北区(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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はじめに

・・・これまで「街アート」で「旧町名継承碑」を発見するたび、紹介してきました。もとより323基すべてを発見することは不可能、でも100基くらいは見つけられるだろうと、タカ(高)をくくっていました。そして、とうとう目標に達しましたので、ドドッ~と一挙公開したいと思います。

 

《旧町名継承碑》

住居表示の実施により、複雑に入り組んだ町名や町域を統合整理し、わかりやすい住居表示になるよう整備してきたところである。町名については、「住居表示に関する法律」第5条第2項に、住居表示の実施に伴い新たな町区域を定めた場合には、町の名称はできるだけ従来の名称に準拠して定めなければならないとされていることから、大阪市においても、法の趣旨をふまえ、「大阪市町名町界整理方針」に基づき定めてきたところである。 しかし、飛び地の場合等、どうしても、従来の名称に準拠し難い場合も考えられ、住居表示の実施に伴いやむを得ず由緒ある町名が変更されることもある。そこで法第9条の2において、市町村は、従来の名称がその地域の住民に永年にわたって親しまれ、当該地域の歴史、伝統、文化を継承するものであることに鑑み、その保存継承を図るため、標識の設置、資料の収集その他必要な措置を講じるよう努めなければならないものとしている。 大阪市においては、平成4年度から5年計画で、市民の憩いの場所などに旧町名継承碑を設置した。 住居表示の実施により消えた町名は、大阪市内に400町余りあり、その町域内に1基ずつ設置することとし、碑文には旧町名・町名の存立期間、町名の由来等を記載している。また、碑は鋼製で石材塗装仕上げで、碑文版にはチタン板を使用している。 「大阪市旧町名継承碑設置要綱」により設置し、9年度までに★323基を設置し事業は完了した。

 

 

《常安町》

http://www.nakanoshima-style.com/topic/2006/09/post-109.html

土佐堀川に面して東西に延びた「常安町」は、その名のとおり豪商★淀屋常安が開発したことから名づけられました。この常安町と背中合わせに位置していたのが常安裏町です。北の玉江橋と南の常安橋をつなぐ常安橋筋(現在の「なにわ筋」)の賑わいは、明治以後、商店街が少なかった中之島にあって最も永くその面影を残していたそうです。また、当時の堂島川沿いには各藩自慢の松が植えられていました。中でも常安裏町沿い、堂島川のほとりの久留米藩と広島藩の境の浜の松は、その枝ぶりが蛸(たこ)の泳ぐ姿に似ていたことから「蛸の松」と呼ばれる名木でした。現在、対岸の田蓑橋北詰には、かつての風趣を偲んだ「蛸の松」が再現されています。

 

《参考》常安橋

http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000000984.html

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000022288.html

http://www.osaka-info.jp/jp/facilities/cat20/3109.html

土佐堀川に架かり、大阪市北区と西区を結ぶ橋。淀屋常安が私財を投じて架橋したが、もとは同位置に「田辺屋橋」があったそうだ。淀屋は本宅を大川町(現中央区)においたが、中之島の開発に尽力し、17世紀後半には日本一の豪商として知られた材木屋。現中之島四~六丁目はもともと「常安町」といい、淀屋常安が開発した土地だ。江戸時代当時、付近には蔵屋敷が建ち並んでおり、物資の運搬のため商人たちはみずから架橋していたようだ。大正10年(1921)からスタートした第一次都市計画事業の際、幅員11.4mの3径間ゲルバー式の鋼桁が架けられ、近代的な橋となった。さらに戦後になって、下流側にほぼ同じ幅で鋼桁形式のどっしりとした安定感のある橋が新たに架けられ、現在に至っている。

 

・・・ということで、「北区」で発見した継承碑から紹介していきます。

 

 

《老松通の道標》天満宮 是ヨリ東七丁 左 天満天神社さんけい道
明治37年7月建之 老松町1・2・3丁目有志中

この道しるべは、明治36年3月梅田停車場(大阪駅)と大江橋の間に梅田新道が出来て、天満宮参詣道案内の為ここより西100m、今の御堂筋角に建てられたものです。昭和45年、新御堂筋の開通などで周辺の環境が著しく変わったので、建立当時の主旨に則り、参詣者の便宜の為昭和57年9月この地に移しました。

 

《老松通り》

530-0047大阪市北区西天満3~4丁目界隈

http://www.osaka-info.jp/jp/facilities/cat24/6102.html

かつては大阪天満宮の表参道として栄えた老松通り。今は大阪天満宮に合祀された「老松神社」が、通りの名の由来。神功皇后が筑紫からの帰路に、現老松通り付近の町にあった巨木のおかげで風浪を避け、無事に上陸できたことへのお礼に、巨木付近に神社を建立したことからこの名前になったとされる。現在この通りには80軒前後の骨董品店や画廊などが軒を連ね、熱心な骨董ファンだけでなく、昔ながらの雰囲気漂う町を味わいにくる人々が散策する。

 

 

《老松公園(三角公園)》530-0047大阪市北区西天満3-9

 

・・・西天満3丁目交叉点の一角が広場状に整備されています。公園名を示す大きな看板はありませんが、"大阪天満宮参道"の顕彰碑が設置され、その隅に「老松公園」と表示があります。「天満宮参道」というより、公園が整備された最大の理由は「北区の歴史(旧町名継承碑)」にあるようです。この案内板のおかげで、目標の100基に到達しました。

 

http://www.oimatsu-cho.gr.jp/#

西天満と聞いても、いまいちイメージが湧かない方でも、旧町名「老松町」と言えば、市内屈指のアートの街だとご存知のことでしょう。大阪駅前エリアと南森町エリアのちょうど中間に位置し、大阪天満宮の表参道として栄えた街、老松通りを中心に約80件ものギャラリーや古美術商が集積しています。繁華街ではなく、オフィス街でもなく、住宅街でもない。いかにも老舗な小料理屋や、昭和な香りぷんぷんのスナックが並ぶこの風情は“しっぽり”という言葉がピッタリではないでしょうか。

 

《老松通り》

http://www.osaka-info.jp/jp/facilities/cat24/6102.html

かつては大阪天満宮の表参道として栄えた老松通り。今は大阪天満宮に合祀された老松神社が、通りの名の由来。神功皇后が筑紫からの帰路に、現老松通り付近の町にあった巨木のおかげで風浪を避け、無事に上陸できたことへのお礼に、巨木付近に神社を建立したことからこの名前になったとされる。現在この通りには80軒前後の骨董品店や画廊などが軒を連ね、熱心な骨董ファンだけでなく、昔ながらの雰囲気漂う町を味わいにくる人々が散策する。

 

 

《鉾流橋》

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000024056.html

天神祭の際行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられているため古い印象を受けるが、初めてこの地に橋が架けられたのは大正7年のこととされている。大正5年に大阪控訴院が新築されており、大正7年には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成するなど周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まっていたものと思われる。天神祭の宵宮に神鉾を川に流す行事「鉾流しの神事」は現在も鉾流橋のたもとで行われている。現在の橋は、昭和4年完成した。高欄、照明灯、親柱など日本調にクラシックなデザインが採用されたのは天神祭の船渡御が行われることを考慮したデザインであろう。その後、戦争中の金属供出などによって、これらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備された。

 

《西天満★若松浜公園》

http://www.city.osaka.lg.jp/kita/page/0000002164.html

堂島川と裁判所の間にある小さな公園。中央公会堂がきれいに見えます。

 

《参考》西天満今昔

http://www.nishi-temma.csd-g.com/information.html

大阪市北区西天満はかつての、旧樋之上町、★旧若松町(以上現西天満一丁目付近)旧真砂町、旧絹笠町(以上現西天満二丁目付近)旧伊勢町、旧源蔵町、旧老松町一、旧老松町二(以上現西天満三丁目付近)旧梅ヶ枝町南、旧老松町三、旧神明町(以上現西天満四丁目付近)旧西堀川町、旧富田町、旧木幡町(以上現西天満五丁目付近)旧梅ヶ枝町北(以上現西天満六丁目付近)と旧町制の15町からなり、現在一~六丁目に区分けされています。中でも、現在も大阪天満宮の天神祭の陸渡御のコースとなっている、旧老松町一,二,三は現在も老松通りとして古美術商やギャラリー、グルメショップ等が立ち並ぶ大人のスポット的な街並みになっています。初春の十日戎、夏は天神祭、春秋は古美術祭、合間もオシャレなグルメやゆったりした街並み散策など魅力たっぷりの西天満界隈。あなた自身の西天満スポットを探してみてください。

 

 

《樽屋橋》

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000031026.html

豊臣時代から江戸時代にかけて開削された天満堀川には、江戸時代すでに多くの橋が架けられていた。しかし、この川も昭和47年までに埋め立てられ、橋も姿を消した。樽屋橋の架かっていたところには、撤去当時の親柱が残っている。

 

《参考1》上方落語「米揚げ笊」

http://kamigata.fan.coocan.jp/kamigata/rakugo24.htm

【主な登場人物】お前(ま)さん、丼池の甚兵衛はん、★天満源蔵町の笊(いかき)屋重兵衛はん、丼池筋の通行人、堂島の相場師、番頭

 

《参考2》「提灯のお話」(あるっく第10号天満の語り部より)

<語り> 提灯舗(有)かわい五代目・河合清為さん

https://ja-jp.facebook.com/chochin.kawai/

http://kita-ku.jugem.jp/?eid=304

提灯はね、やっぱりハレの商品なんですよ。そやから、提灯屋が繁盛してる町は祭りが盛んで、活気があるということですなあ。天神祭の提灯は、もともと★源蔵町の小松商店という古いお店がずっと納めたはって、戦前はウチもそこに材料を卸してました。しかしそのお店も商売をやめはったさかいにねえ、それからはウチが直接納めさしてもらうようになりました。天神祭の時に町内に吊るされる提灯見てもろたら、字のような絵のような不思議な象形文字が書かれているのに気が付かれた方があると思いますが、あれは各町々でみな違うんです。また、それぞれの象形文字にはちゃんと意味があるんです。例えば樽屋町の提灯には「尊木(そんぼく)」と書いてあります。それだけやったら何のことかわかりませんが、木(き)偏に尊(とうとい)と書いたら樽(たる)になるでしょ。老松町1丁目には、「夜燈」と書く提灯もあります。そんな町々にある提灯の表記は天満界隈に限ったことやなく、大阪のあちこちに伝わっているんですねえ。最近ではそんな注文も多いので、息子たちはいろいろと史料を調べて、昔の習わしを復活するように勉強さしてもろてます。略式の提灯を張るところは全国になんぼでもあるんですが、最近では正式に提灯を張れる職人がおらんようになってしまいました。ウチの職人は私が商売を始めて2番目に雇うた人で、もともとは

提灯の販売をしていたんですが、地方のお得意さんを回るうちに、提灯や番傘を張る技術を見よう見まねで覚えてくれました。大阪でも、もう一人しかおらん貴重な人材ですわ。

 

《参考3》「月刊・島民」Vol.48/2012.7.1より

https://nakanoshima-daigaku.net/

https://nakanoshima-daigaku.net/about/tomin/

老松通近くにあった源蔵町も、源蔵なる人物が江戸初期に実在したと言われている。当時は土地所有者の名をとって「○○屋敷」と名付けて地名とする例が多く、この場所も「源蔵屋敷」で通っていた。有力者と言えど住んでいただけで名前が町に残るとは、彼らも鼻が高いに違いない。