大阪市顕彰史跡 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「ピースおおさか」からの帰路、

 

★《報道発表》森の宮遺跡展示室を一般公開します

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=8YyC2FJkB_0J&p=%E6%A3%AE%E3%83%8E%E5%AE%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%B1%95%E7%A4%BA%E5%AE%A4&u=www.city.osaka.lg.jp%2Fkyoiku%2Fpage%2F0000399456.html

平成29年8月14日(月曜日)〜16日(水曜日)、森ノ宮ピロティホール地下階(大阪市中央区森ノ宮中央1丁目17-5)の「森の宮遺跡展示室」を一般公開します。 森の宮遺跡は、上町台地の東斜面に位置する縄文時代から近世までの複合遺跡です。森ノ宮ピロティホールの地下には西日本を代表する縄文〜弥生時代の貝塚があり、「森の宮貝塚」とも呼ばれています。埋葬された縄文時代の人骨も多数発見され、そのうちの1体を、「屈葬」という体を折り曲げる当時の埋葬方法のまま、発掘現場から切り取って展示しています。また、豊臣期の大坂城跡の範囲内にもあたっており、発掘された金箔瓦なども見学できます。森ノ宮ピロティホールを建設する際に行われた発掘調査では、縄文人や弥生人たちが食べた貝の殻に加え、狩猟や漁撈(ぎょろう)※の道具、煮炊きに使用した土器、耳飾りのようなアクセサリーなど、数千年前の生活を彷彿とさせる考古遺物が見つかっています。出土する貝殻が、海水に生息するマガキから淡水に棲むセタシジミへ移り変わることから、河内平野が海から湖へと変遷する過程をうかがうことができます。

年に数日だけ公開される展示室ですので、ぜひこの機会に見学ください。

 

 

《大阪市顕彰史跡》

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009028.html

市制70周年記念事業の一環として、昭和34年より大阪ゆかりの史跡や文化財の所在地に、顕彰碑や顕彰パネルを設置し、市民の大阪の歴史に関する理解を深めていただく一助としています。平成29年6月で、★232箇所が顕彰史跡となっています。

 

・・・ちなみに現在、私が確認しているのは10カ所程度です。ハハハ

 

 

《参考1》玉造を応援する情報サイト

https://www.tama-tsukuri.info/%E7%8E%89%E9%80%A0%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E7%8E%89%E9%80%A0%E3%83%88%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/%E9%A1%95%E5%BD%B0%E5%8F%B2%E8%B7%A1-%E6%8C%87%E5%AE%9A%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1/

森の宮貝塚が大阪市顕彰史跡になる一方、『森の宮貝塚出土人骨』11体(一括)が★2014年6月に大阪市指定有形文化財に指定された。一般公開では、装身具として加工された人骨(人骨製装身具)を新たに展示品に追加した。亡くなった人の骨をネックレスなどの装身具に加工するなんて、現代では考えられないことだが、縄文時代には珍しいことではなかったようだ。発掘された人骨製装身具(写真下。穴は歯を抜いた跡)は完全な形で残っており、これは全国的にも希少性が高い。森の宮貝塚第3次発掘で人骨が初めて発見された。人骨第1号は、15歳前後で亡くなった縄文人で、発掘された当時は★「大阪市民第1号」と呼ばれ、マスコミをにぎわせた。大阪市指定文化財に選ばれたのを機に、その頭部を新たに展示した。

 

《参考2》大阪市史編纂所「大阪の歴史」より

http://www.oml.city.osaka.lg.jp/?page_id=1145=#_6362

わが国ではじめて土器が使われたのは、今から1万年あまりもむかしのことです。その土器を縄文土器とよんでいます。このころ気候が温暖化して海面が上昇し、6000~7000年前には、左の図のように生駒山のふもとまで海になりました。そこではいろいろな魚にまじって、クジラも泳いでいました。人びとは、木の実やけもののほかに海にすむ魚や貝も食べるようになりました。そのようすを私たちに教えてくれたのは★「森の宮遺跡」の貝塚です。貝塚からはクジラ、イルカ、タイ、スズキなどの骨や、けものの骨でつくった釣り針、ヤスなどがみつかっており、当時の人びとのくらしがよくわかります。2400年前ごろ、中国・朝鮮半島から米作りの技術が伝わりました。しばらくすると、青銅で道具を作る技術も伝わり、人びとの生活は大きく変化しました。この時代を弥生時代といいます。人びとの生活は豊かになりましたが、米作りのための人手や、米のたくわえがどれだけあるかで、その豊かさは大きくちがいました。そのため人びとはムラのまとまりを強くしていきましたが、一方でムラどうしの争いも激しくなりました。やがて多くの村がまとまってクニができ、さらにクニどうしがあつまって、より大きなクニができていきました。

 

 

◆【森之宮遺跡展示室】◆

大阪市中央区森ノ宮中央1-17-5森ノ宮ピロティホール地下

https://osaka-chushin.jp/spot/673

縄文時代の大阪は、大阪湾が今よりもずっと内側に入りこんでいたという。その海に突き出した岬にあったのが、今の森ノ宮だ。そこで発見された貝塚は西日本最大といわれ、大量のマガキやセタシジミの貝殻が出土している。塩水に生息するマガキから、淡水に住むセタシジミへの移り変わりが、河内平野が徐々に陸地になっていった経過を物語っている。この遺跡からは当時の縄文人の骨が、多数見つかっている。昭和49〜50年(1974〜75)に行われた第3次調査の際に発見された最初の人骨は「大阪市民第1号」と名付けられ、新聞にも報じられて話題になった。その後も発掘が進み、結果として計17体もの人骨が出土。そのうちの1体、30歳代の女性の骨が展示室に安置されている。屈葬という体を折りまげる当時の埋葬方式のまま、きれいな形で安置されている。発掘調査は、★大阪市立労働会館(アピオ大阪)の新築工事に伴って行われた。発見された土器や人骨が展示されているのは、そのアピオ大阪の中にある森ノ宮ピロティホールの地下だ。「大阪市内で縄文時代を中心に扱った資料室は、ほかにはありません」と大阪市文化財協会。遺跡からは縄文時代だけでなく、弥生時代や古墳時代の遺物も発見されている。

 

《参考3》「森ノ宮ピロティホール」

★大阪市立労働会館(現・大阪市こども相談センター)に併設する形で1979年に開場した。旧日生球場の東隣に位置している。大阪市の財政改革の一環で市の施設としては2007年度限りでの廃止が決まり、2008年3月末に一旦閉館。その後、民間企業への貸し付けを前提に改修工事を行い、2009年6月に一般競争入札により、キョードー大阪と定期建物賃貸借契約を結び、2010年に再オープンした。敷地の周辺一帯にある森ノ宮遺跡の保存のために、特殊梁による高床式(ピロティ)構造を採用した珍しい建築様式である。森ノ宮遺跡からの出土品を展示した★「遺跡展示室」が存在する。テナントとしてワタナベエンターテインメント関西事業本部が入居しており、劇団Patchなど関西を拠点としたタレントや全国区で活躍するナベプロ所属タレントの関西活動拠点としても使われている。

 

 

★森之宮の地名は、当地にある鵲森宮(かささぎもりのみや。通称「森之宮神社」)に由来すると考えられている。

http://www.morinomiya.net/

江戸時代、現在の中央区森ノ宮中央から玉造の一帯には、大阪城玉造口の警護を担当する与力・同心が居住する同心屋敷が建ち並んだ。またなにわの伝統野菜「玉造黒門越瓜」の栽培地ともなっていた。明治時代になり、現在の大阪城公園の場所に大阪砲兵工廠が設置された。これに伴い、大阪砲兵工廠のすぐ南側に位置する森之宮・玉造界隈は、工場に勤める人たちの町として発展した。1932年には国鉄城東線(現在の大阪環状線)の森ノ宮駅が開業している。また現在の城東区森之宮にあたる一帯には陸軍の城東練兵場があったが、その後1940年に大阪砲兵工廠の拡張用地として転用されている。第二次世界大戦期には戦災のため、町は壊滅的な被害を受けている。アピオ大阪の場所にあった「森之宮国民学校(現在の大阪市立森之宮小学校とは別の学校)」は、戦災被害のために終戦直後に玉造小学校に統合されている。1960年代には城東練兵場・大阪砲兵工廠跡に日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)森之宮団地が建設され、1967年8月に入居が開始された。公団森之宮団地は、広大な土地にまとまった数の住宅と生活関連施設を計画的に建設する「面開発」住宅★第1号とされている。

 

《蛇足1》「之」と「ノ」

●森ノ宮電車区(近モリ):大阪市中央区にあるJR西日本(西日本旅客鉄道株式会社)の車庫と乗務所

●森之宮検査場:森之宮検査場は大阪市城東区にある大阪市営地下鉄 の車庫と乗務所

 

・・・上記のように、住所や名称の混乱をさけるために「ノ」「之」「の」などが使い分けられたと考えられます。

 

《蛇足2》「之」と「乃」

「之」には日本語の助詞「の」に当たる意味があります。「乃」には日本語の助詞「の」に当たる意味はありません。いわゆる万葉仮名、真仮名に当たります。古い字音が「ノ」だったのです。「乃」を草書のように崩した字体から今の「の」が生まれました。中国では「乃」は「すなわち」という意味に使います。「之」とは全く関係がありません。

 

 

・・・疲れてはいますが「大阪城」へ寄らずに帰るのは心残り、大阪城公園に引き返します。