人権平和アート(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・難波駅(高島屋)前から、気がかりなことがあって「日本橋」へ。

 

◆【高島屋史料館】◆

556-0005大阪市浪速区★日本橋3-5-25/06-6632-9102

https://www.takashimaya.co.jp/archives/library/

高島屋史料館は株式会社設立50周年記念事業の一環として昭和45年に創設いたしました。以来明治初期から京都画壇の巨匠、50余名の文化勲章受章作家を中心に日本を代表する美術家の名品、18世紀の能装束、百選会・上品会の着物など約5,000点の作品が収蔵されています。一方、高島屋のマスコットであるローズちゃん人形をはじめ、歴史的価値の高い戦前のポスター、その他社史、専門書など約15,000点の諸資料も所蔵しており、所蔵品の文化的価値は日本のみならず海外においても高く評価されています。

★高島屋史料館は、改装・資料整理等の為、現在休館しております。再開の時期は2019年を予定しております。詳細につきましては決まり次第、順次HP等でご案内いたします。

 

 

《NEWS1》2015.2.9産経WESTより

堺筋に面して日本橋に建つ高島屋の東別館は、1928(昭和3)年から37年にかけて建てられた百貨店建築だが、実は最初は松坂屋として建てられた。現在、大阪のメインストリートといえば御堂筋だが、37年に御堂筋が完成するまでは堺筋が大阪随一の大通りで、20(大正9)年に完成した北浜の三越百貨店を筆頭に、堺筋本町の白木屋大阪支店(1921年)、長堀橋の長堀高島屋(1922年)、そして松坂屋大阪店と、百貨店がこぞって出店したきらびやかなショッピングストリートだった。しかし、阪神淡路大震災で被害を受けた三越が撤退し、外装を改修して近年までオフィスビルとして活用されていた長堀高島屋も解体され、今は68年に高島屋が入居した後取得して現在に至る元の松坂屋、この東別館が残るのみとなった。設計をしたのは名古屋に事務所を構えて松坂屋の設計を数多くこなした鈴木禎次。外観はクラシックな3層構成で、何といっても堺筋に沿って続く67メートルものアーケード、11連のアーチが圧巻だ。装飾にはアカンサスの葉をモチーフにしたテラコッタが用いられ、アーケードに面してガラス張りのショーウィンドウが並ぶなど、百貨店らしい華やかさを今に伝えている。内部もエレベーターと階段廻りに濃密な装飾が施され、全体にアール・デコ調のデザインでまとめられている。かつて屋上には「松坂遊園」があり、夏はプール、冬はアイススケートで大変賑わったという。また当時は地下鉄堺筋線の新駅が建設される計画があり、百貨店はそれを見越して地下に出入口を設けていたが、残念ながら駅が実現することはなく、壁を隔てて地下鉄の通る音が響くのみとなってしまった。現在は3階に高島屋の史料館がある他、チャペルを設けてブライダル関連のテナントに活用されているが、いまや難波の本館とこの東別館は、大阪に残る数少ない歴史的百貨店建築となってしまった。今後は両建築をうまく連動させてミナミの街に回遊性を生みだし活性化を促すなど、更なる展開に期待したい。(高岡伸一/建築家・大阪市立大学特任講師)

 

 

《NEWS2》2017.4.8毎日新聞より

高島屋屋東別館、築80年、泊まれます/複合施設を検討、大阪・日本橋

高島屋が大阪・日本橋の高島屋東別館(大阪市浪速区)を宿泊施設と商業テナント、同社史料館を組み合わせた複合施設としてリニューアルする検討を進めていることが7日、分かった。1937年に旧松坂屋大阪店として建てられた歴史的建造物で、現在は高島屋の事務所などに使われている。同社幹部は「せっかくの建物を遊ばせず、収益が上がるようにしたい」と語った。 検討中の宿泊施設は「サービスレジデンス」と呼ばれる形態で、キッチンや家具を備えつつ掃除などホテル並みのサービスが受けられる。中長期の滞在に適しており、外国人客の利用も想定される。シンガポールの不動産大手「キャピタランド」と契約交渉中という。東別館は「東洋一の百貨店建築」とも称された7階建てビル。難波駅や黒門市場に近く、外国人観光客にも人気のエリアにある。

《NEWS3》2017.4.19日本橋ショップヘッドラインより

日本橋3丁目・堺筋東側の「髙島屋東別館」に、宿泊施設への転用を核としたリニューアル計画が浮上した。現時点で髙島屋側からの公式発表こそないものの、いくつかのメディアでこれまでに報じられた内容を総合すると、高級賃貸マンションのようなキッチンや家具を備えつつ、掃除などホテル並みのサービスも提供される「サービスレジデンス」と呼ばれる業態を想定。訪日外国人などの中長期滞在が利用の中心になると見られ、運営主体としてはシンガポールの不動産開発大手「キャピタランド」社の名前が挙がっている。東別館は地上7階・地下2階建てで延床面積は約4万㎡。名古屋を本拠とする百貨店「松坂屋」の大阪店として1937年に建設され、当時は「東洋一の百貨店建築」とも称された。1966年に同店は閉店(天満橋へ移転後、2004年5月に閉店)したが、その後髙島屋が物件を取得し、同社や関連企業の事務所として利用。また3階には一般入場も可能な「髙島屋史料館」を設けている。堺筋に面する1階部分は外部テナントに貸し出されていたが、昨年末には入居していたカフェとブライダルサロンがいずれも「建物の改修工事」を理由に退去、さらに史料館も昨秋から休館状態にあることから、建物全体の今後の動向が注目されていた。

 

・・・見納めになるかもしれないと思い、東別館をグルッと一周しますと、

 

 

《参考》平成29年4月、日本橋中学校区に「施設一体型小中一貫校」大阪市立浪速(なみはや)小学校が開校します

大阪市立日本橋中学校敷地内(大阪市浪速区日本橋西1-7-6)

http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000385689.html

平成29年4月に、大阪市立日本橋小学校、大阪市立恵美小学校及び大阪市立日東小学校は統合し、新たに『大阪市立浪速(なみはや)小学校』となり、『日本橋中学校』との「施設一体型小中一貫校」として開校します。

http://swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=j612301

★大阪市立日本橋小学校/大阪市浪速区日本橋3-2-27

明治5年10月、南区第二大区十三番小学校として創立。平成28年5月1日現在5学級、児童数    43人(男25人、女18人)

http://www.ocec.ne.jp/yochien/kindergarden/nipponbashi/

●大阪市立恵美小学校/大阪市浪速区恵美須西2-13-19

明治6年3月、第六大区一小区第一番小学校として創立。平成28年5月1日現在 6学級、児童数    104人(男53人、女51人)

●大阪市立日東小学校/大阪市浪速区日本橋東3-1-23

大正13年8月、天王寺第9尋常小学校として創立。平成28年5月1日現在 11学級、児童数278人(男153人、女125人)

 

・・・日本橋小学校(付属幼稚園)は閉校園しましたが、この「ソテツ」は大切にしていただきたいものです。

 

 

・・・日東小学校の南西角には「日東白龍大神」が祀られています。元は小学校の北東の方の橋のたもとに鎮座されていたそうですが、旧日東幼稚園の敷地内に移り、1982年、今の場所に移られたとのことです。このような地域の祠も、末永く大切にしていってほしいものです。恵美小学校は、通天閣に近い学校です。こういう雰囲気(環境)、残ってほしいなあ。ということで、ちょっと脱線します。

 

 

《じゃりんこチエ》

『漫画アクション』(双葉社)にて1978年10月12日号から1997年8月19日号まで約19年間連載された。全786話。第26回(昭和55年度)小学館漫画賞受賞。単行本の発行部数は3000万部。1981年4月にアニメ映画化され、その後1981年10月、1991年10月と2度にわたりテレビアニメ化された。ほか、1980 - 2010年代にかけて度々舞台化・ゲーム化されている。タイトルの「じゃり」とは「子供」を意味する俗語。★大阪市西成区西萩町(作中では「大阪市頓馬区西萩」、現在の花園北2丁目付近)を舞台に、自分でホルモン焼き屋を切り盛りする元気な女の子・チエと、彼女を取り巻く個性豊かな人々の生活を描いている。物語はチエが小学5年生である1年間を循環する形で、時間は進行しない。このことについては、マサルが「来年は6年生になる」とノイローゼになるが新学期に「今年も5年生でいいんですか」と狂喜する話があるほか、登場人物や壁の貼り紙で言及されている。

《NEWS1》2016.6.19Lmaga.jpより

じゃりン子チエの店「チエちゃん」★新世界で再現

556-0002大阪市浪速区恵美須東3-4-7

大阪人なら思わず2度見してしまう再現度。通天閣のある新世界、なかでもディープな「ジャンジャン横丁」に漫画『じゃりン子チエ』に登場するのとそっくりの店舗、その名も「チエちゃん」が登場。道行く人の注目を浴びている。大阪では頻繁に再放送されていたアニメ『じゃりん子チエ』のファンであるオーナーの少路さんが、昨年12月に「この街のロケーションにぴったり合うように」と看板などをアニメそのままに再現しオープン。「わかる人にわかってもらえばと、細かいネタも仕込んでいます。通天閣に近いこの場所で『じゃりん子チエ』を見ていた人に喜んでいただければ」と少路さんは話す。本来ホルモン焼き屋の設定だが、ここのメニューは牛焼串、どて焼き、たこ焼きなど。「ホルモン」の書体のこだわりや風合いなど、細かいところを見れば見るほどアニメそのまんま。チエちゃんが注ぐお酒「ばくだん」や、「もうじゅう注意」の張り紙など、ここまで再現しきったお店はほかにはないだろう。メニューに書かれた料金が300万円というのもベタな大阪を再現したもので、来店客の満足度も非常に高いそうだ。さらに新世界という場所は歩くおっちゃんもアニメに登場していそうで、ある意味、この町全体が『じゃりん子チエ』のテーマパーク。このクオリティは制作者側にも伝わり、チエちゃんの声優をしていた中山千夏さんも来店し感動したという逸話は、ある意味、このお店の存在意義の太鼓判。今までありそうでなかった大阪人のソウルを揺さぶる小さなテーマパークは、2千円、いや2千万円あれば大豪遊できる。

《NEWS2》2008.7.26朝日新聞デジタルより

チエの町や ここは 南海本線 萩ノ茶屋駅

平日の朝、仕事にあぶれた労働者らが立ち飲み屋に集い、カラオケのマイクを握っていた。駅員の岡春男さん(57)は「こないはよから、にぎやかな駅前は、ほかにありまへんな」と笑う。駅の西は棟割り長屋が連なる下町。東は簡易宿所が立ち並ぶあいりん地区(釜ケ崎)。何十年も時が止まったままのような街だ。漫画「じゃりン子チエ」(双葉社)が誕生したのは30年前。ファンの間では、作中の「西萩駅」はここがモデルとされる。81年の映画化でチエの声を担当したのは当時参院議員だった作家の中山千夏さん(60)。11歳の時、簡宿・釜ケ崎荘をめぐる人間ドラマを描いた舞台劇に出演し、天才子役と呼ばれた。「私しかいない」。小5でホルモンを焼き、大人を相手に奮闘するチエの役が回ってきたのは運命だと思った。その年の夏、中山さんは初めて釜ケ崎を訪れた。小学校で労働者らを前に講演し、前向きに生きてほしいと呼びかけたら、「きれいごとや」とヤジが飛んだ。一方で、「また来てや」と涙を浮かべたり、のどが渇いたやろうとジュースをくれたりする人も。聴衆の一人が黙って差し出した千円札は、炊き出しのカンパになった。「よそから集まった人が多いのに、お互いに他人の感じがしない街」と中山さんは思う。駅の周りを歩いていると、チエちゃんに出会えそうな気がした。

江戸時代、住吉大社へ向かう街道沿いに、参拝客らが足を休める人気スポットがあった。周囲に紅白のハギの花が咲き乱れる風流な茶屋。それが地名の由来になったという。辺りはネギ畑が広がるのどかな農村地帯だった。その姿が変わり始めたのは100年余り前。現在の天王寺公園付近で1903(明治36)年に第5回内国勧業博覧会が開かれた際、近くに密集していた簡易宿所が行政によって釜ケ崎へ強制移転させられ、街の原形ができた。戦後、焼け野原に再び簡宿が立ち並び、全国最大の日雇い労働市場「寄せ場」になった。萩ノ茶屋駅の開業は1907(明治40)年。所属は南海本線だが、現在は高野線の各停電車しか止まらない。ホームは6.7メートルの高架上。その向こうに夕日が沈むころ、労働者たちが現場から戻り、立ち飲み屋やホルモン屋が軒を連ねる駅東側の商店街はいっそう活気づく。改札口前にある甘党喫茶「ハマヤ」の客は9割方が男性だ。冷やしぜんざい、ミルク金時のかき氷で、仕事に疲れた体を癒やす。店番の浜口陽子さん(56)は兵庫県西宮市生まれ。中学から大学まで神戸女学院に通い、都銀に勤めていたが、大学時代から交際していた店主の博さん(60)と結ばれてこの街にやって来た。近くで暴動が起きることもある土地柄に驚いたが、なじむのに時間はかからなかった。お盆が近づく。「クニに帰りたい。いや、あかん」と言葉をのみ込む人。酒を飲まず、妻子に仕送りを続ける人。「みんな突っ張ってるように見えて、心根は優しいんよね」と陽子さんは言う。大阪市によると、800メートル四方の釜ケ崎に住むのは推計3万人で、7割が日雇い労働者。だが、携帯電話ひとつで仕事が見つかる時代になり、景気の低迷もあって、新たな流入者は少ない。高度成長期に移ってきた人は年老い、地域のほぼ3人に1人は65歳以上。10年前に202軒あった簡宿は100軒余りに減った。四つの簡宿を営んできた木原博文さん(80)は「働き盛りが集まらん」と寂しげだ。高齢で働けなくなっても、宿泊施設を居住地にしている人は生活保護の対象外になるため、04年から二つの簡宿をアパートに衣替えして元労働者を迎え入れている。一方、安い宿代と交通の便の良さから、簡宿には新たなニーズが生まれている。5軒を経営する会社が00年からネット予約の受け付けを始めたところ、ほとんど見られなかった海外からの宿泊客が急増。昨年は4万2千人が利用した。遠方からの受験生や出張のサラリーマンも来るようになった。鳥は木で休み、朝になると飛び立っていく。だから、簡宿は木賃宿とも呼ばれた。宿り木が林立する釜ケ崎は、労働者や客人らを包み込む森なのかもしれない。

釜ケ崎の東側にはかつて、南海天王寺支線が走っていた。天王寺―天下茶屋の2.4キロを結んで1900(明治33)年に開業。昭和初期には貨物輸送に貢献し、戦後は通勤、通学の人たちでにぎわった。66年、現在のJR大阪環状線と接続する南海本線新今宮駅が開業すると、利用客が減少。大阪市営地下鉄堺筋線が天下茶屋駅まで延伸されることになったのを受け、84年に天下茶屋―今池町がまず廃止され、93年には完全に姿を消した。廃線跡の一部には建物や道路ができたが、用途が決まらないままフェンスで囲われた空き地も多い。天王寺支線は簡易宿所や商店が立ち並ぶ狭い道路を横切り、踏切が多かった。75年ごろ、修学旅行生を乗せた臨時電車を運転したことがあるという新今宮駅長の松原道寛さん(59)は「緊張しながら走ったもんや」と振り返る。

萩ノ茶屋駅の周辺には大阪を代表する観光地がいっぱい。北に行けば、商売繁盛の神様「えべっさん」の今宮戎神社や、通天閣。東の松乃木大明神には、浄瑠璃作家の近松門左衛門を顕彰する石碑、三味線に使われたネコを供養する猫塚がある。近くには、かつて多くの芸能人や興行師が住み、上方演芸発祥の地とされる「てんのじ村」の記念碑がある。

 

・・・「ミナミ」という地域は、大阪の「人権平和」の原点とちゃうかなあ~って気がしています。