京都へ(7) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《北山通》

東西方向の幹線道路としては最北に位置している。東は白川通、西は紫野泉堂町を経て道なりに南西方向に曲がった、千本通に直結する今宮通との交差点を起終点とする。戦前の都市計画により建設が開始され、1985年に全線開通した比較的新しい通りである。区画整理された折に、幹線道路として十二間幅(約21.8m)で造られたため、地元では十二間通(じゅうにけんどおり)という愛称でも知られる。京都市営地下鉄北山駅付近、松ヶ崎通から北山大橋にかけて、★現代建築に入居する飲食店や商店などが並び、伝統的な町並の京都市中心部と対照的な景観をなす。

 

《参考》「安藤建築」

安藤忠雄設計の「京都府立陶板名画の庭」。地下鉄烏丸線北山駅の西側出入口に隣接した北山通沿いに公立の展示施設として1994年3月に竣工。北山通をはさんだ西100mほどのところにも安藤建築「B-Lock」(1988年竣工・商業施設)があります。

 

 

◆【古田織部美術館】◆

603-8054京都市北区上賀茂桜井町107-2-B1/075-707-1800

http://www.furutaoribe-museum.com/museum.html

【古田織部】(1543~1615)

諱(いみな)を重然(しげなり)といい、利休亡き後、「天下一」と称された武将茶人です。織部は、武名こそあまりないものの、茶の湯・連歌に秀で、信長横死後、太閤秀吉の御咄衆(御伽衆)となり、子の秀頼、徳川家康・秀忠父子に仕えました。利休の茶の湯を継承しつつ、茶道具の製作・建築・作庭など多岐にわたって活躍し、それらは「織部好」といわれて慶長年間(1596~1615)に爆発的な流行をみせ、織部が亡くなった後の元和・寛永期(1615~1644)まで続きました。「織部」あるいは「織部焼」というとどうしても、緑釉がかけられた向付や、不思議な絵が施された沓茶碗を想起されるかもしれません。しかし、激動の桃山時代後期慶長年間の茶の湯をリードした古田織部好みの茶道具はそれにとどまるものではありません。その作品は、とても400年前に作られたとは思えないほど前衛的・刺激的で、現代人をも驚愕せしめます。これらを、より多くの方々に知っていただきたいとの思いから、当館開設に至った次第です。

2014年4月、古田織部の400年遠忌に合わせて、古田織部美術館を京都鷹峯「太閤山荘」の敷地内に開館いたしました。織部自作の茶杓、書状、織部好みの茶道具、千利休・豊臣秀吉ら織部周辺の人々にゆかりの品などを、年3回の企画展でご紹介いたします。2016.2.20北山通沿いに移転オープン。移転初の展覧会「茶の湯三宗匠」開催。なお、館名である古田織部美術館の文字は、臨済宗相国寺派管長・有馬賴底猊下に揮毫していただきました。

★第1回 織部賞【受賞】フルタ製菓株式会社

http://www.furuta.co.jp/

11月19日(土)、京都市北区の「太閤山荘」で授賞式が行われ、古田織部美術館の宮下玄覇館長から、フルタ製菓株式会社・代表取締役会長の古田鶴彦様、代表取締役社長の古田盛彦様に、賞状、賞金10万円、トロフィーが贈呈されました。フルタ製菓株式会社は、発売40周年の節目を迎えた商品「セコイヤチョコレート」のテレビCMを通して、古田織部を〝カリスマ茶人〟としてユーモラスかつ機知に富んだ映像や画像により、視聴者である子供たちとその親に知らしめました。具体的には、壁紙に織部の家紋「三引両」を使用したこと、「織部好み」という茶道・陶磁の業界用語をチョコレートに結びつけたこと、多窓で中柱のある織部好みの台目の茶室を用いたこと、織部は鼓の名手でもありましたが、「能」を背景音楽にし、織部を舞わせたことなどが挙げられ、特に子供たちの流行語にもなりうる「セコイヤ~ン」という台詞と共に古田織部を宣伝したことの独創性、織部の「モノを見る(目利き)力」=「眼力」をビームに見立てた発想力は、インパクトが強く称賛に値します。題材が幾万とあるなか古田織部を選び、そしてスーパースターとして広く社会に発信した功績は大きく、茶道文化の啓発にも貢献するものとして、ここに表彰します。

http://www.furuta.co.jp/movie/cm3.html

古田織部美術館は、千利休亡き後の〝天下一〟茶人、古田織部の名を広めるような功績のあった人、特筆すべき織部に関する研究をした人、織部好みの茶陶の再現に成功した人などを顕彰するため、自薦・他薦を問わず公募しておりました。「織部賞」は、かつて岐阜県が主催していた賞で、2009年に休止。このたび当館が、コンセプトを変更して「織部賞」を再開するはこびとなりました。

 

《参考》太閤山荘/603-8478京都市北区大宮釈迦谷10-37

http://www.miyaobi.com/taikou-sansou/

京都市北区鷹峯北東部にある山荘で、古田織部美術館館長・宮下玄覇の別邸であり、茶道教室などに使われている。その下方には広大な池に面した外苑「紅葉谷庭園」がある。山荘は1934年(昭和9年)日本屈指の人絹問屋の川村湖峯が本宅として造営された。300坪の内苑と2000坪の外苑には紅葉の木が多くあり、紅葉の名所でもある。日本画家橋本関雪ほか多方面の名士が訪れる。 2013年(平成25年)から宮下玄覇が保有。古田織部が御咄衆として仕えた太閤秀吉の顕彰を目的として、江戸時代前期の茶室・戦前の数寄屋建築の母屋・石庭のほか、土蔵とともに整備された。母家前の内苑は各所に巨石を配し、滝の石組みとともに豪壮な造りである。建物は1934年(昭和9年)建造の数寄屋建築であり、天然の北山杉のほか、現在では入手が難しい銘木が使われている。また敷地の一角には、小堀遠州作で日本一窓が多い後藤覚乗の茶室「擁翠亭」(十三窓席)が移築されている。これは江戸時代前期に、上京区の「擁翠園」にあったものである。

 

・・・ここも「行ってみたい」と思っている山荘です。

 

 

《表千家北山会館》

603-8054京都市北区上賀茂桜井町61/075-724-8000

http://www.kitayamakaikan.jp/index.html

表千家北山会館は平成6年に開館いたしました。表千家茶道をまなぶ方々をはじめ、ひろく茶の湯に興味をもたれている一般市民の皆様が気軽に茶の湯文化にふれることのできる文化会館として活動してまいりました。平成8年より「特別展」と「茶の湯文化にふれる市民講座」を開催し、毎年秋の恒例行事として継続しています。京都洛北に位置する景勝地、北山は京都市の新しい文化ゾーンとして近年、注目されているところです。京都府立植物園や京都府立総合資料館、京都コンサートホールが点在しており、北山会館の南にはその植物園の豊かな緑を眺むことができ、少し歩みを西にとれば広やかな賀茂川の景観がひろがっており、ここかしこに四季折々の風情を楽しむことができます。京都駅より地下鉄で約20分という交通の利便さもあります。入洛の折には、ゆったりと一服のお茶を召しあがっていただき、家元の道具の数々をご覧いただきたいと存じます。

 

・・・さらに西へ行くと、安藤建築を思わせるような商業施設があります。

 

《1986「Tree's」》/設計:妹尾正治建築事務所

京都市北区上賀茂今井河原町64

http://www.jcarb.com/Portfolio00001396.html

 

《上賀茂神社》

603-8047京都市北区上賀茂本山339/075-781-0011

http://www.kamigamojinja.jp/

上賀茂伝統的建造物群保存地区:平安京の地主神である上賀茂神社を中心に、神官(社司と氏人)と農民によって門前集落が形成され、室町時代から神官の屋敷町として発展してきた。神社の境内から流れ出る明神川に沿って、「豕扠首(いのこさす)」という独特の妻飾りを持つ★社家(神官の屋敷)が建ち並び、土橋、土塀、門、前庭の樹木と一体となって、社家町の歴史的景観を今に伝えている。

 

 

・・・今回の目的は「かきつばた」です。

 

 

《大田神社》

603-8047京都市北区上賀茂本山340/075-781-0907

http://kyoto.gp1st.com/530/ent235.html

上賀茂神社の摂社で天鈿女命(あめのうずめのみこと)をまつる。昔は恩多社(おんたしゃ)とも呼ばれていました。境内の大田の沢には杜若(カキツバタ)の野生群落(天然記念物)があり、★藤原俊成の歌にもよまれ、すでに平安時代には有名でした。5月上旬の開花時には参詣人と観賞者でにぎわいます。

神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ

(上賀茂神社の御降臨山である神山の近くにある大田神社のかきつばたに、ふかくお願いする恋は、かきつばたの色のように一途で美しく可憐なんだろう)

 

・・・そろそろライブが始まる時間となりました。ずいぶん疲れてきましたし、お腹もすきました。この後は、ゆっくり京都の夜を満喫したいと思います。