《今宮戎神社》
556-0003大阪市浪速区恵美須西1-6-10/06-6643-0150
天照皇大神・事代主命・外三神を奉斎しています。創建は推古天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお祀りされたのが始めと伝えられています。戎さまは、ご存知のように左脇に鯛を右手に釣竿をもっておられます。そのお姿は、もともと漁業の守り神であり、海からの幸をもたらす神を象徴しています。当社の鎮座地もかつては海岸沿いにあり、平安中期より朝役として一時中断があるものの宮中に鮮魚を献進していました。またこのような海辺で物資の集まりやすい土地では、海の種々の産物と里の産物、野の産物とが物物交換される、いわゆる「市」が開かれますが、当社でも四天王寺の西門に「浜の市」が平安後期には開かれるようになり、その市の守り神としても当社の戎さまが祀られるようになりました。時代が経るに従い、市場の隆盛は商業を発展させますので、いつしか福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても厚く信仰されるようになりました。室町時代以降庶民の信仰はより厚くなり、また大阪の町も発達し、大阪町人の活躍が始まります。江戸期になると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。十日戎の行事もこの頃から賑わいをみせ、さらに元禄期になりますと十日戎の祭礼を彩る宝恵籠の奉納も行われるようになり今日と同じような祭礼となりました。現在では、1月9・10・11日の三日間の祭礼で約100万人の参詣者があり、大変な賑わいをみせてくれます。時代とともに十日戎の祭礼も盛大になってゆきますが、それは古代から大阪の人々が戎さまを親しく崇敬し、親近感のある神様として尊崇した歴史であり、まさしく大阪の庶民生活の積み重ねが十日戎に投影されたもののように思われます。
★全大阪幼少年美術展(全大阪幼少年美術振興会理事長:津江明宏)
昭和39年に始まり今年で52回を迎えました。その特色は幼稚園・保育園・保育所・認定こども園・小学校・中学校を一貫した幼少年の総合美術展であります。また学級別に全員の作品を出していただいて、表現指導に関する新しい取り組みや、研究の意味をもつ優れた指導を奨励する美術展でもあります。この展覧会は大阪における文化行事の一つとして多くの方々から注目を集めるようになりました。先生方におかれましては、日々新しい生活のもと、子どもの自主性・主体性を尊重し、個性豊かな表現を目指して指導に当たっておられます。どうか皆様方におかれましては、この趣旨に従ってご鑑賞くださいますようお願いします。(会長:難波利三/会長代行:花篤實)
《今宮戎駅》
当駅を通る路線は、線路名称上南海本線とされているが、★南海本線の列車はすべて通過する(ホーム自体がない)ため運転系統上★高野線のみの駅となっている。“えべっさん”で有名な今宮戎神社の最寄駅である。
・・・さらに、南海電鉄高架沿いに南下しますと、閉鎖された「馬渕生活館」がまだ残っていました。
《大阪市立馬淵生活館》
556-0003大阪市浪速区恵美須西3-13-5
馬淵生活館は住所不定者・スラム住人などを一時的に受け入れ、自立に向けた準備と取組みをしてもらうための宿泊施設であり、行政上は住宅とされなかった。市内の所轄も市営住宅が都市整備局の管轄であるのに対し、馬淵生活館は健康福祉局の所轄となっていた。ただし、生活館「宿泊者」の大半はそこの住人として何十年もの長期滞在をしており、実質的には市営住宅として機能しているのが実情であった。
大阪市は新今宮駅周辺の都市開発を計画していたが、再開発地域を不法占拠する住民の立退に関する問題を抱えていた。1957年年2月21日に浪速区馬渕町一帯のスラムからの出火から始まった大火災を契機に住民は立ち退くこととなったが、住人に宿泊場所を提供し自立更生を支援するため、一時的保護施設として1962年12月に馬渕生活館が建築された。
馬淵生活館は2010年3月に閉鎖されることとなった。市営住宅の閉鎖時には別の市民住宅を斡旋されるのが通例であるのに対し、馬淵生活館は宿泊施設であり所轄も違うことから、斡旋は行われないこととなっていたが、住人の転居相談を個別に行うなどした結果、2010年3月23日に住人の全員が退去することとなり、2010年3月31日を持って閉鎖された。
《NEWS》2014.8.19建設ニュースより
市有地売却に向けて市場調査/新今宮駅前の市有地1・4haなど2件が対象/大阪市
大阪市はJR環状線新今宮駅前にある未利用の市有地約1・4haなど計2件を売却するため、市場調査を実施する。敷地面積はA用地が1万3909平方㍍、B用地が4870平方㍍。各用地は一括して処分する方向で、基本的には売却するが、市場の動向によっては定期借地による貸し付けも検討する。A用地は2014年度中に、B用地は15~16年度に条件付き一般競争入札によって民間事業者に売却などする。市場調査は用地を取得して開発する意向を持つ法人と法人グループを対象に、電子メールで調査票を受け付ける。調査結果は企業名を出さずに公表し、処分条件の設定で参考にする。
A用地の所在地は大阪市浪速区恵美須西3-40-1ほか。教育委員会が所管している。現状は更地になっており、一部をアスファルト舗装している。土壌汚染調査の結果、敷地の一部から指定基準の超過を確認している。用途地域は商業地域で、建ぺい率は80%、容積率は400%。
B用地の所在地は大阪市浪速区恵美須西3-59-3ほか。福祉局が所管している。★「大阪市立馬渕生活館」として以前に使っていた場所。現状も建物は残っており、これから解体工事を予定している。用途地域は商業地域で、建ぺい率は80%、容積率は400%。
2市有地に対して地元は災害時の収容避難施設や津波避難ビルの役割を担う施設の誘致や、A用地は商業施設、B用地は学校法人や福祉施設、医療施設の誘致を要望している。
《新今宮駅》
新世界に近く、JR西日本と南海電鉄が乗り入れている。浪速区と西成区の境界付近に駅があるため、ほぼ同一の位置にありながら、所在地はJRが★浪速区、南海が★西成区となっている。
《参考》JR今宮駅
1966年(昭和41)に新今宮駅と芦原橋駅の設置に伴い、近接する当駅の廃止(3月31日予定)が告知されるが、寝耳に水だった一部の住民による反対運動の高まりにより、無期延期の後、翌1967年(昭和42)5月10日に廃止計画そのものが取り消しになった。駅名は1899年(明治32)に西成郡今宮村に開業したことによるが、開業の2年前に今宮村へ編入された西隣の旧木津村のさらに西端に位置していた。そのため、当駅周辺が今宮と呼ばれることはほとんどない。当初は今宮戎神社の最寄駅だったが、のちに今宮戎駅・恵美須町駅・大国町駅・新今宮駅が開業し、各路線とも当駅を今宮戎神社の最寄駅として扱っていない。なお、大国町駅や今宮戎駅とともに敷津松之宮(通称:木津大国)の最寄駅のひとつである。
《新今宮駅前停留場》大阪市★西成区萩之茶屋一丁目
阪堺電気軌道(本社:大阪市住吉区/社長:外濵道明)では、2014年(平成26)12月1日(月)に現「南霞町」停留場を「新今宮駅前」停留場に変更いたします。これは、現在の停留場名である南霞町の由来となった★「霞町(かすみちょう)」の地名が、昭和50年代に消滅したことや、JR(新今宮駅)や大阪市営地下鉄(動物園前駅)との乗換駅にも関わらず停留場名が違うことで、以前からご利用される方々などから分かりにくいとのご意見があるほか、沿線外並びに近年増加傾向にある訪日外国人のお客さまなどすべてのお客さまにより分かりやすくすることで、当社線をご利用いただき沿線に多数ある観光資源の魅力を楽しんでいただくことを目的に実施いたします。
JR・南海新今宮駅より半世紀以上も早い1911年(明治44年)に、昭和50年代まで存在した「霞町」の南端にあったことから南霞町と名付けられ、103年間親しまれてきた。現位置より南側に開業したが、大阪府警西成署員の汚職事件などがきっかけとなった1990年(平成2)第22次西成暴動で放火され、駅舎が焼失。こうした暴動の教訓から、「暴動が発生した際にバラスト(敷石)が投石されるのを防ぐため」(阪堺)、停留場付近には軌道敷にバラストを使ってこなかったという。現在位置に移転・設置した仮駅を現在も利用しているという波乱の歴史を有する。
・・・「霞町1~2丁目」旧町名継承碑がありました。
・・・阪堺電車つながりで「天王寺駅」の進捗状況を紹介しておきましょう。
《都市計画道路長柄堺線拡幅整備に伴う阪堺電気軌道上町線移設工事》
阿倍野区阿倍野筋1丁目地内~阿倍野筋4丁目地内
阪堺電気軌道株式会社では、平成27年7月から都市計画道路長柄堺線(阿倍野筋)拡幅整備に伴う上町線 天王寺駅前~阿倍野間の軌道移設工事に取り組んできましたが、この度★平成28年12月上旬に切り替えをすることになりました。これにより、天王寺駅前~阿倍野間の軌道敷が景観や環境に配慮した関西初の芝生軌道となるほか、天王寺駅前停留場では新しく地下通路階と停留場ホーム階・阿倍野歩道橋階を結ぶエレベーターを、阿倍野停留場(上りホーム)にはスロープを設置し、バリアフリーに対応した停留場となります。なお、阿倍野停留場(下りホーム:我孫子道・浜寺駅前方面行き)および天王寺駅前停留場地下通路については、引き続き工事を進め、平成29年度中の供用を予定しております。