人権平和アート(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・もうすぐ夏休み、学校だけではない多くの体験や学習ができるチャンスでもあります。できれば様々なミュージアムや施設に行ってほしいものです。そして、忘れてはならない「夏」があります。子どもたちだけでなく、大人もいっしょにみんなで考えたいこと。

 

★ミナミのど真ん中で「平和」を想う★

 

《平和記念「朗風」》作:吉田久継

http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/ch-namba.html

難波駅前に「平和記念」として1953(昭和28)年に建てられた。「朗風」という題が当時の大阪市長の書できざまれている。立案、日本都市美推進連盟、寄贈、美交社とある。★御堂筋から西への道路を歩道にしたときにここに移された。空襲で焼け野原となった中に焼け残った高島屋の建物が遠くからでも見えたという。

 

 

●題字:朗風(光廣/書)

 

・・・当時の大阪市長の書という情報ですが、昭和28年(1953)は「中井光次」さんで、移設された昭和63年(1988)だとしても「西尾正也」さんです。ただ、書なので「雅号」の可能性もありますが、他の記念碑等を調べましても「大阪市長・中井光次」と記されているものばかりでした。

・中井光次

第10代/1945年9月8日~1946年12月13日

第12代(公選2代目)/1951年4月25日 ~1963年3月23日

・西尾正也

第15代/1987年12月19日~1995年12月18日

 

●昭和28年建立、昭和63年移設

施工:向山峡路/原型★吉田久継/立案★日本都市美推進連盟

荻須高徳、小磯良平、別府貫一郎、鈴木信太郎、青山義雄、三上兆治、中川一政、長谷川昇、田辺至、安井曽太郎、金山平三、有島生馬、和田三造、石井柏亭、山下新太郎、中沢弘光、和田英作、一水会、向山峡路、吉田久継、眞野紀太郎、三宅克己、荒谷真之介、小堀進、小山敬三、木下孝則、小島善太郎、野口弥太郎、児島善三郎、耳野卯三郎、寺内萬治郎、石川滋彦、宮本三郎

協賛代表者:中山一男、美津島一/寄贈:美交舎(大阪淀屋橋)

 

・・・錚々たるメンバーです。今はありませんが「新歌舞伎座」が写っているいる画像がありましたので、掲載しておきます。

 

 

【吉田久継】(1888~1963)

明治21年12月12日東京市本郷区に生まれる。本名久次。数え13才より高橋楽水につき蝋型技術、馬場正寿に彫金を学んだ。また白井雨山彫塑研究所で彫塑を学ぶ。明治41年東京美術学校彫刻選科に入学し、大正2年同校卒業、研究科に入る。大正5年同研究科を修了、つずいて太平洋画会研究所、本郷洋画研究所に通い、岡田三郎助についてデッサンを修めること約10年間に及んだ。大正7年、第12回文展に初入選、続いて帝展に入選し、第2回帝展に出品した「霊光」は特選となり、第4回にまた特選となり、翌年「母性」を出して推薦され、第7回からは委員となった。以来晩年に至るまで終始官展系に依拠し、その耆宿作家として重きをなした。代表作として、「髪」(昭和3、第9回帝展)を自薦している。印象派風の肉付をもち、重厚な作風のうちにも、青年時代特にデッサンに励んだだけに絵画的構図にすぐれ浪漫的構想のものに長じていた。

 

《「都市美」運動》

1919年(大正8)旧都市計画法に風致地区、旧市街地建築物法(建築基準法の前身)に美観地区が創設された。これに伴い帝都東京の整備を意識した都市美運動が展開され、都市の美化について啓発宣伝と事業研究を行う都市美協会が設立された。

《参考》日本都市美推進連盟/新所沢駅前「女神像」

昭和35年6月16日に埼玉県、住宅公団、所沢市の三者共同で、緑町区域区画整理の完成を祝う式典と、駅前広場に建設された女神像の贈呈式が行われました。新所沢駅前広場に建てられた女神の噴水像は、「歓び」と名づけられ、「生活の歓び」を象徴しています。★「日本都市美推進連盟」の企画設計によるもので、作者は日展審査員の山本雅彦、佐藤義重両氏です。

 

《美津島一「美交社」》フジカワ画廊沿革より

http://www.fujikawa-galleries.com/history.html

1936創業者、美津島徳蔵(水嶋)は1936~45年の10年間、作家のギャラリー★「美交社」大阪・代表者★美津島一(実兄)にて藤川と名乗り、実質的な経営をする。

1947「フジカワ画廊」設立。美津島徳蔵、洋画親和会を同志と共に設立、理事となる。

1949美津島徳蔵、日本洋画商協同組合を同志と共に設立、理事就任。

 

・・・「フジカワ画廊」については、別の機会に紹介したいと思います。

 

 

《「平和の塔」女神像》作:日高正法

http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/ch-ebisubasi.html

【日高正法】(1915~)

1915年(大正4)生まれ。平成18年、91歳で死去。関西を代表する彫刻家のひとりで、後に二科会の名誉理事も務めた。根っからの芸術家気質で、気に入らない作品は「こんな駄作、後世に残したらあかん」と金づちで壊すこともあったという。大阪大空襲で焦土と化した大阪の戦後復興の最中の1950年(昭和25)「大阪の復興を象徴し、世界に誇れる彫刻作品を」と府や市、大阪商工会議所などが建設委員会をつくり、大阪府民らの寄付をもとに約300万円(当時)をかけて★大丸心斎橋店前の東南角に建設。天と地が平和で満たされるように、との願いを込めて日高正法氏が制作した。右手を頭上に掲げ、左手は地面を指さす。買い物客らの待ち合わせ場所になるなどミナミのシンボルとなった。女神像は1973年(昭和48年)、大丸心斎橋店外壁の拡張工事に伴い、戎橋の北詰★「キリン会館」前に移転。生前、日高氏は女神像について「芸術家の名を売るための作品ではない」と話し、自分の名前を入れなかった。このため昭和48年に女神像を移転することが決まった際、大阪市が制作者を探し回ったというエピソードが残っている。さらに、戎橋拡張工事に伴い、平成16年に撤去され倉庫で保管されていたが、市がシンボルにふさわしい移転場所を検討した結果、人通りの多い南海なんば駅ビル前の広場に決めた。昭和28年に建設された別の★白い女神像と並んでミナミのにぎわいを見守っている。安住の地を得たことを、娘でソプラノ歌手の川下由理さん(58)は喜び「焼け野原になった大阪の街の発展を願う当時の人々の思いがこの作品には宿っている。次の世代に受け継がなければならない」とコメントした。日高氏は彫刻活動の傍ら、長池小学校でも図工の先生をしていたこともある。

 

【「平和の塔」に記載された文字】

戦争の惨禍に脅かされ 虐げられた私たちに 戦争を憎み 平和を愛好する 世界が戦争の不幸をくりかえすことがあってはならぬ 私たちは人類のために 永遠の平和を祈念する 世界平和に貢献するためには 平和国家を日本において打ちたてねぎならぬ 私たちはこれを目指して たゆみない努力を続けている 平和を愛し 祈念し 平和国家の建設に努める私たちの姿を表徴したいという大阪府民の熱望が 平和塔となって生まれた 塔の型は府民の投票で決定され 建設場所には かつて 大阪市の中心標があり 私たちになじみ深いこの地がえらばれた 建設基金は府民から寄せられた 平和を希求する熱誠が 塔を築きあげたのである

昭和25年5月/提唱:大阪新聞社/協賛:大阪府、大阪市、大阪商工会議所/製作:モニュマン美術協会

 

 

《「平和の塔」の鐘》蔵:大阪市立中央会館

542-0082大阪市中央区島之内2-12-31/06-6211-0630

http://www.city.osaka.lg.jp/shimin/page/0000016607.html

https://www.osakacommunity.jp/chuo/sisetu_b.html

この鐘は第2次世界大戦後間もない昭和25年5月大阪新聞社の提唱により、「戦争の惨禍を繰り返さない」という平和を願う大阪市民の寄付により、大阪★中心標識跡(心斎橋・大丸百貨店東南角)に平和の女神像を建立、その台座を支える4本の柱の内側に鐘が設置された。昭和48年11月に現在の戎橋北詰に移転し大阪市に寄付されたが、年月の経過と共に塔の痛みが激しく、強い地震でもあれば倒れる恐れがあるため、平成2年夏から大阪市が改修工事を行い、その際、危険防止のため4本柱構造をやめ、女神像を直接台座に設置したため鐘を取り外し、当会館で保管している。(平成3年1月)

 

 

・・・どうして「平和の★塔」と呼ばれているのか、これでわかりました。しかし、また新たな疑問が、

 

《参考》「道路元標」

1919年(大正8)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。さらに、1922年(大正11)に、道路元標の形状、規格、材料など細目が規定された内務省令が発布され、当時1万2000以上あった各市町村の自治体中心部に設置が始められた。設置場所は府県知事が指定することとされており、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されていた。東京市に限っては旧道路法施行令によって日本橋の中央に設置することと定められていた。道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点としていた。大正時代に設置された道路元標の大きさは、縦横25センチメートル、高さ約63センチメートルの直方体で、一般に頂部が弧を描くように丸く削られた形状をしており、材質は花崗岩で製作されているものが多い。各地方によって頂部の削り取られた形状部分は様々なものが見られ、材質についてもコンクリートで製作されたものもある[6]。道路元標の正面には、「○○村道路元標」「○○町道路元標」のように各市町村名の道路元標であることを示した刻字があり、背面に設置年が彫られている場合もある。1952年(昭和27)施行の新たな道路法により大正時代の旧道路法は無効となり、現行道路法の第2条第2項第3号で道路元標は道路の附属物とされているだけで、設置場所や道路元標を路線の起終点にするなどの特段の規定はなく、道路の起終点は道路元標と無関係に定められている。このため道路元標を管轄する組織の法的根拠や設置義務もなくなったため、大正時代に設置された道路元標は、その存在意義を失って道路工事や宅地開発などで撤去されたり、いつの間にかなくなってしまった道路元標も少なくなく、2014年時点で確認されている大正道路元標の残存数は、全国で2000箇所未満といわれている。

《大阪市「道路元標」》

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009908.html

江戸時代諸街道の起終点は「高麗橋」であった。その後、道路法の制定で国道ルートの整備がされ、大正11年には現「大阪市役所前」に設置された。さらに昭和27 年新道路法が成立(このとき、東京-大阪間国道2号が1号になった)、道路元標も現在位置(北区梅田1梅田新道交差点北西角)に移設された。

 

・・・以上の説明からすると、大阪「中心標識跡」というのは「道路元標」とは別のもののようです。またまた、調べることが増えてしまいました。