・・・「ミナミ・アート」は「街角ミュージアム」にて紹介しておりましたが、今後は「街アート」に掲載していきます。さて、新年早々「ギャラリー香」での「主題派」展には、当初予定していたものではなく、新たな画題が突如として出現したため、まさしく「最新作」を出品しています。2016「大晦日」から2017「元旦」にかけての、年越し制作となりました。
・・・昨日「搬入」をすませ、今日から「主題派」展が始まりました。また、メンバーの「個展」もありますので、あわせてご観覧ください。
・・・「最新作」の題名は「くたびれ」、いつものように「謎かけ(禅問答)」になっています。このタイトルからイメージする前後の文句を考えていただき、作品を観てください。
※ヒントは「苦労してがんばったのに・・・」です。
「ギャラリー香」前に「松竹座」があります、ちょっとした変化がありました。
・・・「えっ、なくなってる!」と、一瞬ヒヤッとしました。
《「曽我廼家喜劇発祥之地」碑》
江戸時代から続いていた即興劇ニワカが 明治時代に発展して 舞台でも演じられるようになり、鶴屋団十郎一座が大阪で人気を博した。これに刺激を受けた元歌舞伎役者の中村柵之助(後の曽我廼家五郎)は 同じ役者仲間の中村時代(曽我廼家十郎)を誘って「新喜劇」の看板をあげた。これが日本における“喜劇”の先駆けとなった。
五郎のアクの強い粘っこい芝居に対して、十郎はサラリとして飄々とした芝居を書き、彼等の 時代の変化を敏感に捉えた、人情味のあふれる演劇のスタイルは「曽我廼家喜劇」と呼ばれ、庶民の哀歓を笑いのうちに表現し 人気を博した。1925(大正14)年 十郎の死後、曾我廼家五郎劇は 東京を始め全国各地の一流劇場を常打ちにするなど、大人気劇団となった。五郎は喉頭ガンのため無声となっても舞台に立ち続け、文字通りの「喜劇人」であった。1948(昭和23)年 五郎が没すると、残された曾我廼家五郎劇の関係者は 松竹家庭劇と合流し、道頓堀の中座で「松竹新喜劇」を結成し、曽我廼家喜劇は 藤山寛美らに引き継がれた。 この発祥碑は、1975(昭和50)年に 藤山寛美らによって、中座の前に建立されたが、1999(平成11)年に中座が閉鎖になったため、 大阪松竹座前に移設された。
碑文:曽我廼家喜劇発祥之地/曽我廼家五郎・曽我廼家十郎
明治三十七年二月十一日曽我廼家五郎十郎この地に喜劇の旗幟を掲げてより 中島楽翁 初代澁谷天外 時田一瓢 田宮貞楽 志賀廼家淡海 曽我廼家十吾 二代目澁谷天外 などそれにその志を継ぐこと七十年に亘りました こゝにその歴史を偲んで一碑を建立し併せて先人の名を高野山常善院に納め追慕の志といたします
昭和五十年二月十一日 藤山寛美 楽天会 瓢々会 喜楽会 志賀廼家淡海劇 松竹家庭劇 松竹新喜劇
・・・そうなんです、設置場所が換わったのでした。端っこから劇場正面になったのだからイイことですよね。さて、ミナミ・アートとして「ヨシモト」のニュースも欠くことはできませんので、
《NEWS1》2016.10.7産経WESTより
「竜じい」の愛称で親しまれた吉本新喜劇の俳優、井上竜夫(本名・井上龍男)さんが5日午前4時20分、高度肺気腫のため、兵庫県西宮市内の病院で死去した。74歳。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻、美重子さん。兵庫県尼崎市出身。1959年(昭和34)松竹新喜劇で活躍していた喜劇役者★曽我廼家五郎八に入門。新春座研究所などを経て、吉本新喜劇に入団した。46年には、谷しげると漫才コンビを結成。その後、結核のため約2年間、入院生活を余儀なくされたが、1975年(昭和50)年に新喜劇へ復帰。当時から年寄り役が多く、登場する際の「おじゃましまんにゃわ」、会話の途中に居眠りして頭を叩かれ、「さんずの川が~」とさまようなどのギャグで人気に。新喜劇の名脇役として活躍した。最近は体調不良のため、舞台出演を見合わせることが多かったが、昨年12月のイベント「吉本新喜劇祭り!2015」では、ファンの前に姿を見せていた。
《NEWS2》2016.12.18デイリースポーツより
小籔、島木譲二さん葬儀で号泣「新喜劇の損失」池乃めだかの手紙、涙誘う
脳出血のため16日に72歳で死去した吉本新喜劇の俳優・島木譲二(本名・濱伸二)さんの葬儀・告別式が18日、大阪市の新大阪典礼会館で営まれ、芸能関係者ら約200人が参列した。吉本新喜劇座長の小籔千豊(43)は「かわいがっていただいて助けていただいた」と号泣。「僕がへこんでいたとき、舞台の袖で『周りが言うことは気にせんと、舞台で頑張らなあかんで』と励ましてくれた」と、優しく気遣ってくれた時のことを振り返った。新喜劇の後輩として「お客さんを笑わせてはけていく時の背中はすごくかっこよかった。同じ時期に新喜劇に出られてよかった」と感謝した。「舞台に出られなくなられたことは新喜劇にとって損失。残念です」と話し「島木さんを忘れないでほしい。これからもテレビなどで新喜劇を見たら、島木さんを思い出してもらいたい」と涙で声を詰まらせ、呼びかけるように話した。落語家の桂文珍(68)は「怖い顔だが優しい。人間が男前の人でした。飲みに行っても、まわりに気を遣って笑いを取ったり。ハートが男前でした」と人柄をしのんだ。弔辞は、池乃めだか(73)の手紙がアナウンスで代読され「舞台では臆せず、体当たりの姿を見せてくれました。みんな、島木さんの姿勢はすごい、僕らも見習わなあかんと言ってました」などと、思い出をつづった言葉が会場の涙を誘った。法名は「慈願院釋譲道」で、「仏の慈しみの願いを受けてきた人。譲り合ってきた芸の道を精進してきた証、後生への道を作った人」という意味が込められているという。棺には、愛用の帽子と杖、新喜劇の台本、新聞などがおさめられた。ファン約300人も葬儀場の外で出棺を見守った。
・・・ご冥福をお祈りします、合掌。