・・・「泉茂」展の後は「コレクション」展、フラッシュを使用しなければ撮影OKなので、じっくり鑑賞させていただきました。
・・・会場に入ると「佐伯祐三」がズラッ~とあり、そして、「具体メンバー」の作品を確認しました。
【高井貞二】(1911~1986)
大阪市出身。本名は貞治。和歌山県伊都中学卒業後、上京。二科展で入選し、シュルレアリスムの画家として活躍。川端康成『抒情歌』などの挿絵も描いた。のち具象画に転じ、1940年二科展特待賞。戦後は「行動美術協会」設立に参加。1954年渡米。1963年「二紀会」委員。
・・・「二科展」から「行動美術協会」そして「二紀会」へ、自分探しですよね。
《参考》山田視覚芸術研究所「日本のシュルレアリスムの歴史」より
・日本にシュルレアリスムがもたらされたのは、まず文学からである。アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した翌年、1925年にイギリス留学から帰国した詩人の西脇順三郎が紹介しはじめたといわれる。
・絵画のシュルレアリスムが紹介されはじめたのは、1928年3月に、マックス・エルンストのコラージュ作品の図版が掲載された『山繭』3巻3号である。
・日本の美術家が作品にシュルレアリスム風の表現を発表し始めたのは1929年の二科展である。古賀春江、東郷青児、川口軌外などの作品にその傾向が見られる。ただし皆、シュルレアリスム理論をもとにして描いたものとは思えるものではなかった。 二科展で古賀春江が発表した作品「海」が、一般的に日本で始めてのシュルレアリスム絵画と評価されている。
・1929年、パリで実際にシュルレアリスム運動と接した福沢一郎が、1931年の独立美術協会の第一回展で発表したマックス・エルンストの『百頭女』に影響を受けたと思われる37点の作品群を発表している。これは話題を集めることになった。福沢はそれ以後、1939年まで独立美術協会会員として発表し続け、新聞や雑誌などのメディアへの露出も多く、若い画家たちに多大な影響を及ぼし、日本におけるシュルレアリスム絵画の牽引者となった。
・1930年1月、美術雑誌「アトリエ」が出した「超現実主義研究号」は、日本で初めて本格的にシュルレアリスムの美術を取り上げた出版物として出版される。
・1936年にロンドンで大規模なシュルレアリスム展「第一回国際シュルレアリスム展」が開催され、その二年後の1938年にパリで第二回展が開催される。そのパリでのシュルレアリスム展に唯一日本人で参加したのが岡本太郎だった。
・日本のシュルレアリスムは第二次世界大戦の開戦とともに弾圧されていく。戦後、ふたたびシュルレアリスム的な表現が現れる始めるのは1950年代なかばである。
・1953年には「前衛美術会」の主導によって、シュルレアリスム的動向をもつ作家たちが「青年美術家連合」を結成している。中村宏、河原温、池田龍雄、福田恒太、山下菊二らが参加している。
・1960年に東京国立近代美術館で、日本のシュルレアリストたちを集めた大規模なシュルレアリスム展「超現実絵画の展開」が開かれる。参加作家は、浅原清隆(1915-1945)阿部展也(芳文)(1913-1971)安部真知(1926-1993)靉光(1907-1946)飯田操朗(1908-1936)池田龍雄(1928)★泉茂(1922-1995)伊藤好一郎(1926-1998)今井大彭(1911-1983)上野省策(1911-1999)上村次敏(1934-1998)歌川国芳(1797-1861) 瑛九(1911-1960)大塚耕二(1914-1945)大塚睦(1916-2002)岡本太郎(1911-1996) 織田リラ(1927-1998)小山田二郎(1915-1991)葛飾北斎(1760-1849)桂ゆき(1913-1991)桂川寛(1924-2011)加藤清美(1931-)加納光於(1933-)川口軌外(1892-1966)河原温(1933-)北脇昇(1901-1951)古賀春江(1895-1933)駒井哲郎(1920-1976)小牧源太郎(1906-1989)佐久間阿佐緒(1928-)下郷羊雄(1907-1981)白木正一(1912-1995) 杉全直(1914-1994)鷹山宇一(1908-1999)立石鉄臣(1905-1980)谷中安規(1897-1946) ★玉置正敏(1923-2001)土屋幸夫(1911-1996)鶴岡政男(1907-1979)寺田政明(1912-1989)利根山光人(1921-1994)中村宏(1932-)野田好子(1925-)浜田知明(1917-)浜田浜雄(1915-1994)早瀬龍江(1905-1991)★福沢一郎(1898-1992)古沢岩美(1912-2000)堀田操(1921-1999)本田克巳(1924-)松沢宥(1922-2006)間所紗織(1924-1966)真鍋博(1932-2000)三岸好太郎(1903-1934)水谷勇夫(1922-2005)三井永一(1920-)宮城輝夫(1912-2002)森克之()矢崎博信(1914-1944)籔内正直(1916-)米倉寿仁()、こうして1960年代の前衛ムーブメントと合流していくことになる。
・・・引用が長くなりましたが、「玉置正敏」さんについて知りたかったからなのです。
【玉置正敏】(1923~2001)
新制作協会会員。1959五味康祐「麻薬3号」装丁:玉置正敏、1960安部公房「石の眼」/装丁:玉置正敏、1974 李恢成「青丘の宿」装丁:玉置正敏。1977「詩画集7」/共著:世耕政隆・玉置正敏・草間彌生/出版:ジャパン・エディション・アート社、洋画家・玉置正敏と芸術家・草間弥生の絵に、政治家で医者、日本文芸家協会に所属した詩人でもある世耕政隆の詩を収録した詩画集。詩人世耕正隆とこの詩画集について(玉置正敏)草間彌生について(玉置正敏)
・・・むむむ、これ以上のことがわかりません。またまた「探偵アートスクープ」の課題となりました。
【福沢一郎】(1898~1992)
1918年に東京大学文学部に入学したが、彫刻に興味をいだき退学、朝倉文夫の弟子となった。23年『酔漢』で帝展初入選。24年フランスに渡りヨーロッパ各地の古典絵画を見て回るうちに絵画への転向を決意した。
・・・「文学」から「彫刻」そして「絵画」へ、カッコイイ。
・・・キリガナイノデ、コレクライニシテオキマス、ハイ。