・・・田中毅さんの作品が、八尾市・玉串川沿いに設置されているというので探しに来ました。
《柏村橋》581-0022八尾市柏村町3丁目
※恩智街道/恩智神社の西の大鳥居付近を起点に、府道柏村南本町線の東詰(★柏村橋交差点)から曙川、安中診療所前交差点(八尾街道交差)を通り、JR「八尾」駅までの街道でした。信貴山や善光寺参りの人達でにぎわった参詣道でもありました。
《八阪神社》
581-0868八尾市西山本町2-9-32
《小阪合尋常小学校跡地・山本幼稚園創立の地》
1873河内第四十一番小学校として、山本新田住友会所内(山本新田1番地)に設立(創設)1875万願寺小学に改称1879年万願寺小学校に改称1880山本小学校に改称1890年八尾尋常小学校山本分校に改称、小阪合55番地(現:西山本町2-2あたり)に移る。
1892八尾尋常小学校より分離し、中河内郡小阪合尋常小学校に改称、小阪合140番地(現★山本町一丁目公園)に移る。1933年中河内郡八尾第二尋常小学校に改称1933年山本601番地(現在地)に新校舎落成(山本小学校創立記念日)とする。
《玉串川》
http://www.pref.osaka.lg.jp/kenshi_kikaku/keikan-ustukushii/100kei-37.html
玉串川は、江戸時代の大和川付替え以前は★旧大和川の本流の一つであった。当時の川幅は相当に広く、流量も大きな暴れ川であった。現在は柏原で取水し、用水路として北流し、八尾市内で長瀬川を分岐し、東大阪の第二寝屋川運河(昭和30年代に開削)に水を落としている。近鉄「河内山本駅」辺りを中心とする二面張りのきれいな運河に面して民間事業者による住宅地開発が進み端正な住宅街が並んでおり、昭和40年頃より植えられた桜並木が人々の目を楽しませている。
http://www.city.yao.osaka.jp/site_policy/0000000012.html
http://www.city.yao.osaka.jp/0000017002.html
昭和40年ごろの玉串川の光景について、当時この地の★「天台院」住職で直木賞作家の★今東光氏は、「『この川で鮒や鰻、獲れたちゅうと誰もほんまにしよれへん』。玉串川への水の流れ工合を見に来た源作どんは畔を隣りにしている弥っちゃんと肩を並べて感慨に耽った。底には泥がたまり、水は上流の染織会社から流れて来る無気味な紅い色に染まってチョロチョロと流れているきりだ」【昭和40年「小説新潮」発表『水なき川』より引用】と記しています。このような状況を憂えた、当時の山本仲町会長の黒川竹松氏が「川を美しく緑あふれる町にしよう」と呼び掛け、住民から1口500円の寄付を募ると、多くの賛意を得ることができ、8年物のソメイヨシノ桜の若木120本の植樹が始まりました。昭和40年1月、寒風吹く中で町会総出の思いを込めた行動の始まりでした。山本仲町会の行動は、大和町会にも影響を与え、寄付金の募集のほか、町会のレクリエーション費用も充てて、同年2月には約100本の植樹がされました。この行動に続いた青葉町会の住民も同様の方法で費用を捻出し、吉野桜約100本を植樹したといいます。町会全員での水やりや施肥、自宅前の雑草引きなどの献身的な奉仕が実り、夏には根が定着し、翌年春には美しい花を咲かせました。山本小学校から東大阪市境の約1キロメートルの桜並木が誕生した瞬間でした。現在では、玉串川の桜並木は約1,000本にまで増え、近鉄河内山本駅から北側2キロメートルと南側3キロメートルの川沿いに続く春の風物詩として愛されています。地域住民による『桜をつなぐ物語』に思いを馳せながら、桜を大切に眺めて次世代につないでいきたいものです。
《天台院》
581-0868八尾市西山本町2-5-8
http://www.yaomania.jp/data/InfoDetail.asp?id=1354
紫雲山天台院といい、天台宗延暦寺末で、開基は南朝の勤王僧文観上人と伝えられる。 上人は南朝二代に仕え、正平12年(1357)天野山金剛寺で80歳で入寂したという。播磨国一乗寺で天台教学を修め、さらに真言律宗を北条寺で学び、壮年四天王寺に遊び、このとき河内に小庵を結んだと古記録にあるのがこの天台院であろう。★今東光和尚が特命住職となったのは昭和26年、作家として、政治家として24年間もこの地を愛し河内を舞台に数々の名作を生み、一躍世の脚光を浴びたが、昭和52年没、墓は東京上野東叡山寛永寺にある。
【今東光】(1898~1977)
https://web-lib.city.yao.osaka.jp/yao/yao_15.html
1898年(明治31)横浜生まれ。父の転勤に沿い、幼年・少年期を小樽・函館・横浜・大阪と転じ、10歳より神戸で育つ。この頃、神戸の御影に家があり、父同士が友人だった郡虎彦の影響で文学に関心を持ち、永井荷風、谷崎潤一郎を耽読、漢文に長け北原白秋、室生犀星と文通を試みるほどの早熟振りであったが、牧師の娘と交際したことなどから関西学院中学部を第3学年の1学期の終わりで諭旨退学になった。兵庫県立豊岡中学校に転校するも地元の文学少女と恋愛したことから素行が悪いとされ退校処分を受ける。こののち正規の教育を受けることなく、本人の記すところに拠ると「以後独学」とある。
1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会/太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾/川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。またこのころ東郷のとりもちで、本郷三丁目の西洋料理店 燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも短期間交際した。(芥川龍之介がこのエピソードをもとに 短編『葱』を創作。)1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」が掲載される。この間、一家は神戸から東京市本郷区西片町に引越し、東光も実家に戻った。1918年秋、駒込、佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯、師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、神戸時代の知人(二弟の同級生)池田虎雄=麗進(大阪 千日前、日蓮宗 妙見宮 蓮登山自安寺)の紹介で、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と号し、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。
1927年、芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。
直木賞作家で天台宗の僧侶でもあった今東光氏は、八尾市中野(現在の西山本町)の天台院住職として、昭和26年から50年まで、およそ四半世紀を八尾で過ごしました。昭和32年、『お吟さま』で直木賞を受賞(同年、第1回八尾市文化賞をも受賞)後、『悪名』・『こつまなんきん』・『河内風土記』など、一連の”河内もの”を立て続けに発表。その多くは映画化され、流行作家として不動の地位を築きました。八尾を第二の故郷と呼び、その風土や人情をこよなく愛したといわれる東光氏ですが、地元の八尾では、オーバーな表現で河内・八尾のイメージを落としたとして、複雑な思いを抱く人も少なくありません。そうした中、生誕100年にあたる平成10年には、八尾市民と市職員から成る「市民と文化を考える会」が、研究テーマに今東光を選び、冊子『今東光の横顔』を作成するなど、功罪ひっくるめた東光氏再評価への端緒を開きました。このような取組みは、郷土八尾をよりよく知る意味でも意義深いものといえるでしょう。 今東光氏は、八尾を去った2年後の昭和52年9月、79歳で亡くなりました。ゆかりの天台院境内には、八尾文化協会による「東光碑」が建てられています。
・・・田中毅さんの作品を発見しました。
【田中毅】
1951宮崎県青島生まれ1977東京芸術大学大学院彫刻専攻修了
1984「現代のユーモア」展(埼玉県近代美術館)
1985神戸具象彫刻大賞展《大賞》
1987「彫刻動物園」(栃木県立美術館)長野市野外彫刻賞
1988石のさとフェスティバル展《牟礼町議長賞》
1989横浜彫刻展《入賞》
1991パルタウン具象彫刻公募展《優秀賞》神戸具象彫刻大賞展招待参加《優秀賞》
1994現代日本具象彫刻展《大賞》倉敷まちかど彫刻展《入賞》
1997絵本&アートどうぶつえん展(姫路市立美術館)ふれあい彫刻展(宮崎県立美術館)
2000むし虫ワールド(群馬県立近代美術館)
2002日向現代彫刻展市民大賞受賞
2003KAJIMA彫刻コンクール(マケット入選)三好彫刻フェスタ特撰受賞(愛知県三好町)
2004十日町石彫シンポジウム10周年記念作家展「ふくろうの見える風景」展(ギャラリーグロス)石彫シンポジウム in IKAWA、個展(松坂屋本店、名古屋)
2005昭島リレー美術展2005
2006石のさとフェスティバル展(神興電線(株)賞)
2007ナウアート展(浦和)桜の森彫刻コンクール町民賞受賞(秋田県井川町)
2008個展(松坂屋本店、名古屋)
・・・せっかくなので玉串川沿いをもう少し散策してみましょう。