北区(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【訃報】2016.8.23

天神橋筋商店街の土居年樹さん「自分らが訴えなあかん」繁昌亭実現へ尽力

「日本一長い商店街」といわれる天神橋筋商店街の連合会長などを歴任した土居年樹さんが、79歳で亡くなった。「シャッター商店街」が全国的に増える中、攻めの姿勢で商店街を再生。平成18年にオープンした上方落語の定席「天満天神繁昌亭」実現へ力を尽くし、商店街の存在を全国に知らしめた。土居さんは大学在学中に父を亡くし、家業である現在の土居陶器店に就職。しかし、やがて、スーパー進出などもあって空き店舗が出始めた。「商店街の機能がだんだん失われていっとる。行政も学者も何も言いよらんから、自分らが訴えていかんとあかんのや」と立ち上がった。

【土居年樹】

http://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/jinzai/charisma/mr_doi.html

1937大阪市生まれ。追手門学院中・高校を卒業後、同志社大学商学部に進むも、父の急逝により家業を継ぐため中退。19歳で株式会社丸玉一土居陶器店の代表取締役に就任する。1976商店街活動に参加。 1981仲間と共に日本初の商店街立「てんさんカルチャーセンター」を開設。商店街でのソフト面、文化活動の先鞭をつける。1986天神橋三丁目商店街振興組合理事長に就任。1995大阪市北区商店会総連合会会長となる。この間に、商店街とその周辺の活性化に向け、ソフト・ハードの両面に尽力し、数多くの成果を上げる。商店街では日本初の事業、鳥居型アーケードの完成や、「町街(まちがい)トラスト」運動などを策定・実施するなど、次々に斬新なアイディアで「街活かし 」活動を展開する。2002年20年にわたる商店街活動を著した『天神さんの商店街ー街いかし人いかし』を出版。2004黄綬褒章を受賞。2005国土交通省「観光カリスマ百選」に選定される。桂三枝師匠(現・六代 桂文枝)とともに「天満天神繁昌亭」開設準備委員会代表として活動。2006市民より募金を募り、9月に念願の上方落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」が完成。2007 (財)あしたの日本を創る協会「あしたのまち・くらしづくり活動賞」内閣総理大臣賞受賞。天神橋三丁目商店街振興組合理事長、天神橋筋商店連合会会長、大阪府商店街振興組合連合会副理事長、大阪府陶磁器商業協同組合理事長、大阪販売士協会会長、大阪府商工会議所常議員、NPO法人・天神天満町街トラスト代表理事、NPO法人上方落語支援の会代表理事、内閣官房委嘱地域活性化ナビゲーター。2016年8月没。

 

 

《参考1》天五天六は明治生まれ、大正時代、社会福祉の先駆けも

大阪案内人の西俣稔さんは、天神橋筋商店街を北へ歩く。人でいっぱいの「日本一長い商店街」は、天五から通りが狭くなるから、人混み度は高くなる。西俣さんに、なんで狭くなってるのか尋ねたが、「んー」と首をひねるばかり。そこで商店街の生き字引、三丁目商店街の会長を長く務めている★土居年樹さんに伺うと、「田んぼのあぜ道やったからや」と即、答えが返ってきた。「江戸時代から一、二、三丁目はあって、あとは明治以降にできたと言われてる」と。その先の、左に曲がれば天五中崎通商店街へ、右に曲がればいつも行列ができている春駒寿司という四つ辻で、西俣さんが立ち止まる。1885(明治18)年の地図を取り出し、「今まで歩いてきた商店街は旧亀岡街道やねん。で、街道はここで右手へ折れてる。商店街はここまでしかなかった」。地図を見れば、この先は空白。さっきの土居さんの話とつながる。「天神橋筋いまむかし」(天五史監修委員会)をめくってみると、明治初めの町名改正で天神橋筋1~4丁目ができたが、5、6丁目はまだ存在せず、それどころか大阪市でもなく、西成郡川崎村だった。大阪市に編入されるのは1897(明治30)年まで待たねばならない。明治半ばから5、6丁目にも人家が増え、商人も移ってきた。ことに古着屋が多かったという。毎月4回、夜店が立ち、植木や古本、衣類、食べ物などがブロックで分かれて並び、にぎわった。さらに拍車を掛けたのが1925(大正14)年、天六に駅ができたことだった。新京阪鉄道(今の阪急)が天六−淡路間を開通、昭和初めには京都の桂や嵐山、四条大宮とをつないだ。梅田からは京都への直通電車はほかになく、花見どきともなれば、一升瓶をぶら下げた人たちでごった返したという。数年前まで、天六駅のプラットホーム跡がスーパーのビルに残っていた。地下鉄堺筋線が阪急と乗り入れ、天六と京都までつながっているのも、こういう歴史があるからだ。 つまり明治後半から、何もなかった所に商店が並び始め、天六に駅ができて、今の天神橋筋商店街の原型ができあがったというわけだ。そういう成り立ちの違いがあるからか、1~3丁目と4~6丁目は長らく、一緒にイベントをすることがなかった。98年、1~丁目が足並みそろえて戦後初めての誓文払いをする。一方で、大正時代には天六から北はスラム街となっていた。18(大正7)年の米騒動をきっかけに、貧しい人たちを救済する目的で、21(大正10)年、北市民館ができる。今の「大阪くらしの今昔館」が入っているビルの場所だ。市民館の4階建ての建物はツタに覆われ、「愛のツタ」と呼ばれたという。空白の場所にできた新しい街に、繁華街とスラム街が隣り合わせるのは宿命のようなものだ。それを放置せず、全国に先駆けて社会福祉の取り組みが行われていたことは、覚えていてほしい。

 

《参考2》大阪市制120年記念、天神橋筋の歴史を冊子に/地名の変遷や史跡紹介

1889年の大阪市の市制施行で、「天神橋筋」が北区の地名になって、今年で120年。これを記念して、天神橋三丁目商店街振興組合が冊子「天満天神物語」を作製した。天満の歴史概説やエピソード、民話、わらべ歌、大塩平八郎や井原西鶴らゆかりの人物、史跡などを紹介している。執筆した土居年樹理事長(72)が力を入れたのが★旧町名の解説。77~78年の町名変更で、老松町や鳴尾町、地下町など江戸時代以来の由緒ある町名が消された。樽屋町は、樽の原料となる材木を扱う商人が店を構えていたことに由来し、西鶴の小説「樽屋おせん」の舞台にもなった。また、奉行所の役人の与力が住んでいた与力町は同心に変わり、役人の階級では“格下げ”に。土居さんは「町名はそれなりの理由があって付けられていた。変更されて、町の歴史や特性がわからなくなった。何らかの形で、古い町名を大事にしていきたい」と話す。25日に開かれる「天神橋筋120周年と天満天神繁昌亭3周年を祝う集い」で、冊子を出席者に配布する。冊子希望者は天三おかげ館へ。

 

 

《参考3》「味の素グループ」の歩みより

https://www.ajinomoto.com/jp/aboutus/history/chronicle_2013/02.html

1920(大正9)2月1日は、(株)鈴木商店(現、味の素(株))大阪出張所が、大阪支店に昇格した日です。1909(明治42)年5月から「味の素®」の一般販売を始めたものの、薬用の瓶を容器に使用し、薬の小売店に販売を委託した為、薬と間違われることもよくあり、販売は全く不振でした。そこで、薬店でなく食料品や酒類の販売店で販売することにしました。当初は日本橋の鈴木洋酒店(現、伊藤忠食品株式会社)および銀座の亀屋鶴五郎商店(第二次世界大戦中に閉店)を販売店とし、12月には、大阪の松下(善四郎)商店(現、伊藤忠食品株式会社)、名古屋の梅澤商店(現、三井食品株式会社)、これに鈴木洋酒店を加えた3店を大特約店(代理店)としました。その後、関東地方においては、国分商店(現、国分株式会社)と日比屋商店(現、三菱食品株式会社)を加え、鈴木洋酒店とともに関東の3大特約店としました。関西地方においては、松下商店の販売力に負うところが大きかったので、二代鈴木三郎助(初代社長)は、1910(明治43)年8月に松下商店を近畿地方以西の総代理店とすると同時に、東京以外で初の営業拠点として大阪市北区★若松町23番地に大阪出張所を設置しました。建屋は二階建ての閉店中の商店を改造した狭い事務所でした。大阪出張所は、1914(大正3)年6月には北区★鳴尾町に移転しますが、その頃には天満や難波方面の乾物問屋が本格的に「味の素®」の販売に力を入れてくれるようになりました。「味の素®」の普及とともに管轄地域が拡大し、西日本から北陸に及ぶ範囲をカバーするようになりました。また、取り扱う商品も増え「味の素®」だけでなく、澱粉や化学薬品も担当するようになって、販売実績は本店をはるかに凌いでいました。社員数も次第に増え11名程度になっていました。そこで販売・広告の責任者であった鈴木三郎(後の三代三郎助、三代社長)は、1920(大正9)年2月1日、大阪出張所を支店に昇格させ、29歳で出張所長から支店長となりました。当時三郎は、多い時は半月近くも東京の本店に行き、宣伝・広告・拡売の仕事を指揮し、夜行列車で東京・大阪間を幾度となく往復しています。三郎は、著書「味に生きる」の中でこう書いています。「『味の素®』の拡売に関しては、東京の本店および他の店に比して大阪支店はいつも比較的好成績を示しており、澱粉の売りさばきとあいまって、支店長としての私としても内心いささか得意でした。」ところがこの年、(株)鈴木商店は、主力商品であった化学薬品の価格暴落と、株投機の失敗で倒産の危機を迎えます。この危機を必死の思いで乗り越えた1923年(大正12年)1月には、台湾、韓国、中国および東南アジアとの「味の素®」の取引と宣伝業務が、本店から大阪支店に移管されることになりました。なお、業務が非常に増大したので1927(昭和2)年5月には、北区★樋上町に新社屋を新築して移転しました。太平洋戦争中は、規模を縮小して再び大阪出張所となりますが、事務所は全く無傷で戦災を免れ、1950(昭和25)年2月に改めて支店に昇格。その後、1958(昭和33)年に北区★西天満に新社屋を新築、移転しました。2000(平成12)年7月1日、従来の10支店を5支社に再編したのに伴い 大阪支社と改称。2003(平成15)年12月に東京で大地震が発生した場合は、本社機能を一時的に代替できる味の素グループ大阪ビル(大阪市北区★中之島)が完成し今日に至っています。

 

 

《鉄の鳥居》

http://mahobin.org/episode.html

平成7年(1995)1月17日に発生した阪神淡路大震災の際、天満宮西南にある石造鳥居が倒壊する危険な状態になったため当日深夜に撤去、新たに鋼製の鳥居を建立することとなった。新鳥居は同年6月28日夜間に建立され、その際に象印より奉納された「ステンレス真空調理鍋」SNB-B45に大震災の新聞記事や天満宮の古い境内図(版画)、関連図書などを納め、寺井宮司の手によって鳥居北側の鋼製柱内に納められた。大阪天満宮社報「てんまてんじん」第28号によると、タイムカプセルの取り出しは「御神退一千二百年祭(2102年)に改める予定」とある。

 

 

《参考4》復刻・天満人「大阪天満宮表参道いまむかし」より

http://ameblo.jp/maturiya-umenosuke/entry-10330677905.html

2009年8月28日の午後、40年前に大阪天満宮の表参道に住んでいたとおっしゃる男性がご来店になりました。『なつかしくて、よくこのあたりを歩くんですが、随分と変わりましたなぁ・・・』というのが第一声でした。昭和18年のお生まれで、47年に引っ越すまでは、天満で過ごされたということです。家業はお茶屋で、大阪天満宮表参道の「いろは園」というお店でした。もともとは西区にお店があったそうですが戦災で焼け出され、★天神筋町に越してこられたということでした。前回の天満の繁栄(2)でも紹介したように、天満橋から天神橋の大川右岸に「天満青物市場」があったおかげで、天満宮の表参道もずいぶん賑わいました。「いろは園」のすぐ南には、イノシシの肉を売る店があって、毎朝、池田や能勢の猟師が射止めたばかりの猪をかついでやって来たそうです。路上には、獲物が生々しく積み上げられていたとか。小売はせず、市内の料亭などにシシ肉を卸していたようです。そういえば、『天満人』創刊号で取材をさせていただいた清水俊夫さんも、イノシシの肉屋の話しをしておられました。──「天満宮の表参道(天神筋町)には、大きな乾物問屋がたくさんありましたが、風変わりな店もいろいろありました。興門小路にはイノシシの肉を売る店があり、店の軒先には、牡丹とイノシシの絵を、花札のような構図で描いた大きな看板が掛かっていましたねぇ・・・」清水さんの家は、表参道にあった大きな石の鳥居のそばの紙屋で、ちり紙や半紙、障子紙や柾目紙、画仙紙などの小売をしておられました。天満青物市場が近かったおかげで、紙もよく売れたとおっしゃっていました。承応2年(1653)から続いた天満青物市場が廃れて、天満宮の表参道も淋しくなってしまいました。JR東西線が開通し、上方落語の定席・天満天神繁昌亭が出来たおかげで、大阪天満宮は裏門のほうが賑やかになりました。そのため、裏門が表門だと思っておられる方も多いようです。

 

 

・・・この辺りはは、やっぱり「天神さん」と深~い関係にありますねえ。