・・・かえる友の会関西支部として「珍犬ハックル」のパッケージに登場したカエルちゃんを、このまま見過ごすわけにはいきませんので、いろいろ調べましたが、他にカエルのキャラクターが登場する場面は発見できませんでした。とするならば、このパッケージにカエルを登場させたのは、「サクラ」さんのお手柄ということになります。
・・・さて、サクラで見せていただいた坂根さんのパッケージ、どこかで見たような気がして自宅を探してみますと、
・・・なんなく、似たイメージですよねえ。
《ヌーベル》
日本の教育を、芸術を育む色。サクラクレパス社を母体として生まれたヌーベルは、1970年の創立以来、多くの人々に制作の場を提供し、多くのアーティストたちを支援してきました。厳格な品質管理のもと時代のニーズを反映したオリジナリティあふれる画材や様々なレベルのアーティストに応じた画材の提供。日本のアートの土壌を豊かに育てるための歴史は続きます。
1921年(大正10)「日本クレイヨン商会」を設立。同年9月、「桜クレイヨン商会」と改称。
1925年(大正14)クレパスの商標を登録(商標登録第0167993号)。クレパスを開発、製造販売開始。
1970年(昭和45)社名を「株式会社サクラクレパス」と改称。専門画材関係★「ヌーベル」ブランド発足。中央研究所を新築落成。
1991年(平成3)本社新社屋竣工式披露。ターレンスの日本販売拠点★ターレンス・ジャパンを設立。サクラアートミュージアム開設。
《参考》ターレンスジャパン
http://www.talens.co.jp/index2.html
代表取締役社長:西村彦四郎
540-8508大阪市中央区森ノ宮中央1-6-20/06-6910-8812
世界の品質と、世界の才能の架け橋になるために生まれました、ターレンスジャパン。初めて、絵筆を手にする人も。独自のアートをめざす人も。アートを愛する人々の傍には、いつもターレンスジャパンがいます。オランダで「ロイヤル」の称号を持つ画材メーカー、ロイヤルターレンス。日本のアートを育ててきたヌーベル。日本の美術教育を育み、卓越した色材技術を誇るサクラ。全てがそれぞれの分野で世界をリードするブランドたち。ターレンスジャパンがあなたのもとへお届けする世界でただひとつの品質。「Heart with Art=いつも心に芸術を」のスローガンのもと、世界の名品を世界でただひとつの才能のあなたへ。
・・・「マット水彩」というのは知っていましたが、「マットクレパス」というのもあったんですねえ。
《参考》日曜研究家:串間努
http://www.maboroshi-ch.com/old/sun/toy_20.htm
「さくらマット水彩」は半透明水彩絵具として、昭和25年に発売された。メーカーの桜商会クレパス本舗(現・サクラクレパス)は「固くて滑りやすいクレヨンを改良し、子どもたちに使いやすくしたい」と願い、「クレパス」を大正14年に開発しているが、その経緯と同様の経過でマット水彩は誕生した。従来、水彩絵の具には透明と不透明があったが、これらは小学生にとって使いにくい。そのため水彩絵具を使っての絵画教育は、好ましくないものとして敬遠されてきたが、その状況を同社は憂えたのだった。「透明水彩は塗り間違えると修正が困難です。たとえば青空の上に黄色い太陽を描くと濁った茶色になってしまいますから、何色の上に何色を重ねたらいいのか、最初に計画性が必要です。不透明ですと、修正や塗り重ねが簡単にできますが、あまりにも不透明だと単純な絵になります。そこで両方の特性をもった半透明のマット水彩ができたのです」(株式会社サクラクレパス)。 マット水彩は子どもたちが失敗を恐れず、自由にかける水彩絵の具となり、昭和30年代から急速に図工の時間に普及していった。描きやすさが支持されたことと同時に、同社販売員が各学校を訪問して回った地道な営業活動や、ねばり強く続けられた顔料の改良が評価されたのだろう。現在、少子化のほか、図画の時間が減るなど売上的には厳しい状況にあるが、平成7年には「ラミネートチューブ宣言」を出し、時代に対応する商品作りの手は休めていない。「スズ張り鉛チューブは押せばへこむので残量がわかりますし、水分を逃がさないのですが、廃棄された場合の環境への影響を考えまして全廃しました」。同社の絵具は、まず色がきれいであることに加え、誤って口にしたり皮膚についても安全な原料を使い、光で褪せないなどの耐久性を備えていることをポリシーに作られている。50年前に小学生に扱いやすい絵の具として生まれたマット水彩。親子3代にわたって使っているかたもいるかもしれない。
《日本絵具クレヨン工業協同組合》
主な成分はパラフィンなどのろう、滑りを良くするためのオイル、色を付ける為の粉の顔料、炭酸カルシウムやタルクなどのにじみ止めと硬さ調整の、滑石と呼ばれる体質顔料の4種類です。クレヨンとパスはその描画方法の違いにより上記成分の比率が異なります。一般にクレヨンはパスに比べてワックスの比率が高い為 硬くて線描がしやすく、形状としては先端が細くとがっています。パスは軟らかめで、面塗を主体とした描画に適しています。クレパスは、『オイル・パステル』とも言われるように、オイルの含有量が多く、そして柔らかさとにじみ止め効果のある体質顔料が多く含まれています。なので、クレパスの方が伸びがよく、若干ベタつきとオイルの匂いがありますが、広い面を塗ったり、引っ掻いたり重ね塗りしたりと、様々なバリエーションの描画技法が可能になります。
水性クレヨン(落書きクレヨン等)には、界面活性剤と水溶性高分子が、プラスチッククレヨンには、熱可塑性プラスチック(ポリエチレンなど)が入る。
《サクラコラム「タブローのための描画材料」》
http://www.craypas.com/target/senior/colum/0805.php
クレパスは世界初の描画材料として、1925年(大正14)にサクラクレパスが開発したものです。クレパスを開発する直接のきっかけとなったのは、クレヨンをより描きやすい描画材料に改良しようとしたことでした。そして、クレパスの発案の素地となっていたのがクレヨンとパステルでした。クレパス、クレヨン、さらにはパステルが、どう違うのかはあまりよく知られていないことです。2008年の今年で生誕83年になるクレパスですが、これまでの素描やエスキースのための描画材料というイメージだけでなく、★タブローのための描画材料であることの認識が広まってほしいと思います。
クレヨンは硬いので線描が中心になりますが、クレパス等のオイルパステル(パス)は線描だけでなく面描もできます。クレパス等のオイルパステル(パス)もパステルも画面上での混色はできますが、パステルは重色ができません。クレパス等のオイルパステル(パス)は重色がしやすいので、スクラッチ技法は得意とするところです。また、特にクレパスは、ほどよい粘り気のある★塗りカスが多く出るので、油絵具のように厚く盛り上げることができるなど、より高度で幅広い絵画表現ができます。(サクラアートミュージアム主任学芸員:清水靖子)
・・・「クレパス画名作展」を残念ながら観てませんが、その中にハッとさせられる作品がありました。
《NEWS》2014.6.4産経ニュースより
多様な動物をモチーフにした花鳥画で注目を集める若手日本画家、絹谷香菜子さん(29)は、日本におけるアフレスコ画(フレスコ画)の第一人者として日本の洋画壇で活躍してきた幸二さん(71)の次女。美術の世界へ進もうと決めたのは中学2年の頃。幼稚園から大学までエスカレーター式に進める学校に通っていたが、「大学は別の所に行きたい」と思ったのがきっかけだ。「興味があったのは海や生物に関すること。叔母が海洋学者で自分も、と思ったけど、学者になるほど頭が良くない。海の水の中にいる感覚が好きなのですが、この『自分が良い』と思う感覚が言葉では伝わらない。どうしたら伝わるかと考えたとき、父のように絵で表現するのがいいかも、と思った」
アフレスコ画は石灰と砂をこねたしっくいを壁に塗り、乾き切らないうちに水を含ませた顔料で描く。日本画は天然鉱物を細かく砕いた岩絵の具などを膠(にかわ)で溶いて描く。香菜子さんが日本画を選んだのは、オープンキャンパスで訪れた美大で岩絵の具の色の美しさにひかれたためだ。子供の頃から幸二さんのアトリエで目にしていた鮮やかな色の顔料に通じるものでもあった。幸二さんは香菜子さんの美大進学に、「美大に行くんだ。頑張ってね」と言うぐらい。美大では、親から反対されて入学してきた同級生も多かっただけに、すんなりと進学できたのはありがたかった。一方で、幸二さんが世間的に評価されている画家であることに初めて気づく。「父が絵を描く人で、大学で教えていることは知っていたけど、私にとってはただのお父さん。教科書に父の絵が載っていても、友達も『幸二の絵が載ってるね』と言うぐらい。すごいと思ったことがなかった」大学では「お父さんの力で入学したんでしょ」と陰口を言う子もいた。打たれ強い性格なので何を言われても平気だったが、自分でも「どこまで私自身の力が認められているんだろう」と悩むこともあった。幸二さんは国内の美術コンクールで審査員を務めることも多く、審査員でなくてもみんなが幸二さんのことを知っている。「絹谷」の名字のない雅号で応募することも考えたが、連絡先や本名を隠しての応募はできない。結局、大学時代、香菜子さんは一度もコンクールに出品しなかった。子供の頃、幸二さんは長期の休みには必ず海外旅行に連れて行ってくれた。タヒチでゴーギャンの軌跡をたどり、スペインでアルタミラ洞窟の壁画を見た。海や山など自然いっぱいの中で遊び、必ず現地の美術館を訪れた。大学時代は「重い」と思った幸二さんの存在だが、幸二さんが父だったから今の自分があると思えるようになった。「父は放任的で、私に絵のことはほとんど教えなかった。それは一つのことを強制したくなかったからかも。いろんな国に行き、文化に触れたことで、物事はそれ一つで成り立っているのでなく、全てがつながっていることを自然に学んだ。絵を切り口に、自然環境や歴史、文化などさまざまな分野に思いを巡らせ、つなげることも父の絵や生活から学んだ。将来は父を超え、世界に通用する画家になりたいですね」
・・・「群展」30周年記念誌に、私はクレパス画を掲載しました。再度チャレンジしてみようかと、考えています。