防災アート(5) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【坂茂】

1957東京都生まれ

1977-80南カリフォルニア建築大学

1980-84クーパー・ユニオン建築学部

1982-83磯崎新アトリエ

1985坂茂建築設計設立

1995-99坂茂建築設計設立年国連難民高等弁務官事所(UNHCR)コンサルタント

2000コロンビア大学客員教授

2001-08慶應義塾大学環境情報学部教授

2010ハーバード大学GSD客員教授

2011★京都造形芸術大学芸術学部環境デザイン学科教授

■主な受賞

1995毎日デザイン賞大賞「紙の教会」

1995日本建築家協会第三回関西建築家大賞「紙の教会」

1996第12回吉岡賞「カーテンウォールの家」

1997日本建築家協会新人賞「紙の教会」

1998日本建築学会第18回東北建築賞「JR田沢湖駅」

2000ベルリン芸術賞「ハノーパー万博2000日本館」

2001日本仕上学会作品賞World Arch:2賞 松井穂吾賞

2009日本建築学会賞(作品部門)「ニコラス-G ・ハイエックセンター」

2010フランス芸術文化勲章

2011オーギュスト・ペレ賞

2012毎日芸術賞 芸術選奨文部科学大臣賞

 

そして2014年★「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるプリツカー賞の受賞者に、京都造形芸術大教授の坂茂さん(56)が選ばれた。長年に渡り、世界各地の被災地で紙の住宅を作るなどの支援活動を行ってきたことが評価された。

 

 

《作品づくりと社会貢献の両立をめざして》

http://www.tozai-as.or.jp/mytech/12/12-ban00.html

なぜ災害支援を始めたかというと、建築家になってみて、そのプロフェッション、専門性に疑問を感じるところがあったからです。お金持ちの住宅を建て、行政の仕事をする。歴史的に見ても建築家の役割というのは同じです。貴族の館をつくり、宗教団体のための施設をつくる。つまり、特権階級が持つ財力や権力、政治力といった目に見えないものを視覚化するために、建築家が雇われてモニュメンタルな建築をつくってきたのです。そんなことがだんだん分かってきて、もっと建築家は市民の役に立つことをすべきではないかと思い、災害支援ボランティアの仕事を始めました。自然災害といっても、ほとんどが★人為的な災害だと言ってよいと思います。地震自体で人が死ぬのではなく、地震によって壊れた建物の下敷きになって人が死ぬわけですから、ある意味で建築家の★責任でもあります。それにもかかわらず、被災地に仮設住宅という建築をつくる時に、現場には建築家はほとんどいません。そこで、そういう現場にわれわれ建築家が★行くことによって、少しでもよいものができるのではないかと思いました。これまで積み重ねてきた自分の経験を、もう少し社会のため、あるいは災害で家を失った人たちのために役立てたいと思って、災害支援を続けています。

 

 

http://www.tozai-as.or.jp/mytech/12/12-ban02.html

僕は高校を出てすぐアメリカに行き、クーパー・ユニオンという学校を卒業しました。1984年に日本に帰ってきて、1985年からは自分で設計事務所を始めましたが、実務経験がないので、最初のうちは展覧会の企画と会場構成をしていました。1986年にフィンランドの建築家、アルヴァ・アアルト(1898〜1976年)の家具とガラスの展覧会をやりました。僕はアアルトの建築が大好きで、フィンランドにも何度も行って彼の建築のほとんどを見て回りました。アアルトの建築のような会場をなんとかつくりたいと思ったのですが、ふんだんに木を使う予算はありませんでしたし、使った木を展覧会終了後に全部解体して捨ててしまうのは★もったいないと思いました。何か代わりになるものがないかと探している時に、事務所に再生紙の紙の筒がたくさんあることに気が付きました。当時はよくトレーシングペーパーの芯やファックスのロールの芯に紙管が使われていて、それらを★捨てずにとってあったのです。その紙管を見て「これだ」と思い、いろいろ調べてみると、直径も厚みも長さも自由に設定して★安価につくれることが分かりました。そこで、展覧会では小さい紙管を連続させて天井を構成し、アアルトの「ヴィープリ図書館(1935年)」のような空間をつくりました。実際に使ってみると紙管には★意外と強度があることが分かって、展覧会後、建築の構造材として紙管を使うための開発実験を始めました。

 

 

http://www.tozai-as.or.jp/mytech/12/12-ban21.html

1995年に阪神・淡路大震災が起こって、そこで★何かしたいと、皆さんも思われたと思います。でもどこに行って何をすればよいか分からないほどの大混乱でした。そんな時、神戸市長田区の鷹取教会に日本政府が初めて受け入れたベトナム難民の人たちが信者として通っている、という新聞記事を★たまたま読みました。僕もちょうど国連で難民のために仕事を始めたところでしたから、被災地では★マイノリティの外国人は日本人以上に大変な思いをしているだろうと考え、とにかく鷹取教会に行ってみることにしました。鷹取に着くと、一面焼け野原でした。鷹取教会の建物も焼けて全壊してしまって、皆が外で焚き火を囲んでミサをしていました。僕はクリスチャンではないのですが、★素晴らしいミサだと思いました。ミサの後に、「なんとか教会を紙で再建しましょう」と神父さんに言ったら、「火事があったのに何を言うか」と言われ、全然信用してもらえませんでした。でも★諦めずに、毎週日曜の朝、新幹線の始発でミサに通っていました。そんなことをしている問にベトナム難民の方々と親しくなって、その人たちがどんな暮らしをしているのか見にいったら、公園にプルーシートで貧しい★シェルターをつくって生活していました。その頃には政府の仮設住宅が少しずつできていたのですが、神戸はあまり土地がないので、ほとんどが市外につくられました。ベトナムの人たちの多くは地元の★ケミカルシューズ工場で働いていたので、郊外に移ってしまうと仕事を失うことになるのです。ですから、たとえ非衛生的なシェルターでも彼らはそこに★住み続けたいと思っていました。でも、近隣の人たちはこの公園がだんだん★スラム化するのを恐れて、この人たちを追い出しにかかったのです。なんとかして留まりたいということで、もっと衛生的な、計画された仮設住宅にすれば受け入れられるのではないかと思い、紙管を使った仮設住宅★「紙のログハウス(2005年)」の建設を始めました。直径10センチ、厚み4ミリの紙管に、解体しやすいように基礎はビールケースを使いました。色のコーディネートを考えて、ケースが黄色だったキリンビールにお願いしました。僕らボランティアは、ピールが入ったケースが届くのではないかと期待していたので、空のケースが届いた時には非常にがっかりしたことは今でも忘れられません★(笑)。ピールの代わりに砂袋を詰めて、台嵐がきても大丈夫なような基礎をつくりました。テントも二重にして、冬は妻面を閉めて暖かい空気を逃がさないようにし、夏は開けて換気できるようにしました。

 

 

http://www.tozai-as.or.jp/mytech/12/12-ban22.html

そんなことをしているうちに鷹取教会の神父さんもやっと★信用してくれて、「自分で人集めとお金集めをやってくれるなら教会を建ててもいいよ」と言ってくれました。お金と★学生を集めて、10×15メートルの小さなチャペル、★「紙の教会(2005年)」をつくりました。5週間かけて学生が★手作業でつくりました。長方形の中に楕円形の形があるのですが、これは僕が★大好きなローマのボッロミーニが設計した教会の楕円形をそのまま使わせてもらって、空間の根幹をつくりました。最初は、2、3年使ってもらえたらということで建てたのですが、皆が気に入ってくれたので11年もここに建っていました。11年目に教会が正式に★再建されることになり解体が決まりましたが、ちょうどその頃に台湾でも大きな地震があり、この教会を寄付してほしいと要請があったのです。そこで、部材を全部解体して★台湾に送り、今ではパーマネントな教会として台湾の人たちに使われ、喜ばれています。

(東西アスファルト事業協同組合HP「私の建築手法」より)

 

 

・・・このような先達から学んで、さて私たちに何ができるでしょうか。そのヒントは★印をつけた部分にあると思います。