22歳(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《NEWS1》2011.1.14

伝える場所、震災16年・街角から「大火の犠牲〝語る〟痕跡」

一部が黒くすすけた石塀がある。激しい揺れと大火で9割の建物が全壊全焼し約100人が亡くなった神戸市長田区の「鷹取東第一地区」。同地区に隣接する満福寺の塀に残った猛火の痕跡だ。寺の敷地内の池には、多くのカメがいたという。それにちなみ昭和初期、木曽川から六角形の甲羅形の石を運び、塀が築かれた。満福寺は★「亀の甲寺」として親しまれる。大地震直後の午前6時ごろ、近くで火の手が上がった。炎は寺に迫ったが、午後3時ごろ、それを押し戻すかのように突風が吹き、難を逃れた。黒ずんだ塀は一度だけ、洗剤を付け、たわしでこすられたことがある。しかし、まったく落ちなかったという。自宅を失った親友、大火の犠牲になった知人・・・震災を語るとき、多くの人の面影がよぎる。街並みはがらりと変わり、震災の傷痕は消えつつある。しかし、志保見泰賢住職(38)は「あの体験を忘れないために、塀はずっと残さなければならない」と話す。

 

 

《NEWS2》2017.1.17産経WESTより

ろうそくの火に託す「震災の経験、次世代に」長田・若松鷹取公園

震災後の大火で多くの家屋が焼失するなど900人以上が犠牲になった神戸市長田区では、各地の公園などで追悼行事が営まれた。若松鷹取公園では、ペットボトルに入れたろうそく約200本に火がともされた。同区若松町10丁目自治会長の高山博さん(73)によると、震災から20年を機に行事の規模は大きく縮小。ろうそくの数もかつての5分の1になった。「もう止めるべきだ」という意見もあったが、高山さんは「温度差を感じる部分はあるが、追悼行事が震災の経験を次世代につなぐきっかけになると思う」と話した。

 

 

《NEWS3》2004.12.2神戸新聞NEXTより

碑は語る、震災10年

碁盤の目のように整然とした道路。真新しい家々-。街並みからは、この場所がかつて長屋の立ち並ぶ下町だったとは想像もつかない。防災公園「ポケットパーク」の一角、地蔵堂に集う住民たちの人懐っこい笑顔を除いては・・・。JR鷹取駅南東、神戸市長田区日吉町。震災による大火に見舞われ、公園がある五丁目では27人が亡くなった。住民が世話してきた二体の石地蔵も、一体は真っ黒に焼け焦げ、残る一体は頭部がなくなった状態で焼け跡から見つかった。この二体と、後に寄贈された木彫りの一体が地蔵堂に安置されている。「実は、燃えた二体は供養して近くの寺に引き取ってもらうことになっていたんですよ」。町内会長の石井弘利さん(63)が教えてくれた。震災の年の夏、住民らはお別れの地蔵盆を開いた。なくなった頭部は粘土でつくり、着物も用意した。ばらばらに避難した住民が久々に顔をそろえたその場で、自然に声が上がった。「お地蔵さん、おらんようになるの嫌やなあ」2001年、復興土地区画整理事業が完了。町内の世帯数は震災前の約半分に減り、新しい住民が大幅に増えた。「お地蔵さんが残って本当に良かった」。石井さんは言う。「ゼロからのまちづくり。でも、地蔵堂の世話に人が集まり、交流が生まれた。ただの公園なら、ここまで人は寄ってこなかった」お堂をのぞいた。被災した二体に挟まれるように、「力を合わせ」との願いが込められた「あわせの地蔵」が鎮座する。穏やかなほほ笑みに、人懐っこい笑顔が思い浮かんだ。

 

 

《NEWS4》2016.10.17朝日新聞デジタルより

「鉄人28号」像お色直し、原作に近い色へ神戸

神戸市長田区にある「鉄人28号」の巨大モニュメント(高さ約15メートル)の塗り替え作業が17日、始まった。鉄人28号は神戸市出身の漫画家、故横山光輝さんの作品。モニュメントは阪神大震災の復興のシンボルとして、2009年にJR新長田駅南側の若松公園に完成した。暗めのブルーグレー色だった鋼鉄製の本体に傷みが目立ち始めたため、原作に近い明るいコバルトブルー色に塗り替える。この日午前、作業員が周囲に足場を組むなどした。終了は来月5日の予定。モニュメントを管理するNPO法人「KOBE鉄人プロジェクト」によると、塗料は地元企業から無償で提供され、約600万円の塗り替え費用は協賛Tシャツの販売などでまかなうという。事務局長の岡田誠司さん(57)は「塗り替えを機に、もう一度見に来てほしい」と話した。

 

《KOBE鉄人プロジェクト》

http://www.kobe-tetsujin.com/

 

 

《ポルタ・ディ・スカルペ=くつの扉》作:新谷琇紀

震災時にビル、家屋の倒壊と火災の被害がとりわけ大きかったのが、木造住宅が密集していた長田区だった。神戸市内の死者約4570人のうち20%、ビル、家屋の全半壊約11万2925棟のうち19%、家屋の全半焼7315棟のうち66%を長田区が占めた。長田はケミカルシューズが地場産業の「くつのまち」。明治時代から大正時代までの長田は、神戸特産のマッチの生産が盛んで、全国一の生産高を誇っていた。このマッチ工場の工業基盤を引き継いだのがゴム工業で、次第にゴム生産に転換して長田区内に小規模なゴム工場が続々と誕生した。工場数は600を数えゴム工場の密集地となり、生産量は全国の80%を占め、全国一のゴム生産地となった。太平洋戦争中は原料のゴム不足で激減したが、戦後、長田のゴム工場は塩化ビニールの登場でよみがえり、ケミカルシューズの製造が始まった。長田のケミカルシューズは国内ばかりでなく、輸出品として外貨を稼ぎ、日本の経済復興にも貢献した。震災でケミカルシューズ工場は、壊滅的な被害をこうむり、追い撃ちをかけるように不況の波が押し寄せたが、職人さん、業者たちは負けなかった。震災からの復興とケミカルシューズ業界の復興を願う碑「ポルタ・ディ・スカルペ=くつの扉」が、JR、地下鉄の新長田駅前の広場にある。震災から4年後の1999年(平成11)に設置されたこのモニュメントは、街の復興へ向かって開く扉をイメージしたもので、扉状の金属板の上に靴のレリーフ24個を並べ、一歩ずつ復興へ向かう願いが込められている。

【新谷琇紀】(1937~2006)

「愛」をテーマに精緻で柔らかな作風。 女性を中心とした人物像などを発表、その多くが神戸市内に野外彫刻として設置されている。1937年7月、新谷英夫の長男として、兵庫県神戸市に生まれる。父を師として彫刻を始めた。金沢美術工芸大学を卒業。イタリア・ローマへ留学し、エミリオ・グレコらに師事する。神戸女子大学で教授職の傍ら、彫刻家として作品を発表してきた。妹の新谷英子も彫刻家で、神戸女子短期大学教授を勤めている。1971年12月28日、イタリア人モナイ・パトリツィアとイタリアにて結婚。ほとんどの女性の彫刻はパトリツィアがモデルになっている。 1973年に長女、1975年二女が生まれ、二人が新谷彫刻研究所を引き継いでいる。2006年8月31日、肝不全のため69歳で死去。

 

 

《NEWS5》「新長田コテモニュメント」2011.10.30四国新聞社より

「そばめし」など鉄板を使ったご当地グルメをPRしようと、神戸市長田区のJR新長田駅前広場に高さ約3・4メートルのこて形モニュメントが登場し、30日にお披露目会が開かれた。長田では、ご飯と焼きそばを一緒に炒めたそばめしや、牛すじを煮込んだ「ぼっかけ」入りのお好み焼きが名物。まちづくり団体「KOBE鉄人PROJECT」によると、鉄板料理が楽しめる店が駅周辺に70~80店舗ある。こて形の像は、地域住民や商店街の店主が県の助成で建設した。お披露目会では「no kote、no life」と題したオリジナル曲を地元の男性歌手が熱唱。

 

《寅地蔵》震災モニュメントマップより

http://www1.plala.or.jp/monument/m-nagata.html

「壁掛け地蔵さんなんです」 村井靖彦駅長は、そう言って、「寅地蔵」のカバーを外してくれた。縦90センチ、幅50センチ、厚さ9センチのヒノキ板に彫られた地蔵さん(菩薩像)の左まゆ毛に、大きなイボがある。寅とイボ。それだけで、これが渥美清さん、というより、寅さんが神様になった姿だと分かる。彫ったのは尼崎に住む元フーテンを自認する仏師の阪田庄乾さん。山田洋次監督の「男はつらいよ」のファンなら、シリーズ最後になった48作目「紅の花」(1995年12月公開)で、寅さんが震災直後に被災地の長田で活動し、最終シーンで、再び長田を訪れたことを思い出すだろう。その長田ロケは95年10月24日、25日に行われた。山田洋次監督の話によると、地元の人々から「寅さん誘致」の依頼が届いた当初、被災地でロケなどとんでもないと思っていたという。しかし、人情の街・長田の人々の熱意と被災地の実状を知るうちに「長田でロケをすべきなのだと考えが変わった」そうだ。渥美さんが死去(96年4月)した後も、地元の人々の寅さんへの思いは深まり、ロケ誘致のために地元で結成された「寅さんを迎える会」が寅地蔵の制作を決めたのが97年2月。翌年8月4日に同駅に設置され「渥美さんも天国で喜んでいるでしょう」との山田監督のメッセージも届いた。除幕は98年8月4日。長田区大橋町3丁目自治会と「迎える会」が管理している。