街角ミュージアム(75) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・これまで蓄積してきた「中央区」島之内の、旧町名継承碑を紹介します。

 

 

・・・「大阪春秋」心斎橋・島之内特集号に、わかりやすい旧町名地図が掲載されていました。

 

 

・・・さらに中央区の旧町名を調べていますと、興味深い情報がいろいろ出てきましたので紹介しておきます。

 

《NEWS》2014.3.18日本経済新聞より

大阪の町名は「まち」読みが多い? 地名守った商人魂

大阪市営地下鉄・御堂筋線の淀屋橋駅あたりから南下すると「伏見町」「道修町」「平野町」・・・と「まち」と読む町名が並ぶ。「淡路町」は同じ漢字の町名が東京都千代田区にもあるが、こちらは「あわじちょう」。「安土町」は滋賀県近江八幡市では「あづちちょう」と読む。大阪以外の地域では「ちょう」と読むことが多いようだ。もちろん、大阪市内でも「宗右衛門町」のように「ちょう」と読む町名はある。大阪市の地図を調べてみると、市内に「町」の字が付く町名は約150あり、半数が「まち」読み。しかし中央区に限ると、45のうち35が★「まち」と読むことが分かった。市の中心部に集中しているため、「大阪は『まち』が多い」という印象を与えているようだ。東京都内では原則、大手町など★武家屋敷のあったところは「まち」、鍛冶町など★町人が住んでいた地域は「ちょう」と区別されているという。では大阪はどうなのか。「大阪『地理・地名・地図』の謎」などの著書があるノンフィクション作家の谷川彰秀さんに聞くと、「大阪天満宮や四天王寺の周辺などに『まち』が多く見られるので、寺町が由来ではないか」という。確かに寺社の周辺に「まち」は多いが、「ちょう」も存在する。中央区は特段、寺社が多いわけでもなく、この説では説明しきれない。次に大阪歴史博物館の学芸員、八木滋さんを訪ねた。現在の中央区のあたりは、大阪城が築城されたのち、主に江戸時代に入ってから発展した。八木さんは「江戸時代から大阪は商人の町。武士はほとんど住んでおらず、身分や職業による区別はなかった」と話す。「ただ、江戸時代にはすでに『まち』と読む慣習が根付いていた」と言って、古い文献を見せてくれた。1842年(天保13年)刊行の「大坂町鑑」。当時の大阪の町名約600について、「まち」と読む町名には「町」の字、「ちょう」と読む町名は★「丁」と分けて記載している。当時の人々がどのように「町」を読んでいたのかが分かる。「ざっと数えたところ、3分の2程度が『まち』だった」と八木さん。「理由はよく分からないが、★古い町名がそのまま残っているところが多いことが、中央区に『まち』が多い一因ではないか」と指摘する。1962年に「住居表示に関する法律」が施行され、全国的に古い町名を整理して新しい町名に変える動きがあった。住所を頼りに訪問先を探し当てたり郵便物を配達したりしやすくするためだ。大阪市中央区の南船場や難波などはいくつかの町が統合されてできた新しい町名だ。ところが中央区のなかでも、長堀通以北の旧東区と呼ばれる地域は、江戸時代からの町名がそのままというところが多い。薬問屋が集まる道修町や繊維問屋が集まった安土町、本町などは江戸時代、商いのまちとして栄えた。中央区道修町が本社のボンドケミカル商事の小西哲夫社長は、明治初期にこの地で創業したコニシの創業家。当時の事情について聞くと「この辺りには、江戸時代から続く料亭や商家が多く、地元への愛着が強い。古い町名を残すために団結した」と話してくれた。町内会長のような立場の人が中心になって、行政などへ働き掛けたのだという。道修町には今でも製薬会社の本社が立ち並び、「薬のまち」の面影を残す。船場大阪を語る会の三島佑一会長は「道修町は町内会で神社を造ってしまうほど、結束が強い」と話す。薬の神様をまつる少彦名神社は道修町に店を構えた薬問屋が造ったもので、毎年11月22~23日に開く祭りには、製薬会社など約350社が加入する薬祖講が運営。祭りの日には各社からのボランティアが集まり、見物客が道路を埋め尽くすほどだ。最近は新しいマンションやオフィスビルが増え、古くからの住人や商店は減ってきた。町名の由来を知る人も少なくなったが、歴史のある古い町名には先人の思いが詰まっている。(大阪経済部:小国由美子)

 

 

《船場概要》大阪天満宮研究所研究員:近江晴子

船場とは、土佐堀川・長堀川・東横堀側・西横堀川の四つの堀川に囲まれた長方形の地域を指します。今では、長堀川と西横堀川は埋められ無くなっていますので、川に代わる長堀大通りと阪神高速道路が境界となっています。船場の南が島之内で、長堀川・道頓堀川・東横堀川・西横堀川に囲まれた地域です。船場・島之内といえば大阪の中心です。とくに船場は商業の町大阪の中核をなすところ。今、ビルが建ち並び、住む人々を失い、子どもの姿が消え、ビジネスだけの町になってしまいましたが、江戸時代からつい何十年か前までは、そこに住んだ人々が何代にもわたって育んできた独特の生活文化である船場文化が、息づいていた町だったのです。船場の町の基礎をつくったのは、もちろん太閤さん、豊臣秀吉です。秀吉の晩年から秀頼の時代にかけて、堀川を掘り、その土で海辺の湿地帯の造成をしていきました。そして、東横堀川と西横堀川の間に東西にのびる道路をつくり、その道路と道路の間に太閤下水(背割下水)を通しました。こうして整備された新しい土地ー大坂城惣構(おおさかじょうそうがまえ)の外堀である東横堀川以西の地ーが船場で、大坂城惣構内の上町にあった町屋が移転してきました。太閤さんの時代に船場の町が完成していたわけではありませんでしたが、大坂冬の陣、夏の陣で大坂の町が壊滅したあと、徳川幕府が、太閤さんのやり方を受け継いで大坂の町を見事に復興、発展させたのです。江戸時代に入って早い時期に、船場の町並みはふたたび整備されました。江戸時代初期に西横堀川の開削が完成し、西横堀川から江戸堀川・京町堀川など幾筋もの堀川が西へ開削され、現在の西区の町々が形成されていきました。江戸時代の船場では、東西の通りをはさんで向かい合う家々が同じ町内を形成しました。ですから船場では東西の通りがメインで、北から南へ通りの名を覚える数え歌がありました。私の覚えているのは次のようです。

浜(はま)、梶木(かじき)、今は浮世に、高(こう)、伏(ふし)、道(ど)、平(ひら)、淡(あ)、瓦(かわら)に、備後(びんご)、安土(あづち)、本(ほん)、米(こめ)、唐物(からもの)、久太(きゅうた)久太に、久久宝(きゅうきゅうほう)、博労(ばくろう)、順慶(じゅうけい)、安堂(あんど)、塩町ーきちんと書くと、浜(北浜、土佐堀浜通)、梶木町(内北浜)、今橋、浮世小路、高麗橋(こうらいばし)、伏見町、本町、米屋町(南本町)、唐物町、久太郎町、南久太郎町、北久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、順慶町、安堂寺町、塩町、浜(南浜、長堀川の浜)となります。

 

 

《NEWS》2014.8.13日本経済新聞より

大阪市の住所表記になぜ「ABC」(謎解きクルーズ)旧東区と旧南区合併で1丁目争い、苦肉の並立

大阪市中央区にある古代の首都、難波宮跡の周辺を散策していて、一風変わった住所表示板が街頭に掲げてあるのに気付いた。「大阪市中央区上町A」。近くには同じく「B」「C」の表示板もある。いつから、なぜアルファベットを住所表記に用いているのだろうか。一般的な住所表記「○○1丁目1番1号」のうち「○○1丁目」までを町名、「1番」を街区符号、「1号」を住居番号と呼ぶ。総務省住民制度課や地図製作会社の昭文社にも確認したが「アルファベットを街区符号に使うところは、他に聞いたことがない」。大阪市中央区役所に尋ねると「1989年、旧南区と旧東区が統合して現在の中央区となったのを機に、アルファベット表記になった」と教えてくれた。ただし「当時の詳しいことは不明」との事だった。事情を知る人を探す。上町が属する南大江東連合振興町会の伊藤弘一郎会長(73)を訪ねると「発端は、統合から10年前の1979年にさかのぼる」と教えてくれた。このころ複雑で分かりにくい地名表記を整理しようと、住所再編が全国各地で行われた。伊藤さんらが住む旧南区上町の東隣にあった旧東区の東雲町など10の町も、住所の統合・変更を実施。79年に誕生した新たな町名が「上町1丁目」だった。「南区上町」と「東区上町1丁目」が隣り合うことになったが、区が異なり、特に混乱はなかった。だが10年後、2つの区が合併することになり、問題が起きる。旧「南区上町1番1号」と旧「東区上町1丁目1番」は、合併すると、どちらも「中央区上町1―1」になってしまう。行政側は旧南区上町に「上町2丁目」と町名を変えるよう要請。それに対し「昔から『上町』に住んでいるのは自分たちなのに『2丁目』になるのは納得できない、と猛反発が起きた」と伊藤さんは明かす。

 当時を知る住民の一人、中村浩さん(80)は「『上町といえば中心はこっちだ』という強い思い入れがあった」と当時を振り返る。大阪歴史博物館の学芸員、船越幹央さん(49)によると「旧南区上町は江戸時代、寺社が立ち並んでいた上町筋沿いで古くから栄えた一等地。地名への愛着が特に強いのでは」という。とはいえ、10年前に変えたばかりの「上町1丁目」の町名を再び変更するわけにもいかない。住民らが知恵を絞り、街区符号に数字ではなく「ABC」「あいう」「いろは」「上中下」などを使う案が浮上した。「皆で悩み抜いた末、『上町の町名を残し、2丁目にならないためには仕方がない』とアルファベット表記で妥協した、と当時の町会長から聞いた」と伊藤さんは話す。「ABC」を選んだ理由は詳しく聞いていないが、「『あいう』や『いろは』は一目では順序が分かりにくいし、発音しにくいためでは」と推察する。若い世代や、その後に引っ越してきた住民は「ABC」の住所表記を特に気にする様子でもないという。しかし中村さんは「歴史のある『上町』がなんで『ABC』や、という違和感は今も残る」と打ち明ける。現在議論されている大阪都構想による区の統合で、同じ問題は起きないのか気になった。市役所市民局に確認すると「現在は区をまたがって同じ町名はなく、心配ない」と答えが返ってきた。取材を終えてタクシーに乗ると、運転手が面白い話を聞かせてくれた。89年の区統合によって、上町周辺では「上本町1丁目」だった交差点の名称が「大阪医療センター前」に、同「2丁目」が同「1丁目」になるといった変更も相次いだ。「古い住民には、いまだに『上本町1丁目』の交差点を『上2』と呼ぶ人がいる。若い運転手には分からないのでは」地名は、その土地の深い歴史を体現している。住所再編で町名が変わっても、人々の意識は簡単には切り替えられないのだろう。

 

 

《NEWS》2016.3.5日本経済新聞より

住所の番地 なぜ「渡辺」?(とことんサーチ) 「渡しの辺り」古い地名に由来 全国の「渡辺さん」のルーツ

阪市中心部の街角でふと目にした街区表示板に目を疑った。数字で表すのが当然の番地の欄に「渡辺」とある。渡辺といえば日本で数多い名字の一つだが、なぜそれが番地に使われているのか。何とも不思議な番地の謎について探ってみた。問題の表示板は地下鉄本町駅のほど近く、大阪市中央区久太郎町4丁目にあった。青い縦長の表示板の一番下に、確かに「渡辺」と記されている。付近を歩いてみると、同じ久太郎町4丁目の番地「1」や「2」の表示板も見つかった。中央区役所に問い合わせると、「確かに久太郎町4丁目には1、2、3番地のほか『渡辺』という番地があります」。1989年に東区と南区が合併して中央区となった際、この番地が生まれたという。いったいその時、何があったのか。詳しく聞こうとすると「坐摩(いかすり)神社に問い合わせるといいですよ」と教えてくれた。そういえば「渡辺」の表示板があった場所は神社だった。再度、現地へ。坐摩神社は大阪でも有数の古い歴史を持ち、地元では「ざまさん」の愛称で親しまれる。対応してくれた宮司さんに名刺を頂戴し、ぴんときた。「渡辺紘一」さんとある。渡辺さんはにこりとして言う。「お察しの通り、この番地は私の名字に由来しています」実は89年まで、坐摩神社のほぼ境内だけで東区の渡辺町を形成していた。ところが中央区の誕生に伴い、渡辺町は周辺の地区と統合され「久太郎町」となることに。渡辺町の名は消滅するはずだったが、それに待ったをかけたのが渡辺さんの父親の先代宮司だった。市議会など多方面に働きかけ、苦肉の策として番地として渡辺の名が残ることになったのだという。市町村と同様、区の合併でも多くの地名が消えるのが常のはず。なぜ「渡辺」に特例が認められたのか。「この神社が全国の渡辺姓の発祥の地という特別な事情を考慮してもらいました」と渡辺さん。全国の渡辺姓の人たちでつくる組織「全国渡辺会」の応援もあったという。大阪の歴史に詳しい大阪城天守閣の学芸員、宮本裕次さんに聞くと「渡辺とは本来、現在の中央区の天満橋付近の地名でした」という意外な説明。渡辺とは「渡しの辺り」を意味し、旧淀川に臨む天満橋の船着き場を指し、平安期にこの地に定住した人たちが「渡辺」を名乗るようになったという。中でも有名なのが嵯峨源氏の子孫、渡辺綱。大江山の酒呑童子の退治伝説で知られる平安期の武将、源頼光に仕えた四天王の筆頭格として知られる。坐摩神社の渡辺さんも「私の祖先も平安期までに渡辺姓を名乗り、宮司を代々務めてきました」と言っていた。坐摩神社は豊臣秀吉が大坂城を築く際、現在の場所に移り、地名も付いてきた。長い年月の中で、渡辺姓の人々は全国に散っていったのだという。だが、一般的に名字は複数のルーツを持つことが多いはず。これについて「全国名字大辞典」などの著書を持つ姓氏研究家の森岡浩さんは言う。「渡辺は1カ所の地名から全国に広がった珍しい名字です」。その理由として、渡辺氏が嵯峨天皇の子孫である嵯峨源氏の名門であることや、渡辺一族が優れた操船技術を持っていたことなどから、長く特別扱いされてきたことが考えられるという。全国の渡辺さんにとって、坐摩神社こそが重要なルーツ。長い歴史の荒波を乗り越え、受け継がれた「渡辺」は、大阪が全国に誇るべき番地と言えるだろう。

 

・・・「地名」(町名)には、人々の思いがこもっており、なかなか奥深いですねえ。