《クラーク記念館/重要文化財》
https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/buildings/imadegawa.html
B.W.クラーク夫妻からの寄付によって建てられ、1894年1月30日に開館いたしました。当初は「クラーク神学館」として、神学教育と研究に利用されていましたが、現在の神学館の完成に伴い「クラーク記念館」と改名されました。R.ゼールの設計によるレンガ造で、エントランス上部の欄間には、"Byron-Stone Clarke Memorial Hall"と刻まれており、夫妻の夭折した息子を今も讃えています。本館にキリスト教文化センターがあり、教室のほか、クラーク・チャペルも備わっています。1979年5月に重要文化財に指定されています。
《寒梅軒》
https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/buildings/imadegawa.html
江戸時代幕末に二条斉敬が関白の詔勅を受け、叔父の徳川斉昭がこれを祝って今出川東入の二条邸に殿舎を新築。このとき廊下の端に建てられた茶室です。新島襄が女学校用地として二条邸敷地の一部を買い入れて同志社に渡りました。1954年に大学敷地に移築される際に、裏千家十四代家元碩叟宗室(淡々斎)により命名されました。その後、現在の場所に再度移転し、二階部分を増築して現在に至っています。
《参考》「寄宿舎部屋割図(複製)1870年代後半1巻24.5×53.2cm」
「同志社英学校」開校後の間もない時期(1870年代後半)に作成された寮の部屋割図、もしくはその案と考えられます。当時同志社に通う学生は京都市内に親類が住む場合を除き、原則的に入寮することになっていました。開校当初の生徒数は8人と言われますが、開校3年後には在籍者が105人に増加しています。この部屋割図が作成された頃には、在校生の増加に伴い、最初に建築された第一寮と第二寮以外にも新築の寮が建設されていたことがうかがわれます。
《アーモスト館/登録有形文化財》
https://www.doshisha.ac.jp/information/campus/buildings/imadegawa.html
1921年に創立100周年を迎えたアーモスト大学が、同志社に卒業生を送り出すプログラム「アーモスト・同志社プログラム」を開設しました。その第1回学生代表であったS.B.ニコルズの母親やアーモスト大学の卒業生からの寄付により、★W.M.ヴォーリーズが設計した建物で、1932年3月に竣工しました。1962年にゲストハウスが、1979年に無賓主庵が寄贈されて、併設施設も充実しています。現在は、主に外国人研究者の長期滞在用の宿泊施設として利用しています。2005年6月に登録有形文化財に指定されました。
・・・同志社大に来たのは、「相国寺」に立ち寄りたかったこともあります。そして、「伊藤若冲」を観たかったのです。
◆【相国寺「承天閣美術館】◆
602-0898 京都市上京区今出川通烏丸東入
http://www.shokoku-ji.jp/j_now.html
相国寺(正式名称・萬年山相国承天禅寺)は、明徳3年(1392)に夢窓疎石を開山とし、室町幕府第三代将軍足利義満によって創建された臨済宗相国寺派の大本山です。京都五山の第二位に列せられ、絶海中津や横川景三といった五山文学を代表する禅僧や、如拙・周文・雪舟らの日本水墨画の規範を築いた画僧を多く輩出し、地理的にも、文化的にも京都の中心に在り続けてきました。このような600年余の歴史により、中近世の墨蹟・絵画・茶道具を中心に多数の文化財が伝来しています。去る昭和59年4月、相国寺創建600年記念事業の一環として本山相国寺・鹿苑寺(金閣)・慈照寺(銀閣)・他塔頭寺院に伝わる美術品を受託し、保存及び展示公開、修理、研究調査、禅文化の普及を目的として当館は建設されました。現在では、国宝5点、重要文化財143点を含む多くの優れた文化財が収蔵されており、様々な展観を行っています。第一展示室には、鹿苑寺境内に建つ金森宗和造と伝えられる「夕佳亭(せっかてい)」を復元、第二展示室には近世京都画壇の奇才、伊藤若冲による水墨画の傑作である重要文化財「鹿苑寺大書院障壁画」の一部を移設しており、古刹の境内の静謐な空間で、間近に作品をご鑑賞いただけます。皆様のご清覧をお待ちしております。
★「伊藤若冲展」
2016年12月15日~2017年5月21日
生誕300年の去年、東京では長い行列ができた若冲。信心深い彼は京都・相国寺の大典和尚と親しく交わり、禅の教えを乞うた。そのため、相国寺には若冲作品が多く残る。開催された「伊藤若冲展」後期展示は酉年にちなんで若冲が特に愛した鶏を始め、鶴や鴨、叭々鳥などさまざまな鳥の豊かな表情を描いた作品を展示。中でも初公開の★《鸚鵡牡丹図》《岩上鷹図》が注目だ。鳥の他にも薄墨の間に白い線が浮き出る「筋目描き」が美しい《牡丹図 南海賛》などが初公開される。床の間など若冲の空間が見られる常設の重文《鹿苑寺大書院旧障壁画》も。
【伊藤若冲】(1716~1800)
http://www.shokoku-ji.jp/j_meihou_jaku.html
江戸時代の中期の相国寺は、伝統ある禅宗文化の拠点として多くの人々を魅き付けた。その代表が、奇才の画家として知られる伊藤若冲である。若冲は、世俗をすてて禅宗に深く帰依する宗教人でもあり、相国寺の住持大典和尚と深い交遊関係を結んでいた。その関係から若冲は、相国寺・ 金閣寺・銀閣寺に伝来する中国や日本の古画に親しく接する機会に恵まれた。文正筆「鳴鶴図」に触発された作品を複数制作したのも、こうした縁があったればこそである。されに若冲は、相国寺に「動植綵絵(サイエ)」30幅(のち宮内庁に献上)と『釈迦三尊図』3幅対を寄進し、鹿苑寺大書院の障壁画を手掛けた。とくに『釈迦三尊図』は、『動植綵絵』とともに毎年相国寺で参詣者に公開されたため、若冲の名は万人に知られるところとなった。
★鹿苑寺大書院障壁画
http://www.shokoku-ji.jp/j_meihou_jaku_syouhekiga.html
鹿苑寺の大書院の4間、および狭屋之間の床壁と襖には、若冲によって障壁画がそれぞれ描かれている。これらは水墨画の分野において全く独創的境地を確立したとされる若冲の傑作として声価が高い。二之間の松鶴図のところに 俯仰松間路 明心在紫霄 宝暦己卯孟冬 居士若冲造 とあり、宝暦9年(1759)10月、若冲44歳の時の作品であることが知れる。鹿苑寺にこの作品を描くことになった機縁は、若冲の精神的支えとなった当寺の梅荘顕常(大典禅師)であった。宝暦9年9月に龍門承猷が鹿苑寺第七世住持に決定した折梅荘顕常の斡旋により、入寺の記念の意味も含めて若冲に依頼し、大書院一連の襖絵50面を描かせたのであった。それにしても、本職の画家となってわずか4年、何のキャリアもない若冲の本質を見抜き、後水尾天皇ゆかりの玉座の間を含む5間にわたる障壁画を若冲1人に委ねた大典の慧眼には、心から敬意を表するのである。