ミナミ・アート(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「主題派展」終了しました。

 

 

・・・ギャラリービル最上階のカフェ・ボンから、「松竹座」柱上彫刻が観察できます。

 

 

・・・ご観覧ありがとうございました。搬出時には、作品「裏面」を公開しました。

 

 

・・・展覧会開催中、近くの「今井」さんで昼食をとりましたが、ここにも黒田征太郎さんの足跡が刻まれていますので、紹介しておきます。

 

 

《道頓堀展今井》

http://www.d-imai.com/

ミナミ・道頓堀の文化復権を願って『道頓堀ラプソディ』(フリーマガジン)を創刊いたしました。

http://www.d-imai.com/news/media/2063/

表紙は道頓堀生まれのイラストレーター★黒田征太郎さんに描いていただき、巻頭インタビューには喜劇女優・藤山直美さんにご登場いただきました。大阪を代表する大人のまち、文化芸能のまち、ミナミ・道頓堀にまつわる情報を手に取ってお楽しみください。

 

《参考》株式会社「ケイツー」

106-0032東京都港区六本木7-18-7内海ビル4F/03-3401-9266

http://www.k2-d.co.jp/index.html

昭和44年12月2日★黒田征太郎と長友啓典「K2」設立。宣伝広告物のデザイン並びに販売、各種催物のデザイン・製作・演出・出演、出版物の製作・執筆・販売、レコードテープ等の企画・製作・演出・出演販売、映画フィルム等の企画・製作・演出・出演販売、前各号に附帯関連する一切の業務。代表:長友啓典。

 

《参考》「道頓堀今井の200年」

★芝居とジャズと、宵待柳/文:長谷川信正

https://www.yoimachiyanagi.net/

 

《頬冠りのなかに日本一の顔》作:岸本水府

老舗「今井」の玄関脇に建つ句碑です。これは歌舞伎の初代・中村雁治郎を詠んだもので、当時の大スターを評しています。

 

 

【岸本水府】(1892~1965)

岸本水府は、大正から昭和初期の川柳作家・コピーライターとして活躍し、1913年(大正2)に西田当百らと共に★番傘川柳社を組織し「番傘」を創刊しました。「番傘」は当時全盛期を迎えつつあった川柳の専門雑誌として人気を博しました。水府は後に、壽屋(現★サントリー)、グリコ(現★江崎グリコ)、★福助足袋などで広告を担当し、グリコでは広告部長を勤めました。

 

《参考》『日本の企画者たち』2016.3.31刊:宣伝会議より

過去の偉人たちは混迷の時代をどのような企画で乗り切ったのか。2020年東京オリンピック開催で様々なことが問題になっているが、前回の開催時にはどのような人物がどのような企画をまとめ上げて成功に導いたのかなどを紹介。「宣伝会議」誌上で2014年まで連載した「広告、メディアの礎を築いた人々」に、新たな人物を追加。加筆修正してまとめた書籍。昔に活躍したクリエイター、企業家、ジャーナリストなどの企画術を人物伝形式の読み物として学ぶ。ひとを動かす企画術の温故知新。

第一部 新しい時代を切り開いたクリエイター

片岡敏郎/杉浦非水/★岸本水府

日本のコピーライターの先駆者といえば、まず挙げられるのは片岡敏郎と岸本水府でしょう。この二人から近代のコピーライティングが出発したと言えます。水府は歌舞伎役者になぞらえてこんなことを友人に呟いています。「片岡さんは幸四郎かも知れんが、私は福助や」。自分が福助足袋の仕事をしているのをしゃれのめし、張り合ってみせたのです。水府の作品といえば、福助足袋とグリコが2つの山と言われます。最初の福助足袋では、「足袋は福助」というコピーをつくり、この言葉は長く使われる名スローガンとなりました。当時、足袋は日の本、国誉、つちや、福助・・・などいくつものブランドが乱立していました。その中で客に指名されるために簡潔で力強い言葉が必要だと水府は考えたのです。

もう一つの仕事、グリコでは、「豆文広告」が岸本水府の名を後にまで伝えます。「グリコガアルノデ オルスバン」「ポケットハグリコヲイレルトコロ」「コドモハカゼノコ グリコノコ」「スベリダイカラグリコバラバラ」豆文には水府らしい詩情と童心が漂っています。水府の「豆文広告」も片岡敏郎の「スモカの広告」も新聞の読者は楽しみに読み、毎朝家庭や会社の話題にしたといいます。

 

《番傘川柳社》

530-0047大阪市北区西天満5-6-26-605/06-6361-2455

http://bangasa-senryu.la.coocan.jp/index.html

 

平成19年に架け替えられた道頓堀の戎橋。この南北の両端に川柳の銘板が設置されています。北側には、岸本水府★「戎橋白粉紙を散らす恋」、南側にはおなじく水府★「友だちはよいものと知る戎ばし」「大阪はよいところなり橋の雨」、よしのの「宝恵籠に雪がちらつく戎橋」という句が、それぞれに刻まれています。また、道頓堀の老舗「今井」の玄関脇には、水府が歌舞伎の初代・中村雁治郎を詠んだ「頬かむりの中に日本一の顔」という句碑が建ち、法善寺横丁の「正弁丹吾亭」の前には、水府の先輩である西田当百の代表作「上燗屋ヘイヘイヘイとさからはず」の句碑がそぞろ歩く人たちの目をなごませています。大阪を詠んだこうした句は、大阪人の共感を呼び、忘れ得ぬ浪花情緒と共に川柳の力も伝えているようです。水府らが★「番傘」を創刊したのは1913年(大正2)。創刊号の巻頭を飾ったのが先の当百の句でした。明治後期~昭和にかけて川柳誌が東京、大阪、神戸などで相次いで創刊され、お互いが切磋琢磨して川柳全盛時代を築いていきます。それぞれが信念を持って駄洒落など狂句的なものを排し、市井の日常茶飯事を紡ぎながら、伝統川柳をベースに時代の息吹を盛り込んでいきました。滑稽味や軽味に、「うがち」という斜め目線の風刺や揶揄も大事にしつつ、人の真実を謳った人間諷詠の川柳。数多くの句が庶民を元気づけ、その精神は大阪人が持つ気質とも共鳴し、マッチしたようです。「番傘」や、麻生路郎の「川柳塔」(創刊時は「川柳雑誌」)は大正期の大阪で生まれ、東京など他地域のも含め、名だたる川柳誌は今も発行を続け気を吐いています。その一方で、川柳人口が増え楽しみ方も多様になった現代は、川柳は文芸より気軽な娯楽として捉えられているのかもしれません。いろんな入り方がありますが、もう一歩踏みこんで、まちや暮らしに別の光を当てれば、より豊かな川柳の世界がひろがることでしょう。