・・・川合敏久さんの作品には、「大仙公園」でも出会っていました。
《大仙公園》
590-0802堺市堺区百舌鳥夕雲町2-204/072-241-0291
http://www.city.sakai.lg.jp/kurashi/koen/shokai/shokai/daisen.html
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)に隣接する大仙公園は、33万㎡の緑と歴史に包まれた堺市のシンボルパークです。北入口のイチョウ並木正面にそびえる平和塔と、江戸時代のため池を改修して造られた瓢箪型の★「どら池」を中心に、芝生広場や児童の森など自然と触れ合える空間が広がり、花壇を彩る花や鳥のさえずりなどが季節を感じさせてくれます。
https://www.city.sakai.lg.jp/city/info/_shimin/data/19561.html
《参考》どら池は、江戸時代の資料に「そうそう池」「増蔵池」「蔵々池」「増々池」などと記されており、読み方としては、「そうそう池」「ぞぞ池」と呼ばれていたそうです。大仙公園の修景池として整備された昭和58年以前から「どら池」と呼ばれていましたが、その「いわれ」は分かっておりません。
「大仙公園」が「日本の歴史公園100選」に入選しました。「日本の歴史公園100選」は都市公園法施行50周年を記念して行われた事業で、地域に個性や魅力をもたらす優れた歴史的・文化的資源を保存・承継・活用する公園の整備を推進することにより、観光振興(堺観光コンベンション協会)や活力に満ちた地域社会の実現をめざすことを目的として、優れた事例を対象に選定されたものです。「日本の歴史公園100選」選定審査会において、資源の歴史性、文化性などの価値だけではなく、これらの資源を活かして優れた景観・環境が形成され、公園として一体性のある大きな魅力を創出していることなどが評価されました。
・・・残念ながら、川合さんの作品は「堺アートクルーズ」には掲載されていませんでした。
http://sac.sakai.ed.jp/index.html
《渚の風》作:川合敏久1983
太陽の光を浴び 生命がよみがえる 渚 アフロディテが湧き立つ泡の中から 生れ出たという 渚 そらと水とが交わりながら 爽やかな風が起つ 樹々の葉むらをめぐる 緑の風
《参考》ウイズ宝塚2007.2月号より
http://with-takarazuka.com/index.html
宝塚の西谷へ、川合夫妻を訪ねて
宝塚市の最北部、西谷に彫刻家川合敏久、画家季子夫妻が喧噪の大阪を離れ5年前からアトリエを構えている、自然の懐に抱かれた西谷。四季の移ろいの中で起居し、自然を観照し、自己と対峙し創作活動を行う2人。彫刻家川合敏久は、幼児期に祖父とよく★魚釣りに出掛けたとか。その頃の体験が、後年の彫刻に活かされる。早くして父を亡くしたため、働きながら高校や大学に進学。そこで、働く人々の人情の機微にふれる。京都芸大の彫刻科では、人体デッサンに始まり、模刻などを経て、本格的に人体の造形表現に腐心する。なかでも、★辻晋堂から多くの啓示を受ける。大学を卒業後しばらくは、抽象彫刻を手掛けている。そして、具象彫刻に転進。頭部や人体作品に、人間の内面を表現するといった難度の高い道を選んだ川合。私は具象彫刻が、技術のみが優れているだけでなく、作家の姿勢が反映される難しい表現だと考えている。さて川合は、京都時代に同志と、ともに結成したグループVOLに参加。そこで季子夫人と知り合い、結婚に至る。季子は、敏久とは逆に具象画から、近年は抽象画にも挑戦している。具象も抽象も表現行為は異なるが、作家の内面が作品に代弁される。即ち、作家としての哲学が造形化されるといっても過言ではないだろう。彫刻家川合は、真摯な姿勢の作家である。肖像彫刻では、綿密に人物像を調査し、人間性を追究している。肖像は、如何に人間性を集約し、造形化するのかが、逆に作家自身の姿勢を問われることでもある。そんな律儀な敏久と長く生活をともにしてきた季子も二次元世界から三次元、四次元世界への拡がりを求めて画架と対峙している。季子も作品に、自身の内面を作品に具現化している。今後の宝塚・西谷での不断の創作活動が、多くの人に共感を与える作品が呈示されることを期待したい。
・・・そして、何度も観ている「舎蜜局跡」にあるハラタマ像です。
★K.W.ハラタマ博士像/制作:川合敏久/揮毫:芝哲夫/建立:ハラタマ胸像建立委員会/協力:大阪大学/管理:適塾記念会/2000年5月吉日
《「K.W.ハラタマ博士/Dr. Koenraad Woulter Gratama》(1831~1888)
1869年(明治2)5月大阪府によりオランダ人化学者クーンラート・ウォルテル・ハラタマを教頭とする舎密局がここから2百メートル北の大手前通一帯に開設された。舎密とは化学の意である。舎密局は明治時代のわが国で最初に開かれた理化学校でハラタマによりこの国の近代化に必須の自然科学の教育が行われた。日本の初期の科学研究の多くはこの舎密局に端を発している。舎密局はその後、理学校と改称され、明治5年に閉校されてその任を終えたが、その流れから京都舎密局、大阪司薬場、第三高等学校が生まれた。日蘭交流4百年を記念して、ここに日本の化学の父ハラタマ博士の像を遺し、その功を永世に伝えたい。
・・・さらにさらに、「舎蜜局」について調べてみました。
《参考1》日蘭友好400周年記念行事
http://www.res.titech.ac.jp/~shokubai/Gratama/gratama.html
西暦1600年4月19日、オランダ船リーフデ(慈愛)号が大分県の臼杵湾に漂着した。 これを契機として、日本の鎖国時代にも交流を続けた唯一の国オランダは、日本と長く強い友好の歴史を保ってきた。 この度、日蘭友好400周年を記念する日本とオランダの二国間協定に基づいて、★西暦2000年には、経済・文化・学術などの分野で様々な行事が計画されている。 ハラタマワークショップは、4月19日から始まるオランダ週間にあわせて、大阪の地で開催される日蘭友好400周年記念事業の一つである。 オランダ人化学者ハラタマ(K.W. GRATAMA:1831-1888)博士は、1866年から5年間、江戸幕府から明治政府へ移る激動期に日本に滞在し、1869年に理化実験棟をもつ学校「舎密(セイミ)局」を大阪城前に開設した。 彼はそこで化学を講義し、オランダから運んできた試薬と実験器具を用いて化学実験を教えた。 これによって舎密局は、講義と実験による本格的な近代化学を日本に最初に導入した記念すべき場所となった。我々は、大阪大学・工技院大阪工業技術研究所・デルフト工科大学・ユトレヒト大学およびオランダ王立科学芸術アカデミーとの緊密な協力関係のもとで、日蘭友好400周年記念行事の一環として、日本への理化学の移植に多大の貢献を果たしたハラタマ博士の功績を記念し、同博士の名前を冠したハラタマワークショップを企画した。なお、この機会に日本の化学の恩人ハラタマ博士を顕彰して、その恩恵に感謝するために、ハラタマ胸像建立委員会(委員長:芝 哲夫大阪大学名誉教授:個人ベースの委員会)が設立された。 そして、極めて短期間の内に建立に必要な寄附金が集まり、彫刻家★川合敏久氏にハラタマ博士の胸像製作を依頼した。 この胸像の除幕式は、4月22日のワークショップ開会式において、オランダ王国ウィレム・アレクサンダー皇太子殿下のご臨席のもとに執り行われる。
《参考2》「近畿の散歩道」2000.11.13赤旗より
西暦2000年の今年は、日蘭交流四百年にあたり、年頭から全国各地でさまざまな記念事業がおこなわれた。11月12日に設置がおこなわれる「K.W.ハラタマ博士」の肖像彫刻を昨年のはじめから二年にわたって制作した。大阪市中央区の馬場町から谷町筋の方をみると、東西の本町通にはみ出したようにみどりのかたまりが目に入る。樹齢四百年以上と伝えられる楠の大木で、この樹一帯が史跡になっており、「舎密局址」と刻まれた石柱がある。その傍らに建立される。Dr.ハラタマは、シーボルトやボードウィンほど多くの大阪人になじみがないが、近代化を速いテンポで進める必要に迫られていた明治初年の日本にとって、化学を基礎から学ばせる教育制度として舎密局が創設された。1869年(明治2)である。その初代教頭としてオランダから招かれた。酵素剤の「タカジアスターゼ」で知られる高峰譲吉や、昆布のうま味成分グルタミン酸ナトリウムを抽出して「味の素」製造の道を開いた池田菊苗など、世界的水準の化学者が育てられた。緒方洪庵頭像レリーフ(適塾・1975)、除痘館跡碑銘レリーフ(緒方病院・1978)、緒方洪庵像(適塾・1996)、緒方惟之頭像(1996)クーンラート・ウォルテル・ハラタマ博士胸像と、この二十五年来に集中した一連の肖像制作の脈絡の中心に私の内なるオランダとの間にあったかかわりに改めて気付かされ、驚く。去る4月22日、ハラタマ博士像の除幕式典で曾孫と同席する機会があったが、対面した時、直感的に血統の人物だという確信が持てた。肖像を制作するとき、遺された画像、写真、伝記、評伝などの資料を通してイメージを探り、構築していくが、形象化が順調にいったときの充足感こそが、肖像制作の醍醐味かも知れない。
・・・「舎蜜局」の復元模型を「科学館」で発見、うれしかったなあ。もちろん「学天則」のカエルも。
◆【大阪市立科学館】◆(大阪大学理学部跡地)
530-0005大阪市北区中之島4-2-1/06-6444-5656
設計:(株)環境開発研究所/施工:竹中・大林・鴻池・銭高JV (代表 株式会社竹中工務店)/第4回公共建築賞公共建築協会優秀賞1993年12月 7日
アトリウムを囲んで展示場、劇場を配した楕円形(太陽をめぐる惑星の軌道)の建物です。建物中央部の1階~3階の南北側をガラス張りで見通しが可能になっています。プラネタリウムホールはプラネタリウム・全天周映像併映ドームで、世界最大級の直径26.5m。エネルギー源は電気だけです。
《舎蜜局》
明治維新期における化学技術の研究・教育、および勧業のために作られた官営・公営機関。1869年(明治2)に大阪、翌1870年(明治3)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」と称する。なかでも大阪舎密局は第三高等学校(★京都大学の前身校)の源流となったこともあって、「舎密局」の名称は大阪の方のみをさすこともある。「舎密局」の「舎密」とは、幕末期に広く使用された、蘭語のchemie(化学)に対する当て字であり、当時、実生活に対する洋学(科学)の応用という点で化学が特に重視されたことに関わる命名である。
・・・生誕120年記念「宮沢賢治」さんの展示もありました。