《大阪府立中之島図書館》
530-0005大阪市北区中之島1-2-10/06-6203-0474
https://www.library.pref.osaka.jp/site/nakato/
住友家の寄付を受けて建造が開始され、1904年に「大阪図書館」として開館した。設計は野口孫市、日高胖。同年2月25日、開館式を挙行。大阪図書館は、開館直後の1906年に「大阪府立図書館」と改称。以来、長らく唯一の府立図書館であったが、1945年に大原社会問題研究所から蔵書の寄贈を受けたことで、1950年、同研究所跡地に天王寺分館を建設し蔵書の管理・収集に充てた。1974年に大阪府立図書館は「大阪府立中之島図書館」に、天王寺分館は「大阪府立夕陽丘図書館」に名称を変更している。中之島図書館が国★重要文化財に指定されたのはこの年である。
《平成28年度「書庫見学ツアー」》
https://www.library.pref.osaka.jp/site/nakato/shoko-tour-h28.html
普段は入ることができない書庫。中之島図書館の「歴史」と「資料」がいっぱい詰まった書庫を図書館の司書がご案内します。各回★先着15名。
・・・私が15番でした、ぎりぎりセーフ。会議室で案内用受信ヘッドホンや貴重品袋をいただき、見学証を首から下げて館内を巡ります。
https://www.library.pref.osaka.jp/site/nakato/floor.html
・・・「八哲」(菅原道真、孔子、ソクラテス、アリストテレス、シェイクスピア、カント、ゲーテ、ダーウィン)の名が刻まれた「中央ホール」で図書館全体の説明を受け、「大阪資料・古典籍室」カウンター横から待望の「書庫」に入ります。
・・・書庫は、★DORMAN LONG社刻印の鉄骨で組まれています。
《DORMAN LONG》
1875年創業で、★英国の中部・北海沿岸のMiddlesbroughに現存する橋梁など建設を主とする企業です。鉄鋼・橋梁会社です。同社は、オーストラリアシドニー湾口に架かるハーバーブリッジの設計施工を担当したことでも知られています。創業時は鉄鋼メーカーであり、日本において明治から大正にかけて、レールや建築鋼材の輸入が行われており、鉄橋や古レールの現存例が報告されています。
1901 (明治34)年に、日本最初の官営「八幡製鉄所」が開業されましたが、材料の品質上の問題から、その後2年間は高炉作業が中断されており、1904年(明治37)の再開まで国産の鉄鋼材料は生産できない状態でした。しかも、大阪鐵工所は、1881 (明治14)年に★英国人E.H.ハンター氏が創業したもので、1900年頃の社長は、ハンター氏の長男★範多龍太郎氏が務めていたことで知られています。
【エドワード・ハズレット・ハンターEdward Hazlett Hunter】(1843~1917)
英国人実業家で範多財閥・日立造船の創業者。造船業を中心に産業育成を通じて日本の近代化に尽力した。
1867横浜★来日。
大阪に移住。川口居留地近くに住む薬種問屋★平野常助の娘・愛子と結婚。
1873神戸★ハンター商会 (E.H. Hunter & Co.) を設立。
1881大阪★安治川岸に大阪鐵工所 (Osaka Iron Works) を創立。
ハンターの住居は、「ハンター坂」の地名を残す神戸市中央区北野町にあったが、建物は神戸市灘区の王子動物園内に移築した後に「旧ハンター住宅」として国の重要文化財に指定され、郵便記念切手の図案にも用いられた。
・・・織田作之助や司馬遼太郎、真田丸に関する貴重な資料も、手に触れて観ることができました。贅沢な体験です。
《「住友友純」銅版レリーフ》
http://www.sumitomo.gr.jp/contribution/index01.html
1904年(明治37)2月、住友の寄贈になる「大阪図書館」(当時の名称)が 完成、開館しました。石造り三層、銅葺きのドームがそびえる重厚な建物で、建築を担当したのは、住友臨時建築部の少壮気鋭の建築家★野口孫市(技師長)と日高胖(技師)。住友家第15代住友吉左衞門友純は、江戸時代以来住友の事業が大阪を本拠に続けてこれた感謝のしるしとして、この図書館建物と図書購入資金を寄贈したのです。さらに、本館が手狭になったため、1922年(大正11)左右両翼部分を増築寄贈し、ここに今に見る「府立中之島図書館」が完成しました。この建物は明治の名建築として、1974年(昭和49)国の重要文化財の指定を受けました。完成後約100年を経て、なお現役の図書館は、静かで便利な立地条件も手伝って、 研究者や本を愛する人たちに親しまれています。
《今井貫一(1870~1940)》肖像画(油彩・キャンバス)/画:伊藤快彦
東京帝国大学卒業。中学校校長の職にあったが、住友家の推薦により、明治36年初代大阪図書館長として着任した。府立図書館の基礎を作り、大阪の文化興隆に尽くした。
《浅井忠の絵画》
中之島図書館は1904(明治37)年に住友家の寄付により本館が建設され、その後利用者の増加、蔵書数の増加により手狭になったため、住友家の寄付により1922(大正11)年に両翼の拡張工事を行っている。その際、現在のホールに彫像が設置されたり、記念室も再整備され今日の姿になった。3枚の絵もその際、記念室の室内を飾るものとして寄贈されている。
【浅井忠】
1856(安政3)年佐倉藩江戸屋敷に生まれた。幼いときから絵を好み、1864(元治元)年佐倉藩の絵師黒沼槐山について花鳥画を学んだ。1873(明治6)年に上京し、はじめは英語の塾で学んでいたが、1876(明治9)年国沢新九郎の画塾彰技堂に入門し、西洋画研究を開始、同年工部美術学校創設とともに入学し、同校画学教師フォンタネージに指導を受けた。1889(明治22)年明治美術会を創立し、同年第一回展に「春畝」、翌年第二回展に「収穫」など明治洋画を代表する秀作を発表するなど活躍し、1898(明治31)年には東京美術学校教授に就任している。1900(明治33)年から2 年間にわたるフランス留学から帰国後、東京美術学校教授を辞して、1902(明治35)年新設の京都高等工芸学校教授として京都に赴任している。翌1903(明治36)年自宅に聖護院洋画研究所を創設、1905(明治38)年関西美術院が創設されると初代院長に就任するなど、関西画壇の指導者として活躍したが、1907(明治40)年に京都で没している。
寄贈されている作品は1922(大正11)年10 月21 日受け入れたもので、
(1)「大阪港(安治川)」89.0×153.5 洋画 キャンバス油彩 1904(明治37)年頃制作(2)「牛」93.0×63.0 洋画 キャンバス油彩
(3)「奈良」93.0×63.0 洋画 キャンバス油彩
である。「牛」は京都を「奈良」は鹿が描かれており奈良をイメージするものであるという。住友家の当主住友春翠は著名な美術品の収集家であり、内外の絵画を収集していた。『住友春翠』によると、浅井忠が京都に移ってつくった聖護院洋画研究所が研究生の増えるに従い新教場新築の儀がおこり、京都の個人の画塾を糾合し、資金として一般からの寄付金も募って関西美術院を作ろうとした。その際、ともに作ることとなる鹿子木孟郎が住友家に働きかけ、1000 円を贈られている。資金としてはこの1000 円を含め1588 円70 銭集まったという。ともあれこの資金で関西美術院は建ちあがり、浅井忠が初代の院長となっている。鹿子木孟郎は外遊中に住友家の顧問川上謹一から手紙をもらい、西洋画の買い付けを頼まれたが、自身の留学の方が住友家にとってプラスであると返事を送り、3 年間の留学をすることができるようになった。帰国後さらに1906(明治39)年から2 年間住友家の命を受けパリに留学し、住友家のコレクションとなる絵画をもたらしている。須磨別邸にはフランスの名画とともに日本の洋画家の作品も多く収集され、浅井忠のものも数点あったという。このような浅井忠と住友家の関係から収集された作品の一部が寄贈されたのであろう。
・・・何度も何度も訪問している図書館ですが、来るたびに新しい発見や気づきがあって、ますます好きな図書館になっていきます。これからも、よろしく。