《ジーニス大阪》(菅原町地区第一種市街地再開発事業)
530-0046大阪市北区菅原町10-21
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu090/toshikougaku/d_05F0000272.htm
ジーニス大阪は、旧菅南中学校跡地を含む地区における組合施行の市街地再開発事業であり、公共施設等を含む42階建超高層住宅と中層住宅が、スカイウォークでつながれ、さらに、低層の屋上庭園には街角からも視認されるボリュームの緑を配置するなど、風景としての多様性の確保にも努めている。
http://www.obayashi.co.jp/chronicle/works/36800.html
大阪市北区の菅原町は、かつて大阪天満宮の門前町として栄えた地域である。その菅原町の菅南中学校跡地と隣接地区を敷地とする第一種市街地再開発事業として、ジーニス大阪が計画された。ジーニスは「美の極致、天の頂」という意味を持つ。西棟(42階)と東棟(20階)は分譲住宅で、低層棟には大阪市立いきいきエイジングセンターが設置されている。西棟には、当社のRC自動化建設システム「ビッグキャノピー」を採用。キャノピーと呼ばれる大屋根の下で、プレハブ化・ユニット化したRC部材を効率良く揚重・搬送し、組み立てていくもので、本工事が5例目となる。適用事例が増える度に少しずつ改良が施され、当工事では、キャノピーの組み立てに1スパンずつ組み立てながらスライドさせるスライド工法を採用することにより、下部躯体の工事を並行して行うことを可能にし、工期短縮を図った。解体の際も、キャノピーを中央に引き寄せて躯体の上で解体することで、安全性を高めるとともに、工期への影響を最小限にとどめた。大阪初のビッグキャノピー適用工事として、社内外の注目度も高い工事であった。
《NEWS》2013.2.22建通新聞社より
大阪市・青少年センターなど3施設の廃止・売却へ/市民利用施設の見直し実施計画
大阪市は、市民利用施設の見直し実施計画を策定し、青少年センターなど3施設の廃止・売却を決めた。いきいきエイジングセンターと舞洲野外活動施設は2014年度に売却、青少年センターは15年度以降早期に売却する。★青少年センター(大阪市東淀川区東中島1ノ13ノ13)は、芸術創造館への機能集約により14年度末に施設を廃止。その後、施設を売却するとしている。敷地面積は3385平方㍍。建物は、鉄骨鉄筋コンクリート一部鉄骨造10階建て塔屋2階付き延べ8667平方㍍。04年2月に開館した。★いきいきエイジングセンター(大阪市北区菅原町10ノ25)は、13年度中の売却に向けた手法の検討を行い、14年4月に施設を廃止。14年度に売却する計画。再開発ビルのジーニス大阪の1階、3階と4階の一部で、延べ床面積は約4000平方㍍。1階はエントランスと事務室、3階は定員360人で多目的に使用できるエイジングホール、水中歩行などの訓練専用の温水プール(縦横10㍍×深さ1㍍)、研修室や実習室など。本格的な高齢社会を見据え、高齢者の生きがいづくり、社会参加を総合的に支援する中核施設として03年4月に開業した。★舞洲野外活動施設(大阪市此花区北港緑地2)も、13年度中に売却に向けた手法の検討を行い、14年4月に施設を廃止。14年度に売却する計画。約3・4㌶の敷地に、宿泊施設(ロッジ、ログハウス)、キャンプ場などがある。1997年7月に供用開始した。このほか★愛光会館(母子福祉センター・大阪市北区中津1ノ4ノ10)は、大阪府母子福祉センターとの機能統合と区保健福祉センターなどへの機能移転(2015年度末)に向けて調整。★こども文化センター(大阪市西区北堀江4ノ2ノ9)は、築34年が経過し老朽化が著しく、現行施設を維持する場合には大規模は改修工事が必要となることから、他の施設への移転に向けた調査を実施する。
《菅南中学校・小学校・幼稚園のあゆみ》菅南中学校14期同窓会HPより
http://kannan14.sakura.ne.jp/kannancyuugakuhtm.htm
★天満菅原町水帳絵図(享保11年)大阪天満宮資料室編「大阪天満宮史の研究」第2集より
《NEWS》2016.10.4朝日新聞デジタルより
マンションに児童相談所の計画 住民反発「なぜここに」
児童虐待の相談対応件数が多いのに、児童相談所(児相)が1カ所しかなかった大阪市が、北区のマンションに新しい児相をつくる計画を検討している。だが、マンション住民が計画に反対。市は児相の必要性を訴え、説明会を重ねているが、平行線のままだ。「児相の必要性はわかるが、ここにつくる必然性がわからない」「市は説明責任を果たしていない」市が9月10日、北区菅原町の地上42階地下1階建てマンションで開いた住民説明会で、次々と反対意見が上がった。住民の女性(68)は「高齢者向け施設が付いているからマンションを買った。児相になるのは話が違う」と憤る。市はこのマンションの超高層棟3階と低層棟の1~4階に、2018年度に児相を新設する検討をしている。昨年度、市の児童虐待の相談対応は4664件と全国の政令指定市で最多。しかし市の児相は中央区の1カ所しかなかった。4カ所の横浜市や3カ所の川崎市、3カ所目を検討中の名古屋市に比べて少なく、「限界を超え、無理をして業務にあたっている状態」。緊急性の高い事案にすぐに対応できるよう、市の北部と南部に児相を1カ所ずつ増やす方針を決め、南部の児相は3日、平野区でオープンした。北部の候補として、市は今年2月から北区のマンションで住民説明会を始め、9月までに7回開いた。虐待を受けた子や非行少年らが過ごす一時保護所を併設する方針に対し、住民から「子どもが無断で外出したり、子どもを連れ帰ろうと親が押しかけたりして、住民に危害を加えないか」と心配する声が上がる。児相と居住エリアの出入り口は別で、建物内で自由に行き来できないが、敷地内の駐車場や屋外の通路を共有することになる。市が「児相の利用者が近隣住民とトラブルになったことはない」と繰り返し説明しても不安は解消されない。住民に根強くあるのは「なぜこのマンションが選ばれたのか」という疑問だ。マンションは03年に市と地権者が共同で再開発し、市が1~4階の延べ約4千平方メートルを保有。市は高齢者の社会参加を支援する施設「いきいきエイジングセンター」をつくったが、事業仕分けで「各区の老人福祉センターとの違いがわからない」と指摘され、15年3月末に閉鎖。担当の福祉局が売ろうとしたものの、買い手がつかず空いていた。一方、市こども青少年局は児相の候補地を三つの市有地に絞ったうえで、北区のマンションを選んだ。広いスペースが確保でき、築年数が浅く、交通の便もよいと判断したという。ただ、厚生労働省によると、マンションに児相を設置した例は「聞いたことがない」。説明会で「困難な親子にとって必要な場所」と賛成意見を述べた住民も「市は選んだ根拠をもっと具体的に伝えてほしい」と漏らす。住民らは9月14日、「住人が生活面で不安を抱える」と計画の見直しを求める陳情書を市議会に提出。署名はこれまでに全360世帯のうち184世帯から集まった。市の担当者は「現状では進められない。丁寧な説明を尽くしたい」と言う。吉村洋文市長は「最有力候補地であって最終決定ではない」と話すが、「反対が多いから別の場所とはならない」とし、他に候補地を探す予定はないという。
《報道発表》(仮称)北部こども相談センターの設置候補地について(平成29年3月3日)
http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000392907.html
複数の候補地から2つの候補地に絞り込み、交通アクセス、土地の状況等で比較検討した結果、利用者となる保護者・こども・関係機関の方々の利用しやすさを考慮し、アクセス性等に優位性がある、もと★西淡路小学校分校(東淀川区)に決定した。
・・・作者はわかりませんが、素敵なモニュメントです。そして、「旧町名継承碑」ではありませんが、気になる「標柱」がありましたので紹介します。調べるほどに、おもしろいことが次々に出てきました。
《吹子屋町筋》
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/2693/oldosaka5/osaka29.html
大阪市北区にある碑。天神橋筋に面した菅原地区内にある道。「ふいご」と読み、親しまれている。また、この場所には、★管南小学校や管南中学校があった場所としても知られている。現在は、マンションや高層ビルが建っている。
江戸時代の中頃、大坂天満の鞴町にたくさんの鞴職人が集まっていました。中でも吹子屋助右衛門とも大坂屋助右衛門とも呼ばれる鞴職人の家は数代に亘って鞴を作り、元祖ではないかと言われていました。その、天満から約4km谷町筋を南へ下った現在の天王寺区生玉町に生国魂神社があり、境内に鞴神社が祀られています。祭神は生島大神・足島大神・大物主大神です。境内には浄瑠璃神社(芸能上達の神)、家造祖神社(土木建築の神様)など、その中に全国唯一の鞴神社(金物・カマドの神)があります。鞴神社の 祭神は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、石凝杼売神(いしこりどめのかみ)香具土神(かぐつちのかみ)です。天満鞴町の職人達が、その商売の繁盛を願って鞴神社を祀ったと言われています。神殿の前庭にはふいごを置く台と炉、金床がしつらえられています。最大の 祭礼は11月8日のふいご祭りで、拝殿前に刀鍛冶が刀の鍛錬を行った様子を記録した写真が掲示されています。
・・・「吹子屋町」「吹子屋町筋」に関して、以下の資料にも記載があります。
●『大阪春秋』(新風書房)第36号「特集大阪の史跡と碑」前編
天神橋の西北、菅原町は菅原道真の名にちなんだ町名であり、宝暦九年(一七五九)の地図にも記されている。菅原町の東西に走る道路の一角に吹子屋町筋の石標がある。むかし銅吹業に用いる吹子(ふいご)(鞴)を製作する数軒の家があったので通称吹子屋町と呼ばれたもので、そのなかの一軒は大正末期まで残っていた。
●『てんま(風土記大阪)』著:宮本又次
天満の地には俗称・異名が少なからずあった。・・・滝川町より来て、西方天満堀川に達する市場裏側通りの北の通を吹子屋町、ふけ丁ともいった。・・・菅原町の浜筋を菅原一番町、同裏町筋を菅原二番町、同字吹子屋筋を菅原三番町と改称せられたから、・・・菅原町には銅吹業の吹子屋があったので、吹子屋(ふいごや)町と呼ばれる東西の道路があった。現在の菅南中学の前通りにその記念碑が建てられている。・・・この町内に俗に吹子屋町筋という東西の道路があった。大川から三筋目の東西にのびた町だ。いずれはそうした職人の多く住んでいたところであろう、いま菅南中学校の敷地は以前の菅南小学校のそれであった。
●『天満まるかじり–その歴史と文化』(大阪市立博物館)
フイゴの生産 江戸時代、天神橋北詰の菅原町には「吹子屋町」とよばれる町通りがあり、各種の箱フイゴの生産で著名であった。吹子屋町の存在は宝暦6年(1756)の「萬代大坂町鑑」にも記されており、菅原町の東西5筋の町通りのうち大川から3筋目の町通りをいうとある。また天満堀川にかかる樋之上橋は吹子屋橋ともよばれていた。延亨5年(1748)の「改正増補難波丸綱目」によると、菅原町には吹子屋助右衛門を頭として20軒余の吹子屋があった。また天明4年(1784)の「鉄山必用記事」には助右衛門のほかに甚右衛門という吹子屋の存在が記されている。同書には助右衛門の生産するフイゴの種類と大きさや代銀などについても記載されている。それによれば、小鞴・中鞴・大鞴・長割鉄鞴・銀山鞴・銅山鞴・小鉄鞴・三尺鞴の8種類のフイゴがそれぞれの用途に応じて生産されていたことがわかる。また幸いにも同書には助右衛門作の大鞴の図が記されている。箱の側面の板に「大傳馬大、四尺五寸」、「吹子屋助右衛門」などの墨書がみえる。菅原町におけるフイゴの生産は、少なくとも江戸中期頃に始まり、明治から大正の初め頃までおこなわれていたものと思われる。
●「難波の鞴師三木で死す」/文:三木市立金物資料館長:小田慎次
http://tessinsaihouraku.web.fc2.com/fuigosi.htm
明治の初め頃大阪には吹子町という町があった。吹子を作る職人が集まった町だったのだろう。鞴は幸左衛門と墨書きがあり金物資料館に展示してあります。ある三木の鋸鍛冶が仕事を止める時他の何点かの道具と一緒に資料館へ寄付をしたものです。三木の鍛冶屋の使っていた鞴はまだ残っていますが銘の墨書きが残っているのは少ない。表題の鞴師とは亀井幸左衛門氏の事を指す。幸左衛門氏は本名を幸治郎氏といい、明治六年に大阪市南区谷町六丁目六番地に生まれている。妻きくさん長女はるさん(明治三十六年生)を供ない、はるさん二十才の大正十三年に三木市福井二丁目六番二七号(旧三木町下町八五八番地)へ転宅して来ている。転宅の直接の動機は明らかではないが、推察するに明治中期より大正年間にかけて異常なまでに三木金物ブームが起こり、鞴師だった幸左衛門氏はそのニーズに答えて三木への転宅であっただろうと思われる。当時幸左衛門氏の作成していた鞴は凡ゆる「大阪づくり」と称して、鞴の底部に板ガラスが敷いてなく左側中央下に羽口(はぐち)の取り付け穴があるのが特徴で、高さ六0センチ幅三七センチ奥行き一一五センチのものであった。言うなれば左手利きの鍛冶衆にあわしたもので右足で鞴を漕ぐ、と言うユニークなものであったがやがて右手利きにも合わし左足で漕ぐと言った現形式に替えていった。只今三木市に現存する鞴の大部分は幸左衛門氏の手に成ると言われている。やがてはるさんは三木市福井一八五番地の井上清吉氏、妻みかさんの長男安太郎氏と昭和四年十月一九日婚姻の運びとなる。そして昭和七年七月二日に長男進氏を出産する。進氏は現在三木東高校の教諭である。先般来進氏を通し幸左衛門氏の資料を御願いしていたところその資料が届いた。それによると進氏を通じて母はるさんの語るには「幸左衛門は日本一の鞴師だ」と言う。その理由として鍛冶焼き入れの中でも鉋の焼入れが一番難しいとのことである。つまり肉厚の地鉄に鋼を鍛接する合し刃のそれを指していると思われるが、その鉋鍛冶の鞴を幸左衛門が特に心血を注いで作ったものだと言う。その焼入れの際に鉋鍛冶は足首のコビキ(とはるさんは言う)で風の送り具合がうまく行くようになっていたようだ。思うに焼き入れ前の鉋に瞬間激しいい風を、火窪に送り込むにはかなり鞴を酷使しなければならなかったであろう。それらの要素に耐える鞴の構造式、なりわい、にはかなり高い次元の要素がもとめられたものと思われる。為に他の鞴師の造った鞴が一台十円の時、幸左衛門氏のものは二十五円もらっていたと言う。その辺の様子をよく知っているのは当時秀れた鉋鍛冶の今井の忠やんがよく知っている。もし存命であれば忠やんに聞いて欲しいとの返事であった。早速調べたところその今井忠治氏は昭和五十八年九月二十八日、三木市末広三丁目(大開町)で八十七才で死去されており詳細が伺えず誠に残念であった。そして幸左衛門氏も昭和十五年に此の世を去っている。思うにひとりの浪速の鞴師が他国で鋭意精励し、此の道ひと筋に生き抜いて三木の地に骨を埋めたのである。その霊また以って冥すべしである。先般私が亀井幸左衛門氏の稿を進めていることを、大塚町の筒井俊雄氏に告げたところ、次のような資料を後日何かの参考にと頂いた。それによると明治初期頃、大阪市北区天満吹子町に、菱の中に井印吹子製造所井上九兵衛なる職人がいて、古来より通名吹子屋甚右衛門を名乗っていた様子。ただし井上九兵衛と亀井幸左衛門とが師系列であったかどうかは定かでない。 尚はるさんは今年八十三才でいまなお健在である。鍛冶土間にともる赤飯鞴祭 慎次 S63.4
《ふいご/鞴・吹子》
金属やガラスなどの精錬、加工用に使う簡単な送風装置。空気ポンプの一種で、小さな手風琴型ふいごは手工業用、実験室用のほか、ビニルプールの空気入れなどに使われている。古語では「ふきかわ」(吹皮)とよぶように、もともと皮袋を意味し、タヌキやシカの皮がおもに使われた。紀元前1500年ごろのエジプト王の墓標にもすでに皮袋型のふいごが刻まれている。『日本書紀』の天岩戸(あめのいわと)の条には、シカの皮で「天羽鞴(あめのはぶき)」をつくったことがみえている。世界各地で、原始、古代人が自然風力や、扇、吹き竹、吹管(すいかん)などのかわりにふいごを使い始めてから、人類の金属文化は飛躍的に前進した。日本では「まがね吹く吉備(きび)」ということばが『古今和歌集』などに出てくるが、「吹く」とは金属の精錬のことで、そのもっとも重要な道具の一つがふいごであった。鍛冶(かじ)、鋳物(いもの)業の人々が今日でも陰暦11月8日に「ふいご祭り」を祝うのは、ふいごが古代から冶金(やきん)業の象徴、技術発展の中心であったことを示している。近世初めには、把手(とって)を手で押し、また引いて、長方形横型の木箱の中に気密に取り付けたピストンを動かして風を押し出す、日本固有の「吹差(ふきさし)ふいご」が普及し、大坂天満(てんま)には「鞴屋町」とよぶ職人町ができるほど、専門の大工が多かった。『鉄山必用記事』(『鉄山秘書』ともいう)によると、「吹子は大坂助右衛門作の細工、風疾(はやく)て遣吉(やりよ)し」とも、「大坂天満、吹子屋助右衛門と言者(いうもの)、数代是(これ)を作り、京都江戸、其外(そのほか)も諸国元之(これ)を賦布(ふふ)す」ともある。しかしまた「鞴は其所々(そのところどころ)によりて違(ちがう)事あり、凡(およそ)鉄山程(ほど)吹子の風好物(かぜをこのむもの)はなし、金、銀、銅、皆鞴を用(もちう)れ共、細工最(もっとも)安きなり」とあるように、送風装置としてのふいごは製鉄業の場合に典型的な発展を遂げた。
吹差ふいご(または「さしふいご」)と並んで、ことに中国地方で広く使われた製鉄用ふいごに「踏鞴(ふみふいご)」がある。踏吹(ふみふ)きとも踏(ふみ)たたらともよぶが、大きな嶋板(しまいた)の中央に支点があり、その左右を交代で踏み、上下運動することによって送風する仕組みになっている。これがもとになり、ちょうどシーソーのような「天秤(てんびん)ふいご」が出現した。17世紀後期(貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)年間)の発明とされ、踏鞴の嶋板を中央から切って二つの部分に分け、その支点である軸を板の前後の両端に移し、左右2枚の嶋板の運動を連係させる釣り鉤(かぎ)を頭部に設け、ちょうど天秤ばかりのように、一方が下がると他方の板が自然に上がる仕掛けである。この発明によって、番子(ばんこ)とよばれる送風労働者の数は半減し、逆に鑪(たたら)とよばれる製鉄炉の容量はかなり大きくなり、生産力は画期的に高まった。こうして中国地方の製鉄業経営(砂鉄精錬を中心とする「たたら」吹き)は、18世紀後半(宝暦(ほうれき)~天明(てんめい)期)の吹差、天秤両ふいごの混在の時代を経て、天秤ふいご時代へと変わっていった。この送風装置は、砂鉄から鉄をつくる場合には適しても、鉄鉱石を還元し、安定的に溶銑(ようせん)(溶融状の銑鉄)の量産を図るには不向きである。1850年代(安政年間)に鹿児島や釜石に最初の洋式高炉(溶鉱炉)が築かれると、水車を動かして連続的に送風することが考えられ、縦長の木製の箱にピストンを仕掛け、これを水車に連結する方法が採用された。幕末の釜石の『橋野高炉絵巻』にその例がみられる。西欧の近世の高炉送風では、水車を動力にしても手風琴型の皮袋が一般であったのと比較すると、ヨーロッパの技術に学びながら日本在来の土着技術を巧みに生かしていったありさまがわかる。製鉄用送風はその後、蒸気力、ガスタービン、電力駆動などにかわる。これに伴って、ふいごも各種の送風機へと変革されることになる。
・・・ なんと「三木市」とつながっているとは、スゴイことです。
【菅原町】
もと天満10丁目の一部でした。菅原道真を祀る天満宮の南隣り位置しています。町名の由来は、もちろん菅原道真公によります。
《参考》「大阪市立天満中学校」
530-0026大阪市北区神山町12-9/06-6313-3717
http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=j512000
本校は大阪市立★菅南中学校と大阪市立★扇町中学校の統合により平成7年4月1日、大阪市立天満中学校として開校した。校名は、大阪三郷の一つである「天満郷」にちなんでおり、校章は梅の花で、学問を愛した「菅原道真公」を偲ぶとともに、早春にいち早く香る気品の高い梅のように、清らかに「逞しく伸びよ」との願いをこめて制定された。校訓は「真理・協調・発展」で、校章の花びらの直線部分は「真理」を、中心の円のまわり に整然と並ぶ花びらとおしべは「協調」を、また力強く五方向に伸びる花びらは「発展」を表している。また、日々の教育活動の目標として「自学・自律・思いやり」をかかげ、その実践に励んでいる。校区は、大阪駅から東・西・南・北の四方に広がる地域で、西天満・菅南 ・梅田東・北天満・済美・菅北・曽根崎・北野・堂島・中之島の10連合振興町会からなっており、校区内には大阪市立西天満小学校・菅北小学校・扇町小学校の3小学校が歴史を刻んでいる。
本校では戦争や貧困・病気・家庭の事情などにより、義務教育を修了することができなかった人たちのために設けられた★「夜間学級」も設置しています。本校の南西角にはモニュメント★「結ぶ」があります。これは、旧菅南中学校・旧扇町中学校、また、夜間と昼間の教育を二本の大樹とたとえ、しっかり結びつき一本となり、やがて天に満つ姿を表現しています。この思いの「結ぶ」を私たちは継承しさらに発展させていきたいと思います。教育の道は「家庭の教えで芽をだし、学校の教えで花が咲き、社会の教えで実がなる」とも言います。是非とも本校の教育方針や指導をご理解していただき、学校、保護者、地域の皆様との行動の連携だけでなく心の連携も大切にしながら、天満中学校の教育をさらに推進してまいります。今後ともご協力、ご支援をよろしくお願いいたします。大阪市立天満中学校長:浅田和義
・・・伝統文化・歴史をそのまま「形」として残すことは困難ですが、「思いや願い」を様々な碑やモニュメントに託して設置することが、次の世代へと語り継ぐきっかけになるのではないでしょうか。大切にしたいものです。