・・・「承天閣美術館」を出て、ちょっと一服。
《京菓子資料館》
602-0021京都市上京区烏丸通上立売上ル/075-432-3101
http://www.kyogashi.co.jp/a-index.html
昭和53年12月8日、京菓子文化の総合的な資料館として、烏丸店内3階(現;俵屋文庫)にオープンした「ギルドハウス京菓子」。和菓子のあゆみを分かりやすく理解できるように、唐菓子の模型や古くから伝わる資料の公開をはじめ、国内でも希少な糖芸菓子の常設展示を行っている資料館として、年間約2万人超の来館者をお迎えしております。平成13年10月22日には隣接地に新設された龍宝館内に移転増床し、更にその内容を充実させると共に、 一層の活動の幅を広げて参りました。
【富樫実】(1931~)
1931山形県東田川郡櫛引町(現・鶴岡市)に生れる。山形県立庄内農業学校(現:山形県立庄内農業高等学校)卒業。1948佐久間白雲に師事し彫刻を学ぶ。1957京都市立美術大学彫刻科卒業。1974京都成安女子学園常務理事。1993成安造形大学学部長、成安造形大学名誉教授。
《NEWS》2017.5.11毎日新聞より
京都市美術館(同市左京区)が建物の再整備工事に伴い、屋外に設置してきた大型彫刻作品をバラバラに切断した上で、撤去する方針を示していることが関係者への取材で分かった。市は「地震による倒壊の恐れ」などを理由にしているが、形状から切断後の復元は難しいとみられ、美術界から「芸術の破壊行為」と批判の声も出ている。 作品は、市文化功労者の表彰も受けた同市在住の彫刻家★富樫実さん(86)による「空(くう)にかける階段88-2」。高さ約11メートルの御影石の柱2本で造られている。1988年に2000万円で市が制作を依頼。美術館の前庭に展示され、来場者に長年親しまれてきた。33年開館の美術館は老朽化しており、市は今年4月から休館し、大規模改修や新館の建設を行う予定。展示作品の見直しを進める中で、富樫さんの作品の撤去計画が持ち上がった。市は作品について、震度6弱の地震で折れる可能性がある▽汚染が判明した前庭の土壌除去のため移転が必要▽安全な運搬には大きさ約2メートルに分割が必要--とし、作品を計10個に切断して保管する計画。リニューアル後に展示するかは未定という。市美術館の川口伸太郎副館長は「作品を大事にするのは当然だが、安全面を第一に考えなければならない。分割もやむを得ない」と話す。これに対し、富樫さんは「空へ伸びるところに作品のコンセプトがあり、切断されると全く意味が変わる。国内の同種作品で、これまで耐震性が問題になったとは聞かないが……」と困惑を隠さない。美術評論家の建畠晢・京都市立芸大前学長は「将来に残すべき価値がある彫刻。搬入時はそのままの形で運べたのだから『分割が必要』というのは理由にならない」と指摘している。
《参考》2019年度「京都彫刻家協会」は創立50周年を迎えます。
http://kyotosculptorsasso.wixsite.com/kyotosculptors
・・・「大谷大学」に向かう前に、どうしても立ち寄りたい場所があります。
《報恩寺》
602-0066京都市上京区小川通寺之内下る射場町579/075-414-1550
http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012478.html
鳴虎(なきとら)の報恩寺といわれるこの寺は、尭天山と号し浄土宗に属します。中国の画人四明陶佾(しめいとういつ)が描く猛虎の絵を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ、夜中に虎の鳴き声が聞こえ、秀吉は一晩中安眠できませんでしたので、すぐに寺へ戻されたことから鳴虎として有名になりました。この絵は寅年の正月三が日に限り公開されます。寺伝では室町時代、一条高倉に開創したとあり、法園寺または法音寺という天台・浄土兼学の寺でしたが、文亀元年(1501)後柏原天皇の勅で慶譽(きょうよ)が堀川今出川の舟橋の地に再興し、浄土宗報恩寺と改めました。天正13年(1585)秀吉によって現在の地に移されますが、享保・天明の大火に類焼しています。重要文化財の梵鐘はその由来を明らかにできませんが、高さ123.5センチ、口径73センチ、素文の銅鐘です。高い笠形、肩すぼまりの形態、乳の形、八角素弁小形の撞座(つきざ)2個が龍頭(りゅうず)の方向と直交しているなど、奈良時代以来の古式を残す平安時代の鐘です。池の間(いけのま)には金剛界四仏を籠字(かごじ)の梵字であらわし、その下に梵文の真言を刻んでいる珍しい意匠です。西陣の機屋はこの鐘の音を聞いて仕事の手を休めました。一名、勿撞(つかず)の鐘といわれるのは、ある時、お十夜の晩に鳴るか鳴らぬかで丁稚と織子が口論した結果、鐘が鳴らなかったので織子が狂い死にしたという話があり、以後、除夜の鐘以外は撞かなくなったということです。門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり、本法寺の石橋とともに、今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産です。
《百々橋の礎石(駒札)》
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=84
この石は、応仁の乱(一四六七~一四七七)の戦場として歴史に名をとどめる「百々橋」の疎石の一つである。 百々橋は当時を南北に流れていた小川に架かっていた橋(長さ約七・四メートル、幅約四メートル)で、橋名は、応仁の乱以前の風景を描いたといわれる「中昔京師地図」に当地が★「百々ノ辻」と記載されていることに由来すると伝えられている。応仁の乱の際、細川勝元(東軍)が山名宗全(西軍)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり合戦を行い、この小さな橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれることとなった。古来板橋であったが、近世になって石橋に架け替えられ、1963年(昭和38)に小川が埋め立てられた際、橋も解体されたが、地域の方の御尽力により、橋材は一時、室町小学校で保管された。その後、橋材の大部分は洛西ニュータウンに移され、竹林公園内に復元されたが、橋脚を支える四基の疎石のうち一基は室町小学校の校庭に、一基は百々橋をしのび貴重な遺構として当地に遺された。
《表千家》
602-0072京都市上京区寺之内通堀川東入百々町536/075-432-2195
「不審菴」の号は「不審花開今日春」の禅語から採られたといわれます。不審は「いぶかしい」という意味で、この語は人智を超えた自然の偉大さ、不思議さに感動する心ともいえましょう。不審菴とは、利休が営んだ茶室の名で、歴代の家元がこれを継承してきました。また不審菴は千家の屋敷ならびに機構の全体をさし、千宗左家元の号でもあります。裏千家では「今日庵」といいます。武者小路千家では「官休庵」といわれます。
・・・なんと「家元」がお出かけになる場面に遭遇、緊張してお見送りさせていただきました。ここまで来た甲斐がありました。