京都へ(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《裏千家》

602-0061京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613/075-431-3111

http://www.urasenke.or.jp/

 

《本法寺》

602-0061京都市上京区本法寺前町617/075-441-7997

http://eishouzan.honpouji.nichiren-shu.jp/

1436年(永享8)日親上人に創建された日蓮宗の寺院。本阿弥家の菩提寺で、光悦作の庭園「三巴の庭」は国の名勝に指定されている。本阿弥光悦の寄進状を添えた紫紙金字法華経(重要文化財)、長谷川等伯の仏涅槃図(重要文化財)など貴重な寺宝も多い。

 

《茶道資料館》裏千家センター内

602-0073 京都市上京区堀川通寺之内上る寺之内竪町682/075-431-6474

http://www.urasenke.or.jp/textc/gallery/tenji/index.html

 

 

《水火天満宮》

602-0071京都市上京区堀川通上御霊前上ル扇町722-10/075-451-5057

http://suikatenmanguu.com/

923年(延長1)醍醐天皇の勅願により菅原道真の神霊を祀ったと伝える。水難火難除けの神として知られ、もと上京区上天神町にあったが堀川通の拡張により昭和25年現在地に移転した。菅公(道真)が降り立ったという登天石が境内にある。

 

《後花園天皇火葬塚》

第百二代後花園天皇がこの地にあった悲田院で火葬にされたという記録に基づいて明治以降に整備されたものですが、京都にある中世の多くの天皇陵や火葬塚の中では、最も信憑性のあるものといわれています。

 

《淡交社》

603-8588京都市北区堀川通鞍馬口上ル/075-432-5151

https://www.tankosha.co.jp/

昭和24年の設立になる淡交社は「出版を通してより美しく価値あるものの創造に努力する」の社是のもと、日本の綜合文化体系である茶道を軸に歴史・宗教・美術・工芸・建築・庭園などの出版を手がけてきました。さらに茶室・茶庭の設計・施工から茶道具・和装品・和雑貨の販売、カルチャー教室・旅行の運営まで幅広い事業活動を展開しています。21世紀を迎えた現在、「茶道を中心とした日本文化の情報発信者として常に社会に貢献するトップ企業を目指す」を経営ビジョンとして、日本文化の発展に日夜努力を続けています。

茶道裏千家十四世淡々斎家元の次男、納屋嘉治が同志社大学卒業の翌年、裏千家の機関誌「淡交」を刊行する出版社として設立した。現在は長男、納屋嘉人が経営にあたっている。社名は荘子の「君子之交淡若水」(学徳のある立派な人同士の交わりは、水のように淡々とした、清い関係である。私心のない交わりは壊れることがない)に由来している。法然院での修行歴のある僧侶で、弘文堂などに勤務していた編集者でもあった臼井史朗(のちに副社長)を引き入れてから、茶道を軸とした伝統文化など様々な分野の書籍、雑誌を刊行。とりわけ京都の観光と文化に関するものが多い。

 

 

《紫式部墓(970/973?~1031?)小野篁墓(802~852)》

603-8165京都市北区紫野西御所田町/075-491-6151(紫式部顕彰会)

http://www.shimadzu.co.jp/aboutus/company/access/murasaki.html

(堀川通北大路下る西側★島津製作所紫野工場の一角)

http://murasaki-shikibu.la.coocan.jp/

1989年(平成元年)5月、大阪府豊中市の篤志家が私費で「紫式部顕彰碑」を建立、同時に紫式部の業績を国内外に紹介する「紫式部顕彰会」が発足。

 

 

《1932京都復活教会》/設計:ヴォーリズ建築事務所

603-8165京都市北区紫野西御所田町63/075-441-6468

http://www.nskk.org/kyoto/church/k-fkt.html

 

《京都教育大学附属京都小中学校》

http://www.fuzokukyoto.jp/

2014年度から完全小中一貫校(中学から生徒を募集しない)を実施し、9年間を4-3-2区分制を採用している。4-3-2区分制を採用し、小1-小4に当たる前期4年間の初等部、小5-中1に当たる中期3年間の中等部、中2-中3の後期2年間の高等部からなる。中等部(つまり小5から)教科担当制を導入している。初等部と中・高等部は道路を挟んで隣接して所在する。

★(京都小学校)出身者

伊丹十三、上村淳之、村山槐多、柳原良平、千宗室(裏千家家元16代)、BONNIE PINK、千宗左(表千家家元14代)茂山茂など。

 

【山崎正義】(1929~)

昭和4年生まれ。京都芸術大学美術科卒業。昭和26年に日本美術展示会に初出展で初入選。その後、17回連続して入選を果たす。京都芸大教官を経て、京都教育大学教授に。平成6年に日輝会美術協会会長、京都教育大学名誉教授となる。平成7年~平成9年高校野球優勝メダル、楯制作。平成8年紺綬褒章拝受。個展、公募展多数、建立設置は全国に及ぶ。

 

 

・・・ほんと京都は見所が多くて、なかなか目的地にたどり着けません。ようやく「大谷大学」に到着です。

 

 

《大谷大学(真宗大谷学園)》

603-8143京都市北区小山上総町/075-432-3131

http://www.otani.ac.jp/

大谷大学は、1665年(寛文5)京都・東六条に開創された東本願寺の学寮をその前身としており、その後、幾たびかの変遷を経て、1901年(明治34)学制に根本的改革を加えた近代的な大学として東京・巣鴨の地に開学しました。初代学長・清沢満之は、その開学式典に際して「本学は他の学校とは異なりまして宗教学校なること、殊に仏教の中において浄土真宗の学場であります。」と述べています。この言葉の意味は、現在もなお受け継がれ、本学は独自の歩みを重ねています。殊に、戦後多くの大学が総合大学化してゆく中で、かたくなとも言えるほどに文学部のみの単科大学であることを守り続けてきましたが、それは本学が建学の理念としてきた「自己の信念の確立」の実現を問い続ける時、大学としては小規模であることに有効性を見てきた先人たちの選択であったのです。親鸞の仏教精神に基づき、“人材”ではなく“人物”の育成を目標とする学び「人間学」を教育・研究の根幹とし、小規模ながらも広く一般社会へ開かれた大学へと発展を続けています。

 

《参考》尋源館「登録文化財」登録プレート取付および尋源館銘板を設置

http://www.otani.ac.jp/buildup_plan/nab3mq000004qdvw.html

尋源館(JINGENKAN)は1913年(大正2)10月に竣工した。それ以前、200年余りの歴史をもつ東本願寺の学寮は、伝統的な学びを受け継ぐ高倉大学寮と、近代の思想・学問を見すえた学びをめざす真宗大学とに分かれ、1901(明治34)年、大学は東京巣鴨に開学された。1911年(明治44)両者は再び京都の地で統合され、2年後に現在地に移転・新築された。ルネサンス様式を基調とし、赤煉瓦をベースに正面や窓等の装飾には花崗岩や白大理石を用いている。大正期洋風建築の最古例の一つである。長く大学の本館として重要な役割を担ったが、1982年(昭和57)学内整備により、建物の意匠を遺しつつ両翼部を短縮するなど改装が施され、「尋源館」と命名された。名称の典拠は本願寺第3代覚如上人の『報恩講式』の「酌流尋本源」(流れを酌んで本源を尋ぬる)の文による。2000年(平成12)国の登録有形文化財に指定された。館上部の尖塔は三島由紀夫の『金閣寺』にも登場するもので、同時期の学校建築等にも類似の意匠がある。近年の研究では「ランタン」「頂塔」とも称される、真理の灯・学の尊さを象徴するものとする説が有力である。どのような時代や社会の状況にあっても、常に真理探究・人間探求の学びの灯を守り育んだ大谷大学のシンボルとして、尋源館は私たちに大切なメッセージを伝え続けている。