参考図書資料(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《参考》和歌山大学「紀州経済史文化史研究所」

https://www.wakayama-u.ac.jp/kisyuken/page-239.html

★2015年度特別展「南海電車旅客案内」

【第一会場】紀州経済史文化史研究所展示室(附属図書館3階)

平成27年10月26日(月)~11月27日(金)

【第二会場】イオンモール和歌山イオンホールB(3階)

平成27年11月3日(火・祝)~11月15日(日)

 

・・・展覧会資料(図録)が届きました。図録は、切手を同封し申請すれば送っていただけますので、ぜひHPをご覧ください。

 

 

・・・さて、参考資料として重要なものが抜けていましたので、追加します。

 

1903.4《府立大阪博物場案内図》蔵:中之島図書館

当時の博物場の姿を確認できる資料として「府立大阪博物場案内図」がある。発行された1903年(明治36)には、府立大阪博物場に程近い天王寺公園で、第5回内国勧業博覧会が開催されており、内国勧業博覧会の開催にあたっては、会場の地図などを載せた会場案内が発行されたが、この絵図も同年に発行されているので、内国勧業博覧会に合わせて作成されたものと考えられる。そして、当時の新聞がこの博物場で、内国勧業博覧会協賛の演能会が開かれたことを報じている。つまり、府立大阪博物場が、内国勧業博覧会の支援施設として機能していたことが伺える。

http://www.oyama-ct.ac.jp/A/labs/OKUTOMI_LAB/

(2008.1日本建築学会計画系論集第73巻第623号「明治期の博覧会における能楽場と貴賓来場との関係について」文:奥冨利幸)より

 

 

・・・この「案内図」の発行者「遠藤與七郎」さんについて1902「第五回内国勧業博覧会出品解説書書式案内」編:遠藤与七郎/発行:駸々堂という資料が「国立国会図書館デジタルコレクション」で確認できましたので、奥冨さんの指摘通りではないかと思われます。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801995

 

 

《参考》2000.2.7京都経済新聞より

個性出せず破綻老舗書店「駸々堂」

京都市内に多くの店舗を持つ老舗書店の駸々堂(大阪市中央区南船場2-4-23、大渕馨社長、資本金8000万円、従業員100人)は1月31日、大阪地裁へ自己破産を申請し、同日保全命令を受けた。書店業界では消費者の本離れに加えて、大規模店舗を全国展開する大手が激しい投資競争を繰り広げている。駸々堂もこうした動きに対応するために過剰な投資を余儀なくされていたが、販売は逆に減少し行き詰まった。京都では長く、京宝店(河原町通六角)が市内唯一の大規模書店として顧客の支持を集めてきた。馴染みの書店の倒産に、市民の間にさまざまな波紋が広がった。関連会社で教科書・参考書出版の駸々堂出版(大阪市西区阿波座2-4-23、同社長、従業員9名)も同日同地裁に自己破産を申請し、保全命令を受けた。帝国データバンクによると、負債総額は、2社合わせて135億7500万円。申請代理人は、叶智加羅(かのう・ちから)弁護士(大阪市北区西天満)。駸々堂は、1881年に創業した大渕書店を、1968年4月に株式会社大渕書店として法人化した書籍・雑誌小売業者で、92年12月には株式会社駸々堂へ変更。単行本・学術書・雑誌・教科書などの書籍、その他文具事務用品類の小売業を営み、関西における大手老舗書店として知名度は高かった。大阪、京都、奈良、兵庫で積極的に店舗展開し、97年1月期の年売上高は約126億4200万円にのぼっていた。しかし、多店舗展開に伴う借り入れ負担が重荷となっていたうえ、ジュンク堂(淳久堂、本社神戸市)など大型店動向への乗り遅れから集客力が低下、少子化、インターネットの普及などによる業界全体の書籍・雑誌販売部数の低迷もあいまって、99年同期の年売上高は約118億8400万円にまで落ち込んでいた。こうした中、人員削減に努めたものの財務面悪化に歯止めがかからず、大幅な債務超過を余儀なくされていた。また、主力仕入先が代表者所有不動産に担保設定するなどしたことから取引先の警戒を招き、立て直せず今回の措置となった。申請当日、駸々堂京宝店は、午後5時まで営業。その後は店を閉め、営業停止の旨をを伝える張り紙を店舗入り口に張り出した。店の前には人だかりができ、業界関係者らがあわただしげにメモを取る姿も見られた。

 

・・・残念ですね、しかしこの資料で嬉しい発見もありました。裏表紙に「カエル」が自転車を漕いでいるのです。

 

《参考》book cover catalog「書皮図鑑」

http://www.geocities.jp/s_yakoneko/shohi_top.html

http://www.geocities.jp/s_yakoneko/animal.html

 

・・・「駸々堂」のカエルを探していたら「書皮図鑑」を発見・感動、残念ながら「カエル」のマークは見つかりませんでした。

 

 

1922.11《大阪府全志》著★井上正雄

資料収集以来13年の歳月をかけ大正11年刊行された本書は、大阪府全域をその対象とし、各郡市町村の成り立ち、各町・各村など小区域ごとの支配関係や区画の変遷、社寺仏閣・名所旧跡の由来を網羅、地誌類の文献としての価値は非常に高いものである。昭和50年、60年の二回にわたり復刻出版された。

〈巻之一〉大阪府管地の分合/大阪府制度の変遷1264頁

〈巻之二〉国郡市町村志(摂津国 大阪市 東区 南区 西区 北区)1314頁

★大阪府立博物場/大阪府立博物場は美術及び工芸の進歩発達を図るが為め此に設けられしものにして、当初は美術品および工芸品を陳列せる小規模のものに過ぎざりしも、大会・小会の二種に分ち、大会は毎年凡百日間之を開き、其の前後に開会するを小会とせり。然るに年を経るに従ひ、屋舎漸く腐朽に傾き、且事業も漸く拡張せられしかば、明治十九年に至り隣地七百八拾坪を買入れて事務所と物品陳列室二棟を増築せしも、美術品陳列室の不適当なるを認め、同二十・二十一の両年度に跨りて美術館を新築し、別に獣禽舎を設置して珍鳥奇獣を飼育し、同二十九年更に北側の地所七百六拾餘坪を買入れ、美術館の両側にありし売品室を取除き、東門ならびに売品室四棟の建設に着手して同三十年に竣成し、同年復たむ能楽堂の改築に着手し、同時に古器物陳列及び諸会催所を建設して翌三十一年竣成し、同三十六年第五回内国勧業博覧会の当市に開設せらるるに際し、諸種の設備を整へ、以後累次継続施設し、且有志者の寄附物件等ありしかば、諸般の設備大に加はり、美術館には四時適応の美術品を陳列して当業者の参考に供し、能楽堂は斯界熱心家の演技場となり、古器物陳列及び諸会催所は玩器の展覧会・書画会・生花会・各種品評会等に利用せられ、獣禽舎は児童の眼を娯ましむると同時に、教育に資する所少からざりしが、大正二年末に至り大阪府は当場敷地内に府立商品陳列所を建設するに決しければ、従来存したる建物等の多くは撤廃せられ、飼養の禽獣は同三年九月三十日大阪市経営の天王寺公園に引き渡されて、現在当場に附属せるは能楽堂・集樂館及び茶室のみとなれり。

〈巻之三〉国郡市町村志(摂津国 東成郡 西成郡 三島郡 豊能郡)1440頁

〈巻之四〉国郡市町村志(河内国 南河内郡 中河内郡 北河内郡)1568頁

〈巻之五〉国郡市町村志(和泉国 堺市 泉北郡 泉南郡)1088頁

〈附図〉12葉

 

【井上正雄】(1866~1924)

『東区史』(1939、東区役所)第5巻所収の井上正雄氏の伝記が紹介するところによると、井上正雄氏は、宮崎県の新聞記者、県会議員をへて大阪府の地方課職員となりました。井上氏は、職務を通じて府内各町村の沿革が不明となっているものが多いことを知りました。そこで、1910年から資料調査に着手したのですが、日常業務との両立が困難となり、1913年、ついに意を決して職を辞し、すべてをなげうって一人で府内市町村を巡り、役所の記録や寺社・個人宅に蔵されている資料、里伝を採集することに専念したのでした。1919年には『大阪府全志』3篇の大著が完成したのですが、私財を費やしても出版することは容易ではありませんでした。井上氏と彼をささえつづけた夫人や兄の堅忍不抜の努力は、人びとを感激させ、やがて大阪府や大阪市の知るところとなって、『大阪府全志』出版事業に補助金が贈られることになりました。その後も編集作業はつづけられ、1922年、職を辞してからじつに10年の歳月をかけて『大阪府全志』全5巻が出版されたのでした。その後、1924年から関東大震災の救援誌の編纂にたずさわっていましたが、直後に病臥に倒れ、亡くなりました。

 

 

1942.《東区史》

旧東区は、古くは難波の宮として、近くは商都大阪の中心として、常に政治・経済・文化の中枢として栄えてきた。『東区史』は昭和17年に完成し、最高の学問的水準を保つ執筆陣による内容、1084点にのぼる図版等から絶讃を博した。

〈第一巻 総説篇〉風土/古代の大阪/渡辺の庄/石山本願寺/大阪城/近世の繁栄/幕末の大阪/維新後の発展 図版113点

★大阪博物場/大阪博物場は府が明治七年九月内務省の認可を得て旧府庁の建物を改修し、同八年四月諸規則を定め、十一月始めて開場したもので、その場所は西町奉行所の跡にして、当時の東大組第七区内本町橋詰町四十三番地であった。

設立の趣旨/会期/

公立大阪博物場と改称/博物場は十二年に公立大阪博物場と改称されて従来の小会は廃せられ、十三年二月には本場に於て綿糖共進会が開催された。そこで同年の大会は難波別院(南御堂)を借用して百日間開場し、参考品には宮内省御物・各社寺の宝物等が展観された。之より先き、十一年八月に大阪府立勧工場が西区江戸堀南通三丁目に設置され、翌十二年に開場された。これは府下の製造物を一場に蒐集羅列しものであった。而して博物場と共に府勧業課に属し、両者の目的性質は大同小異であったため、十三年六月には勧工場は廃止されてその陳列品は悉く博物場内に移されたのである。

 

 

〈第二巻 行政篇〉総説/区会/財政/教育/社会事業/兵事及軍衙/保健災異/官衙/公議員 図版138点

〈第三巻 経済篇〉工業/商業/金融/交通 図版179点

〈第四巻 文化篇〉学問/芸術/出版文化付放送事業/風俗/神社/宗教/名所旧蹟 図版278点

〈第五巻 人物篇〉国学者/漢学者/科学者/医家/文芸家/俳人及狂歌師/書家/画家/工芸家/雅人名流/先覚者 図版376点