★日本ペイント「歴史館」
http://www.nipponpaint-holdings.com/company/heritage/
日本には古くから漆塗りに代表される塗料の歴史はありましたが、洋式塗料の歴史は明治14年、日本ペイントの前身である光明社の設立に始まります。
茂木春太、重次郎兄弟の努力で亜鉛華の製造から固練りペイントの試作へと進み、海軍塗工長・中川平吉氏の尽力を得て塗料会社が生まれたのです。そして明治31年、株式会社組織として日本ペイントと改称、我が国の本格的塗料工業が誕生しました。創業以来、日本ペイントは業界のリーダーとして研究開発、技術の蓄積に努め、あらゆる産業の広範な用途に、すぐれた塗料と塗装システムをお届けしてきました。
さらに長年培った塗料技術を応用し、ファインケミカル、エレクトロニクスなど新規分野へも積極的に参入し、多角化をめざしています。当社本社ビル1階にあります歴史館では、豊富な資料をもとに、これらの歴史を再現することによって、過去から現在、そして未来へと続く当社の事業の変遷をご紹介しています。目でみる塗料工業史としてご覧いただければ幸いです。
《参考1》余部鉄橋「空の駅」~余部鉄橋の再出発!~
https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks05/soranoeki.html
旧余部鉄橋は、明治45年に建設された東洋随一の鋼トレッスル橋で、我が国有数の橋梁として、当地域だけでなく、多方面から多くの人々が訪れる観光名所として親しまれてきました。しかし、昭和61年★列車転落事故を契機に、架け替えに向けた取り組みがなされ、平成22年8月に現在の余部橋梁が完成しました。約100年間山陰本線の運行を支えてきた旧余部鉄橋の歴史を後世に継承するとともに、人々の交流を促す観光拠点とするため、鉄橋の一部(餘部駅側の3橋脚3スパン)を展望施設として残し、旧鉄橋直下に自由広場等からなる公園施設とあわせ、余部鉄橋「空の駅」として整備しました。
《参考2》民宿旅館「川戸屋」
669-6671兵庫県美方郡香美町香住区余部1733-1/0796-34-0315
1986年(昭和61)12月28日(日)午後1時25分頃、鉄橋を通過中の香住発浜坂行き回送列車が日本海からの突風にあおられ、機関車と客車の台車の一部を残して7両が・・・
《NEWS》2010.7.16朝日新聞デジタルより
喜び悲しみ1世紀、終章/余部鉄橋(兵庫県)
兵庫県香美町の余部(あまるべ)鉄橋は、地上約41メートルの高さでJR山陰線をつないでいる。長さは310メートル。1912年の完成時、やぐら状に橋脚を組む「トレッスル式」の鉄橋として東洋一の規模を誇った。以来、地域の足を100年近く支えてきたが、16日にその役目を終える。橋の完成で山陰線は全線がつながったものの、地元駅の完成はそれから半世紀後。橋はその間、地域の人たちにとって「生活道路」の趣だった。 西垣栄子さん(79)がこの町に嫁いできたのは60年前。文金高島田に黒留め袖姿で鎧(よろい)駅に降り立つと、すそをからげ、介添人に両脇を抱えてもらいながら山陰線内を進んだ。暗いトンネル内は枕木を、鉄橋はレール脇にある幅約1メートルの歩行路を歩いた。その距離1.8キロほど。「こんな所で暮らしていけるだろうか」と不安でいっぱいになった。その後、保母の仕事に就いた西垣さんは、小学校教師の夫と鉄橋を歩いて通勤した。日本海に面した一帯は、冬の間、「うらにし」と呼ばれる北西の季節風が吹く。海岸から鉄橋まで約70メートル。地元に住む元国鉄職員の山西岸夫さん(87)が「波のしぶきが海から鉄橋まで飛んでくる」と話す強い風が、1986年の暮れに大事故を引き起こす。突風にあおられた回送列車が橋から転落して水産加工場を直撃、働いていた女性と車掌の計6人が亡くなった。事故後、強風時の運行制限が強化され、冬場を中心に山陰線の運休や遅れが増えた。安全性と定時運行をめざし、橋の架け替えが決まった。鉄橋の約7メートル南に建設されているコンクリート橋には、眺望の妨げにならないよう透明な防風壁がつく。近代遺産として鉄橋の廃止を惜しむ声は少なくない。11基ある橋脚のうち、西側の3基は展望台に模様替えされる予定だ。国鉄を退職後、「鉄橋ガイド」としてその歴史を観光客らに語ってきた山西さん。16日を最後に、鉄橋と共に退く。「寂しいけど、鉄橋は思い出の中にあるから」
・・・正直言って、こんなに充実した展示内容だとは思っていなかっただけに、感動しました。そして「余部橋梁」のことをあらためて考えさせられるとともに、塗料・塗装の重要性について再認識しました。