司馬遼太郎(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・新たに「竹内街道」というテーマを立てたつもりでしたが、すでにテーマ設定していたことに気付きました。(2015-11-28:竹内街道)もう「竹内街道」シリーズを書くことはないなあと思っていたのですが、なんのなんの。コスモスが美しく咲き乱れている頃、ひさしぶりに「竹内街道」を走ってみたんですと書いており、ずいぶん間が開いてしまっていたので、うっかりしていました。そこで急遽、今回の連載を「新竹内街道」と改題しました、すみません。

 

《NEWS》2014.8.12日本経済新聞より

難波と飛鳥 古代から結ぶ 竹内街道 時をまたぐ(1)

「推古21年(613年)、難波より都(飛鳥)に至る大道を設けた」。国内最初の官道(国道)敷設について、日本書紀はこう記録している。飛鳥・奈良時代、奈良盆地や大阪平野には東西南北に走る直線道路が何本も整備されていた。現在の竹内街道が、この「最古の官道」に当たるとされている。竹内街道は堺市を発し、巨大古墳が密集する百舌鳥・古市古墳群を通過。旧石器時代以来の石材の産地、二上山の南麓にある竹内峠を越え、奈良県葛城市へと東西に走る。葬送儀礼や石材運搬のための古い道をベースに官道を整備し、難波宮から南へ延びていたとされる直線道路の難波大道と接続させ、当時の国際港・難波と都を結んだとみられている。海外からの文化や人が通ったこの道を、★司馬遼太郎は紀行「街道をゆく」で「文化をうるおした古代のシルク・ロード」と言い表した。古代の官道には、平安遷都後は使われなくなり姿を消したものもあるが、竹内街道は奈良と大阪を結んで機能し続けた。今もハイキング道として人気が高いこの道を舞台に昨年、「敷設1400年」を記念して、沿線の自治体が共同で様々なイベントを展開した。今後も観光振興で連携しようとの機運も高まっている。ただ、こうした盛り上がりに古代史や考古学の研究者らは戸惑いを見せる。実は、記紀の記述や地名などに基づく「最古の官道は竹内街道」との定説に対し、近年の発掘成果を受けて見直すべきだとの論議が巻き起こっているためだ。見直し論者を代表する一人は柏原市立歴史資料館の安村俊史館長。安村さんは、このルート上で7世紀半ばより古い東西南北の道路遺構や寺院などが見当たらない点を挙げ、「竹内街道の整備は7世紀半ば」と主張する。では推古朝の大道はどこか。安村さんは四天王寺から南東に進み、大和川の沿岸を通って生駒山地を越え、斑鳩へ抜けるルートを想定する。大和川は古来、奈良への水運に利用されていたことに加え「沿線に7世紀前半、斑鳩寺(法隆寺)や渋川廃寺など次々と寺院が建立されている」ことなどが手掛かりだ。さらに聖徳太子ゆかりの地を結ぶことから「ルート設定は聖徳太子の意向では」と推察する。これに対し「論拠が不十分」など反論もあるが、「最新資料による再検討が必要」との認識は研究者に共通する。奈良県立橿原考古学研究所の今尾文昭調査課長は「官道はいきなり開通したわけではない。6~7世紀、東西南北に方位をあわせた広域の土地開発と一体的に、長い時間をかけて進められた」と指摘。「1400年」という数字にとらわれ過ぎないよう注意を促しつつ、「竹内街道が今まで使われ続けてきた意味を考えた方が、歴史の奥行きを感じられるのでは」と話す。

 

 

《竹内街道》

http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/14,2703,53,215,html

大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、長尾神社付近に至る約26kmの街道で、推古天皇21年に開通した飛鳥の都と難波を結ぶ、最古の官道です。沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町として栄えました。松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の「綿弓塚」には★芭蕉の歌碑が建立されており、俳人の憩いの場となっています。また★司馬遼太郎氏の母の実家が竹内にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。その著書『街道をゆく』の中でも竹内街道のことを語っています。

http://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/14,2687,50,html

司馬遼太郎氏の母の実家が磐城村(現葛城市竹内)にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。旧當麻町は、氏の原風景であったと言えるかもしれません。「長尾から竹内にのぼる坂が実に印象的であった」昭和61(1986)年に旧當麻町で行われた講演会で、氏はそう語っています。著書『街道をゆく』の「竹内越」では、旧當麻町の景色の美しさについての言及がみられます。二上山とその頂に落ちる夕日、木々や草むらに埋もれてかすかにうかがえる當麻寺などを長尾から眺める風景を、「大和で一番うつくしい」と表現しています。『街道をゆく』が著されたころと現代ではすっかり風景は変化しましたが二上山や當麻寺のたたずまいは昔の名残をとどめています。司馬遼太郎氏はこの他、第十四回菊池寛賞を受賞した『竜馬がゆく』、また『菜の花の沖』『坂の上の雲』などの歴史小説を中心とする数多くの作品を世に送り、平成8(1996)年2月に永眠されました。

 

 

《「街道をゆく1」甲州街道、長州路ほか》より

 

村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは道幅も変らず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変っていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾~竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。

 

私が、昭和十八年の秋にこの竹内への坂をのぼったとき、多少いまから思えば照れくさいが、まあどうせ死ぬだろうと思って―兵隊ゆきの日がせまっていたので―出かけたのだが、坂を登ってゆくその上の村はずれから、自転車でころがりおりてきた赤いセーターの年上の女性(といっても二十二、三の年頃だと思うが)がいて、すれちがいざまキラッと私に(?)微笑し、ふりかえるともう坂の下の長尾の家並みの中に消えていて、ばかばかしいことだがいまでもその笑顔をおぼえている。

 

 

「海ちゅうのは、デライけ?」と、なかまの子供たちからきかれたことがある。(中略)「デライ」と、断定すると、(中略)子供たちはさらに、「カミの池よりデライけ」ときいた。私は比較の表現に困り、「むこうが見えん」というと子供たちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけ、と口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。

 

《参考》大阪日日新聞/澪標-みおつくし-「司馬遼太郎の原点」より

わたし(大阪府文化財愛護推進委員:足代健二郎)は以前、自分の所属する古書業界紙に「猪飼野の司馬遼太郎」という文章を書いて載せたことがある。これはのちに、組合のホームページ(大阪古書店ネット『エッセイ集』)にも載せられ、また『古本屋人生』という本や郷土雑誌『河内どんこう』にも転載された。(後者では「司馬さんのいた町のこと-鶴橋編-」と改題。守口編・八尾編などとともに第63~64号の二回に連載)自分で言うのもおかしいが、わたしの書いた駄文にしては、珍しく“うけた”作品といえる。題材が非常によかったためであろう。

 

★司馬さんは戦地から復員後しばらくしてから、大阪に帰って来たが、浪速区塩草の実家(福田薬局)は戦災で丸焼けになっていた。そのためやむなく奈良県北葛城郡磐城村竹内(現・葛城市)=二上山の南側を通る竹ノ内街道の竹ノ内である=の母の実家の親類に身を寄せた。そしてその年の暮れ、司馬さんは靴を買うつもりで今里(東成区)の闇市を物色しながら歩いていて、そこで偶然、電柱に「記者募集」の張り紙を見かけた。その時、後ろから声をかけられた初対面のOという男と一緒に応募し、二人は採用されたという。

 

 

・・・街道の坂道に沿って、竹内の集落が軒を連ねる。それだけで、十分に美しい。

 

 

・・・少し高みから集落を見下ろせば、ますます竹内は美しい。

 

《奈良県葛城市》

http://www.city.katsuragi.nara.jp/

2016年9月28日(水)~ 2016年10月2日(日)

★「葛城発信アートFAIR2016 」が開催されます。

http://katsuragi-artfair.com/