移管され、1932年(昭和7年)の陸軍特別大演習の際に昭和天皇の行幸があり、翌年に天臨閣と改称された。
一方で司令部庁舎には1940年(昭和15年)より、中部軍(兼中部軍管区)司令部が入り、第4師団司令部は二の丸南曲輪(現在の豊國神社鎮座地)に移転している。大坂城の東側には当時東洋最大と謳われた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)もあり、大戦末期の1945年(昭和20年)8月14日にアメリカ陸軍航空軍から集中的な爆撃を受けた。工廠の大半は壊滅し、城郭も石垣の一部が崩落する等の被害が出たが、司令部庁舎は頑丈なつくりであったため大きな被害を受けることなく大戦を生き抜き、天守と共に大坂城本丸の二大建造物かつ貴重な戦争遺跡として残っている。なお司令部庁舎は最終的には、1945年2月1日に旧中部軍を改編し編成された第15方面軍(兼中部軍管区)司令部となり、敗戦を迎えている。
敗戦後は占領軍に接収され、1947年(昭和22年)に占領軍の失火により天臨閣が焼失したが、司令部庁舎は1948年(昭和23年)から1958年(昭和33年)まで★大阪市警視庁(のち大阪府警察本部。現在は大手前に移転)、1960年(昭和35年)から2001年(平成13年)まで★大阪市立博物館(現在は大阪歴史博物館に改称され大手前に移転)として使用された。2017年(平成29年)秋にレストラン等が入居する複合施設として再オープンを予定している。
《参考》「Osaka Shion Wind Orchestra」大阪市音楽団
559-0034大阪市住之江区南港北2-1-10【ITM棟12階】/06-7668-5540
http://www.atc-co.com/guide/floor2.php
2015年3月16日に大阪市音楽団(通称:市音)から名称変更した。大日本帝国陸軍第4師団軍楽隊を前身として、1923年(大正12年)に誕生した★日本で最も長い歴史と伝統を誇る交響吹奏楽団である。2014年、一般社団法人による運営に移行(詳細後述)しプロの交響吹奏楽団となる。東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラと並ぶ、国内トップレベルの吹奏楽団との評価もある。テレビ番組等の各種メディアにおいても、これら3楽団を称して「日本三大吹奏楽団」とし、その一つとして紹介される事例も多い。永きにわたって、大阪市が市の直営事業(大阪市教育委員会事務局生涯学習部所轄)として運営しており、日本で唯一地方自治体が所管する専門吹奏楽団として知られていた。市直営時代は団員全員が「音楽士」の肩書きを持つ大阪市の専門職員(地方公務員)として採用され、公務として演奏活動に従事していた。主な活動は大阪市の公式行事での演奏の他、定期演奏会、市内の園児・児童を対象とした鑑賞会での演奏を行っている。また、外部からの依頼演奏として、選抜高等学校野球大会入場行進曲の録音(出場校に記念品として配布されるCD音源の作成)、全日本吹奏楽コンクール課題曲音源(参考演奏)の録音・録画、大相撲春場所千秋楽での式典演奏を請け負うほか、大阪市立中学校、高等学校および特別支援学校(中等部・高等部)を対象とした吹奏楽部の指導、自主制作CD「ニュー・ウィンド・レパートリー」の発売などを行い、吹奏楽の裾野の拡大に努めている。団員の給与を含めた団の運営費の大半が大阪市からの支出であったことから、市政改革の一環として楽団の存廃が取り沙汰され、2014年4月からは一般社団法人に運営が移管された。一般社団法人移管後も従前の活動のほとんどを継続している。
《参考》「たそがれコンサート2017」/於:大阪市立大阪城音楽堂
7/7~8/25の毎週金曜日に開催18:30~20:00(荒天時中止)
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000401616.html
●8月25日(金)
・大阪ビジネスフロンティア、工芸、東、南高等学校吹奏楽部合同
・Osaka Shion Wind Orchestra(Shionのステージは19:10〜20:00)