・・・これまで参考にした図書資料もかなりの量となり、内容的に重複するものも多くありますが、「府立大阪博物場」について様々な角度から研究・関心がもたれてきた証でもあり、年代ごとに整理し掲載(再掲含む)することにしました。
1899《南海鉄道案内(上・下)》著:宇田川文海
日本最古の民鉄である南海電鉄(当時は南海鉄道)が明治32年に発刊した沿線ガイドブックです。と同時に民鉄の沿線ガイドブックとしては日本で最初のものになります。著者の宇田川文海は、当時の関西文壇では名の知れた人でした。南海鉄道案内は上下2巻を一冊とし発刊されました。上巻は主に大阪府内を下巻は和歌山市周辺を取り上げています。
★博物場 難波停車場より十五丁餘 は明治七年九月内務省の認可を得て、今の本町橋詰町五十八番地、即ち舊大阪府廳の建物を假用ひ、翌八年十一月初めて開館し、爾来土地を買弘げて陳列室及び事務室を設け、或は美術館を建るなど、漸次規模を拡張し、大阪府の監督の下に属してゐましたが、二十二年内務省令第一號に依り、同年六月より市郡連帯の所属に変じたれど、尚大阪府の管理に属しています、現今の敷地坪数五千四百五十九坪七合四夕、建坪千○九十五坪三合四夕、場内に西洋造の美麗な美術館あり、尋常陳列所数棟あり、諸雑貨を鬻ぐ賣店あり、茶室あり、目今建築中の能舞台あり、動物園あり、数種の花卉を栽ゑて四季に花を絶さず、美術館には年中新古の美術品を陳列し、春秋の二季には美術品の大展覧会を為し、又市内の日本画と洋画の専門家諸氏、此館を假りて時々新画の展覧会を開くこともあり、茶室では時々茶会花の会を催し、能舞台では時々能狂言和洋音楽の合奏など催す事があると・・・此ういふと博物場も可成り其用を為してゐるやうだが、只今の組織では、只人に買物の便利を與へるのと、夫から見聞について高尚の娯楽を與へることの二つの効能はあるが、肝腎の人智を開発するの用が薄いやうに思はれる、案内者は常に夫を遺憾に想ってゐるのです、今度場内を拡張すると共に其他の組織をも改革して、博物場の名に背かぬやう、否、大阪博物場と云っても羞かしくないやうに、完全なものにすることを願ひたく思ひます。通券は貳銭で、一年中を毎日平均して千二三百人に下らないといふ、又盛んなりと云つべしです。
《参考》和歌山大学「紀州経済史文化史研究所」
https://www.wakayama-u.ac.jp/kisyuken/page-239.html
★2015年度特別展「南海電車旅客案内」
【第一会場】紀州経済史文化史研究所展示室(附属図書館3階)
平成27年10月26日(月)~11月27日(金)
【第二会場】イオンモール和歌山イオンホールB(3階)
平成27年11月3日(火・祝)~11月15日(日)
平成27(2015)年は、南海本線「和歌山大学前駅(ふじと台)」が開業して3周年、また和歌山大学現在の栄谷キャンパスに移転して30周年の記念すべき年にあたります。近代和歌山の歴史は南海電鉄(旧阪堺鉄道)とともにあります。ここ紀州地域と大阪市域を結んだ最初の鉄道であった南海電鉄は、和歌山に新しい文物を、生活文化を支える物資を、そして多くの観光客を含む人を運び続けてきた鉄道です。そして和歌山大学にとってもされは、旧師範学校・旧高等商業学校以来同様でした。現在、和歌山大学に学ぶ学生のほぼ半数が南大阪出身であり、彼らは毎日、南海電鉄に乗車史大学に通っています。そんな彼らにとって日常生活のいわば「足」であり、なくてはならに存在がこの電車です。南海電鉄の歩みはすなわち、この地域の現代史の欠くべかざる一部だということです。本展は、南海電鉄の歴史を総観し、和歌山地域の現代史を振り返ります。また、インモール和歌山イオンホールB(3階)において、南海電鉄沿線及び駅舎写真、南海本線「和歌山大学前駅(ふじと台)」工事写真、竣工写真、イオンモール和歌山工事写真、竣工写真など写真パネル展も開催します。
・・・現在、展覧会資料を取り寄せ中です。
1911.9《最近之大阪市及其附近》著:大久保透
★博物場 東區本町橋詰町に在り、東横堀の東岸に位す大阪府の公設する所に係る、正面の美術館は珍奇なる接木細工より成れる洋風の建築にして各社寺秘蔵の古画を模したる貼天井と共に先ず人の注目を惹く。館内には新古の美術品を陳列し、周囲には賣店、茶店、運動場等あり。其他場内に動物園あり又各種の花卉を栽培して、四時衆芳を絶たず奏楽堂、能舞台を設け、時々和洋楽音の演奏。能、狂言の催しあり僅に二銭を投ずれば終日此楽園に遊ぶを得べし因に此所に徳川時代に於ける西町奉行所の跡にして明治七年九月舊大阪府廳の建物を充用し八年十一月初めて開場し爾後次第に規模を拡張したるものなるが現今の敷地五千四百餘坪、其裏門は往来繁き松屋町筋に在り。
1912《明治四十五年/大正元年各展覧会出陳目録(全)》出版:府立大阪博物場
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1229545
・・・この資料を入手したものの傷みが激しく、結局スキャナをかけて新しく印刷製本しなおしました。
1917.7.15 (大正6)大阪朝日新聞
《模範的陳列窓~八月に起工の府立商品陳列所広告館》
東区内本町橋詰町の元の大阪府立博物場跡に大阪府立商品陳列所が巍然として実業の大阪を飾っている一面、其裏通りに当る松屋町筋では所謂旧時代勧商場の元祖として永い間商品館の名で大阪人や地方人に親しまれていた建物も昨年を限りに打壊されて板囲いのまま過ぎて来たが今度愈大阪府立商品陳列所の一部「広告館」として建設さるべく其の設計準備一切が出来上ったので来る八月から工事に着手して来年三月中には全部竣工の予定である大体此の広告館は従来旧博物場建物では絵画展覧会其の他の催し物の場所を世間に供給していたのが商品陳列所となって全部陳列品で四六時中埋められることになると全く此の方面の求めに応ずることが出来なくなるので広告館を是れに充つるのが一つと他の一つは実業の中心地たる大阪に非常に重要と認められている広告の知識、設備、其の他に関して有益な材料を提供したい、夫れには差詰め商店の「陳列窓」なるものの飾り附け、斬新味其の他のことを公開したいということが重なる意味になっているので広告館は言い換うれば大阪府立の模範陳列窓とでもいうべきであろう夫れで建物は松屋町筋に沿うて徳井町から豊後町までの廓内に長さ四十間奥行き八間乃至六間、レチサンス式に則り建築材料は表面はハイリップ金属張りにモルター塗り、裏面は瓦にモルター塗りで装飾其他には人造石を使用して居るから大体に於いて清々しい白亜館と見るべく工事費は約六万円である、今其の構造の大体を述べると、総長さ四十間中、中央二階建と両側平屋との二つから成り中央二階建て建築物は十七間の長さに奥行き八間、高さは地上から軒まで四十二尺、塔の上まで九十尺面積は百四坪ある階下は各事務室に当て楼上大広間(百四坪)は演壇の設備あって専ら集会講演などに当つる計画、中央建物の両側には長さ十一間半宛の平屋が左右に在って何れも奥行き六間、高さ地上より軒まで二十四尺である、此の左右平屋は奥行き六間の内松屋町に面した八尺を割いて陳列窓に当て内部には平生陳列箱を備えて居るが求めに応じて直に展覧会場抔に利用し得る設備である、前面の陳列窓は二間を一函として左右各四箇半ずつ都合九つの陳列窓を設ける、各窓には幅五尺に高さ十尺の大硝子板を二枚宛箝める(是れは一枚百三十円宛の費用で米国に注文済みだから十二月には入荷の筈である)此の陳列窓の詳細な内部の飾り附けは未だ決定していないが大体に於て九つの各函は檜材のベニア(剥板)で仕切り、前面は十尺の幅として漸次狭め奥は八尺にしてある是は背景の関係上意匠を凝らしたものの一つである、表面窓のアーチとアーチとの間には石膏ブロンズで鳳の形を二十箇配置して装飾としてある夫れから陳列窓の夜を飾るべき電灯は幅二間に奥行き八尺の一函内毎に先ず下方からチューブランプとして各三十二燭の電灯が十四箇、上部からは十六燭の花形電灯が六箇、都合二十箇の電灯が使用される、そして広告館全体の電灯は二百三十一箇三千七百燭が燦として輝く筈である、兔に角竣工の暁には松屋町筋に華かな陳列窓が実業の都市を飾るであろう。