王寺町(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「大安寺」に続いて、「聖徳太子」つながりで「王寺町」へ。

 

 

《雪丸》

http://www.town.oji.nara.jp/

みなさん、こんにちワン。私は飛鳥時代に産まれ、聖徳太子のペットとして生きてきました。その時代に出会った達磨大師を慕い、達磨大師のお墓の丑虎(北東)に葬っていただきました。達磨寺に立派な石像を作っていただき、そこから現在も王寺を見守り続けています。平成25年6月に、王寺町の公式マスコットキャラクターに認定されました。8月19日には、ゆるキャラとして、石像から聖徳太子の「和」の魂を入魂され、達磨大師からの激励も受けました。そして、この王寺町の観光・広報大使に就任いたしました。「人とまちがきらめく和(やわらぎ)のふるさとづくり」のお手伝いのため、特に住民の方々に「住み続けたい」と思っていただけるような町をめざして、王寺を盛り上げていきたいと思っています。王寺町に骨を埋める覚悟で頑張りますので、応援よろしくだワン!

 

 

《王寺町歴史資料室》より

http://www.town.oji.nara.jp/history/index.html

王寺町地域の古代史は、この地が大和川の水系を通じて奈良盆地全体の玄関口にあたっているということに関係して成り立っているといえます。たとえば、舟戸・西岡遺跡は、大和川のほとりに位置する弥生時代後期の高地性集落であると考えられています。高地性集落とは丘陵上に営まれ、見張り台や烽火による連絡の役目を担った集落のことをいいます。また、敏達天皇の系統の王族が6世紀後半ごろからこの地域を重要視し、桜井市地域から進出をはかって★片岡王寺を創建するなどしたのも、この地域で勢力を伸ばせば、大和川の水系を通じて、当時の中心地であった飛鳥地域にも大きな影響を与えることができたからだと考えられています。

 

 

《片岡王寺》

http://www.town.oji.nara.jp/history/hisanc.html

放光寺・片岡僧寺ともいい、王寺小学校付近に建立されていました。1887年(明治20)ごろまでは土壇や礎石が残っており、それは南向きの四天王寺式伽藍配置を示していたといいます。ここからは古瓦が多数出土しており、その中のひとつである素弁形式の軒丸瓦は創建期の瓦で7世紀前半の特徴のものです。片岡王寺の創建については諸説がありますが、現在では7世紀前半に敏達天皇の系統の王族が創建したと考えられています。片岡王寺の伽藍は1046年(永承元)の雷火による焼失を契機に大きく衰退し、現在では放光寺として存続しています。なお、王寺の地名は、この片岡王寺に由来していると考えられます。

 

 

《王寺町地域交流センター》

636-0003奈良県北葛城郡王寺町久度2-2-1-501

(リーベル王寺東館5階)0745-33-3000

http://www.liebell-oji.com/kouryu/

★常設展示コーナー

【岡橋萬帆】奈良県出身の日本画家で、大正13年6月2日生まれ。日展、日春展、関西展などに入選、入賞。91年には臥龍桜日本画大賞展特別賞、92年に国際公募美展内閣官房長官賞を受賞。その後、93年に南仏・トウレット市招待作家となり、大阪で「岡橋萬帆と南仏の旅展」を開催、94年にはABCギャラリーで「墨の世界」画業50年記念展を開催している。01年12月逝去。王寺町が寄贈を受けた作品全45点を順次展示しています。

 

 

《王寺町の遺跡「送迎大神宮跡」》

「送迎大神宮」は、畠田の明神山山頂の水神社の地にありました。おかげ参り(伊勢参り)が流行した1830年(文政13)におおひるめの女尊を祀ったのが始まりといいます。現在では、その名残を留めていませんが、文献資料からは明神山にお札が降ったことがきっかけで明神山への参詣者が増えたことにより、領主である郡山藩の許可を得て社殿の建設をおこなったこと、大坂や大和の各地から万金丹屋などがつくられ大いににぎわったことを知ることができます。しかし、翌年の1831年(天保2)には郡山藩によって取り払われてしまいました。その拝殿は、火幡神社の拝殿として移築され(現在の拝殿は昭和46年に再建)、鳥居・石灯籠は白山姫神社・火幡神社に移されたと伝えられています。

 

・・・ゆったりとしたスペースに、予想以上の展示物が整然と掲示されていました。なかなか見応えありますよ。