・・・様々な資料や文献に「三木精一」さんが文章を書かれていますので、それらを追いかけてきましたが、紹介されているプロフィール等はごく簡単なもので、なかなか全体像がわかりません。そして、ようやくまとまった資料にたどりつきました。
《「考古学にロマンを求めて」三木精一氏の収集考古遺物展》
発行:1986年12月羽曳野市教育委員会/印刷:中島弘文堂
・・・挨拶文は平井和男教育長(昭和55年12月13日~平成元年8月30日)が書かれていました。私もお世話になった先生で万葉仮名の大家なので、毎年、年賀状を頂戴するのが楽しみでもありました。まず、奈良大学教授・水野正好先生が書かれた巻頭言を紹介しましょう。
一人の生が記憶されつづける・・・なかなかにないことである。しかし、三木精一先生はそうした一人の方に違いない。十数年も前、羽曳野市の将来がまだ展望できない中で、相つぐ開発の波が打ち寄せた。野上丈助君や私達、大阪府教育委員会にあるものは、この波の中で暗中模索、日々たたかい、よどみ、怒り、悲しみつつ自分達の責任を必死に考えた。そうした苦しみを私達以上に味わいながら、にこやかに援け励まして下さったのが三木精一先生であった。調査の応援、説明会の援助、人のつき合い、細かく気配りされた言動は私達に敬慕の想いを日ごとには哺くませる結果となった。先生、先生、三木さん・・・と呼びかけさせていただく、そうした機会が年とともに増えていき、これから一層という時の御逝去であった。暗夜はなお続く。しかし、一瞬、暗冥をよぎった光芒は永遠なるものと位置づけられるであろう。三木精一先生は私達にとってはそうした光芒の人であった。いま、この光をしたって先生の傍らにあった人達が、その光を常夜の灯、未来への光源にと想いたたれた。こうした人から人への受けつがれる想い、またすばらしい光芒と言えるであろう。羨ましい三木精一先生ではある。
《参考》【水野正好】2015.1.27産経WESTより
2015年1月27日、80歳で死去した考古学者、水野正好さんは、考古学を面白く、分かりやすく、情熱的に語ることで知られ、講演には“追っかけファン”もいたほどだった。学生時代は発掘現場を渡り歩き、図書館で本を読みあさって独学で学んだ。「日本一」と称されるほど膨大な量の各地の発掘調査報告書を所蔵し、読み込んでいたという。昭和44年に赴任した大阪府教委では、高度経済成長期のまっただ中だった千里、泉北ニュータウンや第二阪和国道など大規模開発が進む府内で遺跡調査や保護に尽力。弥生時代の集落跡の四ツ池遺跡(堺市)や和泉市と泉大津市にまたがる池上曽根遺跡の調査などにもあたった。縄文時代から現代まで守備範囲の広い「オールラウンド考古学者」で、奈良大教授に就任後は奈良大の文化財学科を「全国区」にし、700人を超える教え子を全国に輩出した。水野氏に憧れ、退職後の研究室を引き継いだ千田嘉博・奈良大学長は「生徒の間でも一番人気。身ぶり手ぶりを交えて激しく熱く、面白く語っておられた」。指導を受けた奈良県明日香村教委の相原嘉之課長補佐は「『徒党を組むな』と学閥にこだわらず切磋琢磨して調査、研究するよう指導された。突然のことで残念でならない」と語った。
・・・市史編纂委員・古田実さんが、続いて書かれています。
三木精一氏が大阪市内から白鳥園住宅地内に転居してこられたのは昭和21年9月のことであった。その当時、私も同じ隣組内に居住していたが、ゴム会社の社長一家の転入ぐらいの意識しかなく、挨拶程度の交際であった。昭和33年の春、突然私の家にこられて「自宅の庭から出土した土器を見てほしい」との事で、初めて長時間にわたってお会いした。これが三木さんの、考古学や郷土史研究の発端となった。昭和43年からは大阪府文化財愛護委員となり、昭和46年には文化財保護法施行20周年記念に文化財保護功労者として府教委表彰を受けられた。その間遺跡の発見と遺物の収集に当たられ大きな功績をあげられた。昭和49年からは羽曳野市史編纂委員として各種の史料の発見・収集に尽力された。昭和51年4月、「羽曳野郷土研究会」の代表幹事として活躍されると共に、府教委の発掘調査に進んで参加され、大きな貢献をされたのである。昭和60年3月、健康上の理由から府文化財愛護委員などを引退辞任され、市史編纂委員のみ務めておられたが、昭和61年12月12日、薬石効なくなく81歳で死去されたのである。このたび遺物展示の図録刊行に当たり、故人の来歴をふりかえると共に、惜しまれつつ死去された故人のご冥福をお祈りする次第である。
《参考》【古田実】羽曳野市埋蔵文化財調査報告書2★「西浦銅鐸」より
昭和53年9月27日の午後2時頃のことである。羽曳野市教育委員会の古田実先生から、大阪府教育委員会文化財保護課へ電話がかかってきた。日頃の古田先生には似つかわしくない興奮した声が、受話器の向うから伝わってくる。「西浦小学校の校舎改築現場から銅鐸が出土した。文様からみて銅鐸にまちがいない。取り上げないでそのまま置いておくよう指示しである。すぐに見に来てほしい。」と要約すれば以上のとおりである。急いで近くにある府教委の発掘調査事務所などへ連絡をとり、羽曳野市役所を経て現場へ到着した時は、すでに4時を過ぎていた。「そこですよ。」と言われて、一瞬我が目をうたがった。校舎建設のために深く掘削された、基礎掘り方の西側の壁面から飛び出している銅鐸の裾部は、まさに赤銅色をしていたからである。銅と錫の合金、すなわち青銅で製作されている銅鐸は、永い間土中に埋まっている内に、緑色の鋳におおわれてしまっているのが通常である。最初の電話で古田先生が、文様から銅鐸にまちがいないと言われたのも、もっともなことであり、緑色に鋳びていれば、一見して銅鐸と判断されたにちがいない。緑色でなく赤銅色をしていたこの謎は、銅鐸が現在の地表面から1~1.5 mの深い所に埋まっていたためであるとわかった。さらに全面に鉄分が付着していたため、よけいに赤く克えたわけである。この銅鐸が発見されたのは、まったくの偶然と幸運のかさなりからであった。もし、ほんの20cmでも西寄りに埋められていたら、現在の市道の下にあって、恐らく今回の工事で発見されることはなかったであろう。反対に、もっと東側に埋められていたならば、まず、基礎杭の打ち込みによって破損を受けていたか、あるいは杭に当たらなかったとしても、次の基礎掘削の際に、パワーショベルで荒々しく掘り上げられていたにちがいないからである。さらに現場で、出土時の様子をよく聞いてみると、本来、基礎のための掘削は、銅鐸が顔を出したところまで及ぶ必要はなく、もっと東側の位置で止められていたそうである。西浦小学校の西側には、南北に市道が走っており、小学校との境には水路が道路に沿って流れている。前日来の雨で水路の水かさが増し、水路の底からも水がもれて、基礎設置のために深く掘られた穴の中へも、かなりの水が流れ込んで、いたそうである。この結果、壁面にも水がしみ込んで土がゆるみ、土砂崩れが起った。落ち込んだ土を取り除いているうちに、銅鐸が発見されたとのことであった。しかも、最初は銅鐸とわからず、先にも述べたように赤銅色をしていたところから、古い鉄管が出て来たくらいに見られて、ためしに金鎚でたたかれ凹んだ跡が今でも裾の部分に残っている。
・・・さらに大阪府教育委員会・野上丈助さんが、
三木精一氏は、若くから実行の人で、ゴム会社の経営に当たられ、ゴム長靴の製造・販売で財をなされた。還暦を迎えられ引退されるまで、その足跡は全国の村々に及んだという。昭和44年秋、市内白鳥の埴輪窯跡の発掘調査から昭和52年の古市大溝の調査まで連日手弁当で参加し、住民への説明など橋渡しの役割を果たされた。一方余暇を見つけては河内の山野を跋渉し、文化財を採取して正式に届出るとともにパトロールをされ、正確な記録を作成された。多数の歴史学者や若手考古学者が、氏の案内で河内飛鳥の遺跡を訪ね、また羽曳野郷土資料室と表示された自宅の一室を訪問したのであった。今それらの遺物は一括して羽曳野市に委託されている。三木氏発見になる壺井遺跡の資料など学術的に重要なものが含まれており、氏の活躍の場であった羽曳野郷土研究会や古代を考える会でのはたされた役割とともに、永く記憶されるべきであろう。特に羽曳野市史編纂委員の構成に特色があるとすれば選考委員会やその後の編纂委員会での氏の立場に負うところがある。昨年12月12日、惜しまれつつ永眠された。深く哀悼の意を表す。
・・・偉大な先達に出会えて(知ることができて)、本当に良かったと思っています。今「世界文化遺産」登録に向けた様々な取り組みがなされていますが、このような個人(故人)の努力(苦労)が積み重ねられての今日であることを考えると、単なるお祭りさわぎではすまされないですね。