府立商品陳列所 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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【三宅拓也】

1983大阪府豊中市生。2006京都工芸繊維大学工芸学部造形工学科卒業、2011東京都歴史文化財団東京都現代美術館専門調査員、2012年度全日本博物館学会奨励賞受賞、2013京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科博士後期課程修了、博士(学術)。現在、京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科助教。

 

《近代日本〈陳列所〉研究》著:三宅拓也/出版:思文閣2015.3.4

https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/detail/9784784217885/

本書が扱う“陳列所”とは、地方行政府によって「物産陳列所」や「商品陳列所」などという名称を冠せられて建設された公共の陳列施設である。これらは博物館関連施設、地域物産の販売所というように、現在の活用方法が異なるだけではなく、竣工時期、意匠、規模、構造、立地環境まで様々である。この種の施設が、都市の農業・工業・商業を奨励する目的で各地に設置された経緯を検証し、制度・活動・建築を含めて都市との関わりに注目することで、明治から昭和戦前期の日本にあまねく普及した“陳列所”の実態を、豊富な図版とともに明らかにする。

 

《大阪府立商品陳列所(1890年竣工)の建築について》

近代日本における陳列所建築に関する研究その3(日本近代:都市施設(2),建築歴史・意匠)著:三宅拓也/出版:日本建築学会2010

 

 

《近代日本の技術革新を支えたミュージアム》文:三宅拓也

―大阪府立商品陳列所に見る陳列所の一側面―

「大阪府立商品陳列所」は、1890年(明治23)に開所した★本邦初の商品陳列所である。欧米の商業博物館を模範として計画されたが、初期においては工業試験を、移転した大正期以後においては発明考案の補助を行うなど、市民の技術革新をも支援した。大阪府立商品陳列所がこれらの活動を行うに至った背景には、農商務省が「興業意見」に示した勧業政策の存在を指摘できる。商工業ミュージアムともいえるその活動は、当初農商務省が思い描いていた理想の陳列所像であり、近代日本の技術革新を間接的に支えた重要な存在であったといえる。

施設計画の立案に先立ち、建設委員会は欧米における商品陳列所や商業博物館の制度を調査している。大阪府立商品陳列所は「主に我物産の輸出を増進し又外国品を輸入するの便利を図り兼て内地商業の発達を助け府下の工業を拡張改良すること」を目的とし、その大部分はブリュッセル商業博物館のそれと同様である。しかしここで注目すべきは最後の一節であり、大阪府立商品陳列所は工業を拡張改良するという目的を果たすため「分析試験」という独自の機能を持つに至った。1890年(明治23)大阪府立商品陳列所は貿易を主眼に置いた商業博物館を模範としながら工業奨励をもうひとつの使命として、堂島河畔の★「朝暘館」跡の地に華々しく開所した。

 

 

堂島河畔にて活動していた大阪府立商品陳列所であったが、1909年(明治42)7月に大阪市北区を襲った大火により不運にもその大部分を焼失し、仮事務所への移転を余儀なくされる。仮事務所では事務を行うに留まり、陳列所本来の業務は停滞した。

 

1917年(大正6)新しい陳列所はかつての土地ではなく商工業の中心地ともいえる本町橋東詰★「府立博物場」の地に新築移転し、陳列所として再開を果たした。移転先の立地を巡っては、陳列所の主な利用者である商工業者の利便性が考慮されている。

 

新「大阪府立商品陳列所」は、その敷地の広さも、建物規模も、前代を大きく上回るものであり、「海外ノ最モ新シイ方式ヲ参酌」した商品陳列所であった。したがって、その業務内容も大きく改変された点が少なくない。工業奨励の活動に限定して述べると、新「商品陳列所」の特徴は、工業試験という直接的な方法から、最新の参考品を展示紹介しその啓蒙を図るという間接的な方法へ力点が移っている。最新の機械・器具類を展示する「機械館」が設置されたのである。

 

 

大正8年に開催された優良品展覧会を期に、機械館は「発明館」へと改められた。これは単なる名称変更ではなく、大阪の商工業政策を反映し大阪府立商品陳列所の面子をかけて設置したものであった。幾多の戦争を経て機械工業の著しい発展をみた産業界であったが、この頃になるとその反動を受け停滞気味であり、産業の発展が新技術の開発、発明に期待されたのである。

なお、大阪府立商品陳列所にはその創設以来、商工業に関する図書館が設けられ一般に公開されていたが、発明館の内部には発明や特許に関する書籍を集めた図書室が独立して設けられていた。工業に関する展覧会も多数開催されたが、大正期に限ってみると、発明考案など技術の改善に関する展覧会を多数開催している。

大正14年、大阪市は市域拡大の結果日本最大の都市となり商工業共に全盛を極め、名実共に「大大阪」としてその栄華を誇った。その繁栄の影で、着実にそれを支えたのが大阪府立商品陳列所であり、「社交場」として陳列所の存在意義も大きい。講堂は同業者組合の会合や展示会に貸し出され、大阪府立商品陳列所内には多くの組合組織の事務所が置かれた。「商業」「工業」を二本柱とし、双方をうまく結びつける場でもあった。度々開かれる「展覧会」は、まさにその役割を果たしたものだといえる。また大阪府立商品陳列所は「新聞記者」(記者クラブがあった)とも良好な関係を築き、そこで行われる商工業の出来事が随時紙面を飾っている。

 

 

《回顧三十年~大阪府立商品陳列所》(叢書・近代日本のデザイン)

監修:森仁史/出版: ゆまに書房2010.11

 

《参考》【芹沢銈介】(1895~1984)

http://www.seribi.jp/serizawa-20.html

1913年(大正2)5月、芹沢銈介は東京高等工業学校図案科に入学しました。1916年(大正5)7月に卒業、郷里の静岡に帰り、翌1917年(大正6)に静岡市安西一丁目の芹沢たよと結婚、芹沢姓となりました。1918年(大正7)9月、静岡県立静岡工業試験場に就職、1921年(大正10)1月から1922年(大正11)10月までの約2年間は、★大阪府立商品陳列所に技師として勤め、内外の図案の動静を業者に伝えたり、講演を行ったりしました。その後、郷里の静岡に戻り、手芸グループ「このはな会」を発足させ、近所の女性たちと、クッションカバー、テーブルセンター、壁掛けなどを制作、主婦の友社主催「全国家庭手芸品展覧会」に出品して、1925、1926年(大正14、15)と二度続けて最高賞を獲得しました。「このはな会」で試みた手法の中でも、1924年(大正13)頃から手がけたろうけつ染は、1930年(昭和5)に型染に移行するまでおよそ6年間手がけ、かなりの量を制作したといわれます。また1919年(大正8)24歳のころから、小絵馬の収集を始めました。戦前集めた枚数は数百枚におよんだといわれ、小絵馬研究家としての一面もありました。この小絵馬コレクションは、惜しくも1945年(昭和20)に戦災で焼失しましたが、収集はやがてさまざまな分野に及び、戦後膨大な量に成長していきます。

芹沢は確かなデッサン力と紅型(びんがた)、江戸小紋や伊勢和紙などの各地の伝統工芸の技法をもとに、模様、植物、動物、人物、風景をモチーフとした、オリジナリティあふれる、和風でシックな作品を次々と生み出していった。「型絵染(かたえぞめ)」は芹沢が創始した技法で、人間国宝に認定された折にこの呼び名が案出された。一般的な「型染」が絵師・彫師・染師といった職人の分業によって制作される一方、「型絵染」は作品の全工程を芹沢ひとりで手がけていた。こうした手法が、人間国宝認定の理由にもなったとされている。芹沢の仕事は、着物、帯、さか夜具、暖簾(のれん)、屏風(びょうぶ)、壁掛け、本の装丁、カレンダー、ガラス絵、書、建築内外の装飾設計(大原美術館工芸館)など、素材・用途ともに多岐にわたっている。

 

《参考》「フエキ糊」

http://www.fueki.co.jp/history_meiji.html

明治28年(1895年) 日本卓上糊の元祖「不易糊」が誕生

この年、長年の研究と★大阪府立商品陳列所 (現在の大阪工業技術試験所)藤井恒久所長による 指導助力の甲斐あって、わが国初の“腐らない糊” が遂に開発されました。「不易糊」は、中国の荀子の【萬世不能易也】 (永遠に変わることなし)に因んで命名されました。いつまでも腐らず不変の品質を誇るという意味を 込めています。

 

 

《大阪府立貿易館》

540-0029大阪市中央区本町橋2-5

1930年(昭和5)1月1日、大阪府の産業行政機関整備・強化のため、★「大阪府立商品陳列所」は名称を★「大阪府立貿易館」と改められました。その後の1943年(昭和18)3月には、戦時体制の下、大阪府立貿易館・大阪市貿易課・大阪商工会議所貿易課が行ってきたすべての貿易関係業務を集約し、南方資源調査などに当たることとなり、★「大阪南方院」と改称されます。

1945年(昭和20)6月7日、大阪大空襲により一部罹災。

1945年(昭和20)12月31日、大阪南方院は解散され、翌1946年(昭和21)1月1日「大阪府立貿易館」が復活しました。

大阪府の機構改革に伴い、1987年(昭和62年)11月、商品陳列所以来97年の歴史を持つ大阪府立貿易館は廃止されました。

 

《府立貿易専門学校》

540-0029大阪市中央区本町橋2-5

1948年(昭和23)5月1日、大阪高等貿易講習所として★「貿易館」内に1年制の各種学校として附設されました。

1967年(昭和42)4月1日、大阪府立貿易専門学校に改称し、2年制の専門学校となります。

1985年(昭和60)4月1日、大阪市天王寺区夕陽丘に移転しました。

1995年(平成7)大阪市住吉区帝塚山東2丁目へ移転。

2004年(平成16)廃校となりました。

 

《府立貿易専門学校(旧大阪府女子専門学校)》

558-0054大阪市住吉区帝塚山東2-1-14

1924年(大正13)新制大阪女子大学(旧大阪府女子専門学校)

1978年(昭和53)大阪府立看護短期大学

1994年(平成6)大阪府警住吉警察署仮庁舎

1998年(平成10)府立貿易専門学校移転

2004年(平成16)府立貿易専門学校廃校