《安堵町》由来1
http://anbokai.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-b0f1.html
「安堵」という地名が確かな文献に現れるのは、延久2年(1070年)興福寺領「安堵庄」という荘園名で、現在の東・西安堵につながる荘園だと考えられる。古くから安堵町域は「アト」と呼ばれていた。現在でも「アト」にかかわりのある地名として、 阿土墓地・阿土橋などの名前が町域には残されている。「アト」とは、本来河川に沿った平らな低地を意味する言葉のようですが、後になって「アト」という地名を漢字で示す際に、堵(ト)とは垣根の意味で、垣根の中に安んずるというめでたい意味を持つ「安堵」という文字を当てたのではないかと考えられている。
《安堵町》由来2
俗説では、聖徳太子が飛鳥の自宅より法隆寺に黒駒に乗って太子道を通われてきて、もう少しで法隆寺であるこの地まで辿り着き“あんど”されたのでそう呼ばれるようになったのではないか。飽波神社の境内には、太子が休憩された腰掛石がある。
《安堵町役場》
639-1095奈良県生駒郡安堵町大字東安堵958/0743-57-1511
https://www.town.ando.nara.jp/
・・・安堵町には気になることがありまして、
【富本憲吉】
富本憲吉は、古典的な日本美をすばらしい近代感覚でとらえなおし、気品ある模様と器形の追求をすることで伝統に立脚しながらも技術偏重に泥(なず)むことなく、たえず新鮮な感覚で<芸術>としての陶芸をおしすすめ、近代陶芸の父と言われている。昭和30年第1号人間国宝(色絵磁器の技術保持者=重要無形文化財)を受賞(浜田庄司、荒川豊蔵、石黒宗麿の4人「日本工芸会」発足)昭和36年には文化勲章を受章。
《うぶすなの郷TOMIMOTO》
639-1061奈良県生駒郡安堵町大字東安堵1442
/事業運営★ワールド・ヘリテイジ0742-20-7877
http://www.and-tomimoto.jp/index.html
2012年5月、惜しまれながら閉館した富本憲吉記念館。富本の生家であり、また富本の陶芸の原点であった家は、★2007年1月体験型宿泊施設「うぶすなの郷 TOMIMOTO」として生まれ変わる。大和の歴史と人間国宝・富本憲吉を感じる宿。地元の食材をたっぷり使ったレストラン。新しい息吹を生み出す陶芸工房&ギャラリー、安堵や斑鳩の歴史や文化を楽しみながら、緑豊かな空間で自分と向き合う。そんなぜいたくな時を過ごしていただけます。
《参考》ワールド・ヘリテイジ
http://www.worldheritage.co.jp/index.html
ワールド・ヘリテイジは観光産業を通じて、それぞれの地域の個性や豊かさを訪れる人々に伝えていくことが役割であると考えます。そのためには、地域の伝統文化を常に学び続けなければなりません。地域と共にあり、地域を学び続ける会社、それがワールド・ヘリテイジです。
【川井徳子】
不動産業、運送業、観光業など5つの会社を束ねる★ノブレスグループの代表。1958年奈良県生まれ。立命館大学卒業(西洋史専攻)。学生時代より阿部謹也氏に傾倒。その影響から、表面的な事象だけで社会を理解することは危険と感じ、常に事象の奥底や裏側にあることを知ろうとすることを学ぶ。「ホテルアジール」は、阿部史学の影響による命名である。大阪21世紀協会が主宰する21世紀塾にて米山俊直氏に師事。その後、日置弘一郎氏(京都大学大学院経済学研究科教授)と中牧弘允氏(国立民族学博物館民族文化研究部教授)が主宰する国立民族学博物館における経営人類学の共同研究へ参加し、討論に加わる。何有荘の事業展開は、日置氏の指導によるところが大きい。97年に父親の会社を引き継ぎ、数々の困難を乗り越えながら、多くの不良債権物件を「物語力」で甦らせた。現在は「再生」をテーマに、疲弊した地方経済の活性化に全力を投じている。
《参考1》日本玩具博物館長:井上重義
http://www.japan-toy-museum.org/index.html
奈良県安堵町の富本憲吉記念館は芦屋市にお住まいだった実業家の辻本勇氏が、出身地の安堵町にある富本憲吉氏の生家を買い取り、同氏が蒐集されてきた富本氏の作品や関連する文献資料などのコレクションを展示して、富本憲吉氏を顕彰する施設として当館と同じ1974年に開館した個人立の施設でした。辻本氏とは何度かお会いしてお話したことがあります。1980年頃は年間入館者が8千人あったのが最近は3千人にまで落ち込み、2008年に辻本氏が逝去後は義弟の山本茂雄氏が継承されましたが、昨年5月に閉館になりました。施設や資料を奈良県にとの話もあったと聞きますが不調に終わり、陶芸関係のコレクションは半数が兵庫県陶芸館と大阪市立美術館へ寄贈され、オークションにも懸けられたようです。貴重な資料が散逸したのが残念です。
《参考2》富本憲吉関係資料の京都市立芸術大学への御寄付について
http://www.kcua.ac.jp/information/?mp=26704
《飽波神社》
639-1061奈良県生駒郡安堵町東安堵1379
飽波神社は安堵総社とよばれ、約600年ごろ建立されました(『続日本紀』にも記載されています)。 聖徳太子が芦垣宮に滞在中、夢で東方に5色の雲がたなびき、霊剣が現れるのを見、素盞鳴尊)が牛頭天王となって顕現したと思い、飽波宮に牛頭天王のほこら祠を作ったのが始まりだと伝えられています(『安堵社神験記』)。こういったことから、飽波宮が飽波神社でないかという説があります。
★「なもで踊り」
http://www.nara-np.co.jp/ohanashi/others_02.html
中世・室町時代ごろに流行した風流踊りの流れをひく太鼓踊りの一つ。雨乞いを目的に、江戸時代前期ごろから奈良盆地の各地で踊られた。人々の娯楽でもあったが、明治20~30年代にすたれてしまった。安堵町では、飽波神社から、なもで踊りの太鼓やうちわ、かつら、衣装などが見つかり、奈良県の有形民俗文化財に指定された。1995年(平成7)約100年ぶりに踊りを復活させ、以後、毎年10月に神社前で披露している。
・・・偶然にも文化財の調査中で、社殿に入れていただくことができました。ラッキー。