《参考》2007年4月29日
第1852回「遠くへいきたい」“浪花の街に響くウクレレの調べ”より
http://www.to-ku.com/midokoro/1852.htm
伊達さんの工房には様々なウクレレがズラ~ッと並んでいます。そのそれぞれが、味がある、びっくりするものばかり!チチ松村(ギタリスト)さんも興味津々。思わず手が伸びてしまいます。そんなウクレレの音色を聞いたスタッフがびっくりしたのは、それぞれの音色の趣が違うこと。材質の違いも当然あるでしょうが、きっとそれだけではないはず、みなさんも放送をご覧になって、聴いていただけるときっとそう感じていただけると思います。数々のウクレレを作成してきた伊達さんが作成中だったのが、「たかとり教会・司祭館ウクレレ」。このたかとり教会、1995年1月17日の大震災にて復興の拠点となった教会だったのです。復興の中心であった司祭館が取り壊されることとなり、伊達さんに依頼がきました。完成間近の「たかとり教会・司祭館ウクレレ」。教会への受け渡しにチチさんも同行させていただくことになりました。一体どんな音色を奏でるのでしょう。
伊達さんと一緒に、神戸のカトリックたかとり教会にウクレレを渡しに行きます。訪れた時は、まだ工事中だった新たかとり教会。そんな中神父の神田裕さんに、震災の時のお話をお聞きします。本当に多くの人々の力で一歩一歩、歩んできた教会の歴史。それがウクレレとなり、奏でた音色は神田神父や集まった信徒さん達、伊達さんや工事に携わっている現場の方々、そして私たちスタッフの心にも染み入るものでした。しかし残念ながらこうやって言葉を重ねても、何も伝わりません。本当に放送で、皆さんにも感じていただきたいのです。
思い出は薄れていくけれども、それを薄れさせたくないという人の思いは強いもので、そんな強い気持ちを、静かに湛えた人々に出会い、ウクレレの音色が今まで以上に優しく聞こえた、大阪・神戸の旅でした。
http://nodahokubu.web.fc2.com/column4/column18.html
新しい司祭館の階段手すりには、旧司祭館のそれがそっくりつかわれている。その階段手すりの特徴的な親柱の一部をウクレレのヘッドとネックにつかい、ボディには人びとが親しんだ部屋の部材などがつかわれ、サウンド・ホールのなかには玄関扉のキーが組みこまれた。パーツすべてが記憶の装置である。
・・・これから「新長田駅」方面まで歩きながら、震災の記憶をたどります。
《満福寺》震災モニュメントマップより
653-0052神戸市長田区海運町4-1-1/078-731-3174
http://www1.plala.or.jp/monument/m-nagata.html
「『ドカーン』という地割れの大きな音を聞いたんです。そして、大地震が起こりました」。住職の志保見文彦さんは、阪神大震災の瞬間を語る。寝所から戸外へ脱出すると、本堂と庫裏は崩れ、鐘撞堂は横転、山門は傾いていた。しかし、不思議なことに境内の西南部にある青銅製の白衣観音(高さ約3メートル)だけは、いつもと変わらず姿勢よく立っていた。周囲のろうそく立ても、はめてあるガラスさえ割れていなかった。「その地盤だけ、たまたま堅固であったといえば、それだけのことかもしれませんが・・・」街を焼き尽くした大火は、風にあおられ、寺に迫った。北から飛んでくる火の粉が、外壁を越えて寺内の樹木に次々に燃え移った。志保見さんは延焼をくい止めようと、木を切り倒し続けていた。その時、ぱたっと風がやんだ。そして風向きが変わり、火が急速に寺から遠のいた。結果的に、寺と白衣観音の背後にあたる寺の西側の街は火災から救われた。「寺は守られたが、多くの方が亡くなっています。偶然かもしれんし、このことは、あまり話しませんでした」と志保見さん。しかし、1995年11月、近隣住民の犠牲者の鎮魂碑である「阪神・淡路大震災慰霊之碑」(青石製、高さ1・8メートル)を建立するにあたり、住職は「観音様の近くがよい」と、白衣観音の並びに碑を置いた。新しい本堂も建てられた。変わりゆく街で、せめてもの歴史をとどめようと、修復可能だった山門や石垣は、昔ながらの姿に戻した。 山門前の寺の名を刻んだ石柱は、震災で三つに折れたが、つなぎ直してそのまま残した。金属の枠で四方を囲み、補強して立たせている。