久野節 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・せっかくなので「旧天王貯水池」周辺を散策したいと思います。

 

《方違神社のくろがねもち》

590-0021堺市堺区北三国ヶ丘町3丁

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/tennen/kuroganemochi.html

http://www.pref.osaka.lg.jp/bunkazaihogo/bunkazai/houtigaijinja_kuroga.html

「くろがねもち」は暖かい地域に多く生育する常緑樹で、市内には40本をこえる大木が知られています。なかでもこの木は径・幹周が一番大きく、かなりの樹齢をもつ巨樹であるといえます。かつては方違神社の参道脇に位置し、豊かな緑をたたえていたと思われますが、現在は周辺の都市化が進み、樹勢にもやや衰えがめだちます。

 

 

・・・鉄骨に支えられ、なんだか痛々しい。

 

 

《反正天皇陵古墳(田出井山古墳)》

590-0021堺市堺区北三国ヶ丘町2丁

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/dkofun/database/hanzeitenno.html

北三国ヶ丘町にある前方部を南に向けた前方後円墳です。百舌鳥古墳群の中では北端にあり、現在は百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。墳丘の規模は全長約148m、後円部径約76m、高さ約13m、前方部幅約110m、高さ約15mで百舌鳥古墳群では7番目の大きさです。墳丘は3段に築かれ、そのかたちや出土した埴輪から、5世紀後半頃に造られたと考えられています。現在、一重の盾型周濠がめぐっていますが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつて二重濠があったことが確認されています。

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/dkofun/tansaku/hanzeitenno.html

●鈴山古墳~方墳

反正天皇陵古墳(田出井山古墳)の東側にあり、陪塚と考えられています。一部が削られているために形が変っていますが方墳です。一辺が22メートル程で、埴輪が立てられており、濠がめぐらされていたと考えられています。

●天王古墳~方墳

反正天皇陵古墳(田出井山古墳)の東側にあり、陪塚と考えられています。円墳のように見えますが方墳です。1辺が11メートル程で、濠がめぐらされていたと考えられています。

 

 

《方違神社》

590-0021堺市堺区北三国ケ丘町2-2-1/072-232-1216

http://www.hochigai-jinja.or.jp/

河内、和泉、摂津の三国の境にあり、方位のない清地とされ方除祈願で知られています。遠くへ旅する時や家を移る時などにこの神社に参れば災難に会わないという言い伝えがあり、新築や転居等の際に厄除けのために各地からたくさんの人が参詣に来ます。節分の日の飴、五月の節句の粽(チマキ)は大変御利益があるそうです。正式には「かたたがえ」ですが「ほうちがい」さんと呼ばれて親しまれています。

 

 

《大阪府立三国丘高等学校同窓会館(旧三丘会館)》登録年月日:20000215

590-0023堺市堺区南三国ヶ丘町2-2-36/072-233-6005

http://www.osaka-c.ed.jp/mikunigaoka/all-index.html

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/torokuseido/mikunigaoka.html

旧制堺中学校の図書館機能を有する記念館として建設。設計は、同校の1期生で初代鉄道省建築課長★久野節。玄関庇を支持する先すぼまりの円柱、階段室塔屋の縦長の連続窓と庇の構成などモダニズム色の強い造形に特色が認められる。

【久野節】(1882~1962)

1882堺市に生まれる。元岸和田藩士の長男。1907東京帝国大学建築学科を卒業。卒業後、千葉県技師となる。191鉄道省技師、中部鉄道管理局。1920鉄道省の初代建築課長となる。1924大連駅コンペ審査員。欧米に停車場視察のため派遣。1926逓信省技師を兼務。3月、高等官二等に叙せられる。9月、中央諸官衙建築準備委員会幹事。12月、御大葬委員会工事部委員。1927従四位叙せられ、勲四等瑞宝章受勲。鉄道省を退官、久野設計事務所を設立(1941年頃閉鎖)。鉄道省嘱託。1948旧知の戸田利兵衛(東京帝国大卒)に誘われ、戸田建設相談役に就任。1962死去、80歳没。

★主な作品

大阪鉄道病院(1929)南海ビルディング(南海難波駅。1930、1933、高島屋大阪店が入居)国光生命保険相互会社大阪支店ビル(現・福原ビル)(1932頃)神戸そごう百貨店(三宮阪神ビル)(1933)★三国丘高校同窓会館(1934)旧蒲郡ホテル(1934)東京競馬クラブ府中競馬場(東京カンツリークラブ東京競馬場)堺市立堺葬儀場(1936)堺市役所(1938-1944)大鉄百貨店阿倍野店(後の近鉄百貨店阿倍野店)(1937外壁は1988村野藤吾設計の新館部分に合わせて改装した。2007建替えられ現存せず、また百貨店は隣接のあべのハルカスと一体化され「あべのハルカス近鉄本店」に改称された)

 

 

《参考》1932頃「福原ビル」(旧国光生命保険大阪支店)設計★久野節建築事務所

540-0031大阪市中央区北浜東6-14/06-6943-0696

http://www.fukuhara.co.jp/index_j.html

我々福原グループは販売部門である福原産業貿易(株)を中心に、丸編機製造部門である(株)福原精機製作所とその編機用の針及びシンカー等の部品を製造する福原二一ドル(株)を有した世界でも例を見ないグループ会社であります。また我々は、アメリカにその拠点を置くモナーク社と長年に亘り技術販売提携を結び、ヨーロッパ及びアメリカ地域ではMONARCHブランドとして、またその他の地域ではFUKUHARAブランドとして独自の販売ルートで世界に販売して参りました。我々の丸編機から生み出されるニット生地はインナーウエアー、Tシャツ、ポロシャツ、カットソー、スエット類の衣料用途、トレーニングウエアー、レオタード、水着等のスポーツ用途として我々の日常生活の中で無くてはならないものです。また近年ではその特性を生かしカーシート、内装材としての自動車産業用途やメディカルテープを中心に医療用途、マットレスティッキング等の衛生用途、土木、建築等の産業資材用途等その適用は益々拡がりを見せています。我々は永年培ってきたニット技術を基に、これからも日本での物づくりに拘った精密で高品質な丸編機と針を皆様に提供し、人類の基幹産業である繊維産業の一翼を担う役割を演じたいと願っております。

《国光生命相互保険会社》

日本で3番目(第一生命、千代田生命)の相互保険会社として明治40年10月に開業しました。昭和に入り状況が悪くなり、昭和6年には新聞記事禁止処置が出され、昭和8年、東海保険、蓬莱保険、中央保険と合併することになり、昭和生命保険相互会社と名前を変えます(昭和生命は、昭和16年、第一生命に包括される)。