《ギャラリー鬼鳥庵》「秋の展覧会」
542-0073大阪市中央区日本橋1-5-6北浦ビル4階/06-6211-6131
http://www.bunrakuza.com/events/1061.html
◎平成28年10月27日(木)~11月3日(木)勘亭流書き方教室「生徒発表」展
◎平成28年11月5日(土)~11月13日(日)杉江みどり「切り絵」展
◎平成28年11月15日(火)~11月23日(水)★斎藤清二郎「文楽絵はがき」展
昨年オープンしたNPO文楽座のレクチャールーム「鬼鳥庵」。この一年間、文楽座学や座話会などを開催し皆様に足をお運びいただいております。この秋は『ギャラリー鬼鳥庵』と銘打ちまして、展覧会を開催!文楽錦秋公演と重なる日程ですので、ご観劇前に、お帰りの際に、ぜひお立ち寄りください。
【齋藤清二郎】(1894~1973)
文楽の首の研究でも知られ、画家でもあった。著作として、「文楽首の研究」1943アトリヱ社「かしら/人形浄瑠璃の首」1986岩崎美術社「かしら : 日本の<首>」1964岩崎美術社「のろまそろま狂言集成:道化人形とその系譜」(編著: 信多純一・斎藤清二郎)1974大学堂書店「寫眞集文樂」(撮影:入江泰吉/編:齋藤清二郎)誠光社がある。
《参考1》岸田劉生と齋藤清二郎
岸田劉生は生活費に困り、そろそろ蓁夫人に叱られはじめると、各地で開かれた展覧会で作品を販売するのはもちろんだが、思うように絵が売れてくれないと、頒布会を通じて知人やパトロンたちへ作品を仕上げては送っていた。~中略~作品を売りやすい相手には、住友財閥の御曹子である住友寛一や、横浜の三渓園に住んでいた原善一郎(原三渓の息子)などがいるが、関東大震災のあと劉生の京都生活がはじまると、なかなか関東へ出かけていくことが難しくなった。そこで、草土社時代からつづく関西の友人や、春陽会を通じて知り合った地元の知人を通じて、作品の販路を開拓することになる。よほど生活に困ると、自身の作品ばかりでなく、蒐集した軸画や屏風、肉筆浮世絵などを処分して食いつなぐことになるのだが、劉生の作品も蒐集した骨董画も同時に購入してくれる、願ってもない便利な知人が大阪にいた。自身も洋画家であり、春陽会へ作品を発表していた斎藤清二郎だ。斎藤清二郎は、1923年(大正12)の春陽会第1回展から作品を出展しており、以降、同会では入選の常連画家となっている。彼がいったい誰に師事し、洋画を習っていたのかはハッキリしないが、少なくとも京都時代の劉生には頻繁に絵を見せに訪れている。斎藤清二郎は、1938年(昭和13)まで春陽会へ作品を出品しつづけるが、その後は画家をやめてしまったらしい。ことに文楽が好きだったらしく、1931年(昭和6)の春陽会第9回展から第16回展(1938年)にいたるまで、文楽芝居をモチーフにした作品を多数出品している。
《参考2》青空文庫より/「数寄屋橋夜景」文:木村荘八
http://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/47708_34092.html
斎藤清二郎は、東京の木村荘八とも親しい行き来があったらしい。1949年(昭和24)に出版された木村荘八『東京の風俗』(毎日新聞社)所収の「数寄屋橋夜景」には、次のようなエピソードが紹介されている。
注文は「なるべく東京の感じのするところ」といふのである。ぼくはそれで突差に思ひ出したのは、いつか大阪の友人の★斎藤清二郎に聞いた談片で、ぼくが彼に大阪から来てどこが一番東京らしいかと尋ねた時、斎藤は答へて、高架線が新橋から有楽町へかけて乗りこむところが一番「東京」らしい感じがする、水に沿うて都心を走りぬけるところである。一体高架線といふものが大阪にはないから、といふことだつた。――しかしすでに一昔も前の談片だから、その後、状態は東京も大阪も互に変つてゐることだらう。/なにしろ、それを思ひ出して、数寄屋橋界隈へ行つて見たわけである。ぼくが大阪で大阪らしく感じるのは、いつも汽車が梅田近くへ来て煙突の林立する町家を見る時に、大阪だなアと思ふ。しかし、これは実は汽車が大阪に近づくので、それで感じるのかもしれない。梅田近くの情景が殊さらに大阪らしいといふわけには限らないかもしれない。――同じやうに、★斎藤清二郎も水に沿うた有楽町近くの風致を東京らしいと思つたのは、やはり西から東京へ来て、この辺でいよいよ「東京だ」と汽車の中で思ふ感じが強かつたためではないかしらん。
・・・この石柱のことで、北浦さんご夫婦から丁寧にお話を伺うことが出来ました。お茶とお煎餅までいただきながら。
《参考3》「三岸好太郎」略歴より
http://takanawagallery.com/gallery/sukitaro_history.htm
1924(大正13)
3月/第2回春陽会展に入選し、春陽会賞を首席で受賞。
8月/春陽会の同僚、横堀角次郎、倉田三郎、土屋義郎、★斎藤清次(二)郎、川端信一と「麗人社」を結成し、第1回展を開く。
9月/吉田節子と結婚。
《参考4》阿波人形の元祖「駒蔵」
http://www.joruri.jp/html/ningyo/ningyo7.html
『徳島県史』には享保頃の人となっている。この説は、天狗久が「彼は約250年位前の人だと聞いている」と言ったのを逆算して享保という年代を割り出したもので何等の根拠もない。彼の頭の造形、文楽人形のカラクリの発達の年代など考えると享保までは遡らない宝暦、明和の時代に制作をした人形師とするのが妥当である。淡路に生まれ仏師であったが、後に人形遣となり阿波に移り、更に人形師となり現在の徳島市助任本町大岡馬之瀬に住みついていたという。故に一般に「馬之瀬駒蔵」と言う。
現在約10個の頭が発見されているが、在銘のものは一つも発見されていない。彼の作品は初め無曲であったが、後に目の左右の動き、切りアゴ、口開きを見る様になった。仏師であった為、その作品は能く材質(主として桐)の木目を生かした素晴らしい作品が多い。なお頭の彫を見ると、徳川時代の仏師がよく使用した遂条法による条痕が明確に存在しているので、彼が仏師であった事は全く疑う余地はなく、特に下限瞼より鼻梁にかけての線、耳朶の彫りによくその特徴が出ている。
阿波の人形座の使用していた頭は、古い時代は京都大阪の人形師の作品を購入していたもののようで、今でも大阪の大江あるいは笹屋の人形師達の作品が数多く発見されているのはそれを裏付けるものである。人形で初めて口が開く様になったのは、享保12年(1727)摂津国長柄之人柱の入鹿の人形であり、目の動く工夫は享保15年(1730)『楠正成軍法実録』和田七の人形であり、三人遣いの始まりは享保19年(1734)『蘆屋道満大内鑑』からであり、眉の動く工夫は、元文元年(1736)2月『赤松円心緑陣幕』の本間山城入道の人形が初めてである。天狗久が石井氏所蔵の人形頭の修理の際、その箱書きに「阿波国人形師元祖名東郡大岡浦馬瀬住駒蔵作 淡路上村源之丞座 寛政年間前後使用頭 徳島県名東郡国府町和田住天狗久事吉岡久吉修理ス 昭和拾年五月」というのがある。★斎藤清次(二)郎は、駒蔵の頭の形から見て、また前記の箱書きの資料から考えて天明寛政の人ではないと言っている。元文元年(1736)3月『和田合戦女舞鶴』の板額の人形で、当時の在来の人形の約2倍大の人形頭を初めて使用し、この人形が現在文楽で使用されている人形の大きさの基準となった初めであると言われている。★斎藤清(二)次郎氏は、古浄瑠璃時代に文楽とは全く無関係に発達した人形で、現在の文楽人形に近い大きさの頭を発見されている。駒蔵作と伝えられる頭の造形、文楽人形のカラクリの発達の年代、及び以上の参考事項により、駒蔵は鳴州よりは古い時代の人には間違いないが、享保までは遡らない宝暦、明和の時代に制作をした人形師とするのが妥当である。
《参考5》「谷崎潤一郎」詳細年譜より
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20050615
1942年7月、洋画家★斎藤清二郎より『文楽首の研究』(翌年六月刊行)の序文を求められ、内容説明を求めると斎藤訪問、熱海で序を書く。
■『文楽首の研究』著★齋藤清二郎/1943年(昭和18)出版:アトリエ社
敗色が漂いはじめた戦時中に制作され、カラー写真も織りこまれた豪華な写真集。初版2000部限定の高価(15円50銭)でなかなか手に入らない稀少本。戦時で、物資が強力に統制されていたにもかかわらず、文楽の首(かしら)と「国威発揚」とを結びつけ、高級紙や和紙をふんだんに使った装丁や製本、手間のかかるカラーグラビア印刷。谷崎潤一郎が序文を寄せている。
蓋し大阪人である★齋藤さんは、大阪が誇とする郷土芸術の立派な参考書と、他国者の手を煩はさずに著作し得たことについて、内心多大の満足を禁じ得ないものがあらう。今の時局にかう云ふ研究的にして美術的な書籍の出版を見たことは、単に大阪人のため万丈の気を吐くばかりではなく、此の未曾有の大戦に際しても一日として国粋文化の研鑽と発揚とを怠らざるわれわれ日本国民の、不撓不屈の精神を語るものであると云へよう。茲に聊か蕪辞を連ねて序に代へると云爾。
《谷崎潤一郎文学碑》
542-0073大阪市中央区日本橋一丁目/国立文楽劇場西
http://www.city.osaka.lg.jp/keizaisenryaku/page/0000058592.html
谷崎潤一郎の文学碑は、国立文楽劇場の西側(堺筋側)に設置されていますが、東側(松屋町筋側)には、近松門左衛門「重井筒」より芝居づくしと言われる道行の一節を刻んだ文学碑が設置されています。これらは、昭和59年に国立文楽劇場完成記念事業の一環として建立されたもので、それぞれには、江戸時代、人形浄瑠璃の黄金期を築いた竹本座、豊竹座の紋章が刻まれています。
・・・偶然?にも、齋藤清二郎さんと谷崎潤一郎さんとの結びつきを偲ばせるように「文学碑」が建っています。
《本格派のれん「株式会社・北浦染工場」》
542-0073大阪市中央区日本橋1丁目5-6 北浦ビル/06-6213-0515
お客様の納得のいく「のれん」をご提案できるようお手伝いさせていただきます。「のれんをかけたいのだけれど、気に入ったのがないのよね・・」とお悩みのお客様。当店で私と一緒に布地選びからオリジナルのれんを作りませんか?まだ具体的に決まっていない方や、お店のお悩みなど質問・疑問等お持ちの方もご相談ください。お客様と二人三脚で「のれん」を作っていくのが何よりの楽しみなのです。まずは気軽にお問い合わせ下さい。
★「勘亭流」
最近では、ワープロやパソコンにも「かんていりゅう」のフォントが入っていたりするので、目にした事がある方も多いかと思います。勘亭流とは文楽・歌舞伎の看板や番付などに使われる丸みを帯びた太い書体のことで、「歌舞伎文字」とも呼ばれています。この独特の書体は文楽・歌舞伎の興行と密接な意味が込められています。まず、芝居小屋が隙間なくお客様で埋め尽くされるようにということから、線は太く書きます。また、興行が円満に行われるようにということから、止めや打ち込みを丸くします。そして、芝居小屋へお客様を多く招き入れるようにと言う事から、内側にハネます。このように、勘亭流とは大変縁起の良い書体なのです。
・・・機会があれば「勘亭流」を習ってみたいと思っています。