・・・初詣そして夏祭りはもちろん、これまで何度お参りしたことか。にもかかわらず、あまりにも知らないこと気になることが多い「杭全神社」。だから、何度も来るのかもとさえ思います。
《杭全神社連歌所》
http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008782.html
杭全神社は平野郷東北の一角に位置している。平安時代初期の征夷大将軍坂上田村麻呂の子、広野麻呂がこの地に入り、その子が862年(貞観4)に創建したといわれる。その後、平野郷は鎌倉・室町時代には摂関家の荘園となり、戦国時代には堺に次ぐ自治都市となり、近世には大和・河内と巨大都市大坂を結ぶ交通の要衝として栄えた。「杭全神社連歌所記」によれば、当社の連歌は鎌倉時代に始まり、坂上家の後裔と称する平野七名家を中心として室町時代に盛んになったという。中世以来の連歌所は1614年(慶長19)大坂冬の陣の際に破却された。現存する連歌所は1708年(宝永5)に再建されたものである。現在の連歌所は桁行4間半・梁行2間半、入母屋造り本瓦葺きで、12畳の主室と4畳の控の間があり、控の間の西側が玄関となっている。主室の東側に半間の縁側、控の間の南側に半間の濡縁がつく。主室の北側正面は、中央1間を「床」、その東側を収納スペースとしているが、この部分はもとは西側と同様に半蔀窓であった。西側に間口1間半の玄関が連続する。連歌所は大阪府下でも菅原神社(堺市1666年以前)、佐田天満宮(守口市1759年以前)、大阪天満宮(1793年以前)、住吉大社(1860年以前)、開口神社(堺市1860年以前)などに存在したが、現存する建物としては、全国的にみても極めて少ない。簡素な中に気品があり、近世連歌所として極めて重要な建築物といえる。杭全神社の連歌会は 明治時代に廃絶したが 1987年(昭和62)5月5日、杭全神社法楽連歌会が再興された。現在、定期的に連歌会を行っている。
《NEWS》2015.8.5大阪日日新聞より
連歌づくりのこつ学ぶ/杭全神社で初心者講座
日本で唯一連歌所がある大阪市平野区の杭全神社で4日、初心者向けの連歌講座が開かれた。平野法楽連歌会の山村規子さんは連歌の歴史について「お茶や酒を飲みながら楽しんでいた」と解説し、受講生は地域の伝統文芸に親しんだ。「連歌ってどんなん? なんで平野やねん?」と題して7月28日に続いて開催。2日間で延べ28人が受講した。連歌は短歌の「五七五」と「七七」を数人が交互につなげていく言葉遊びで、受講者は前の句を見ながら指を折って文字を数えた。講師を務めた大阪教育大付属平野中学校教諭の小村典央さんは「前にあった言葉を使わなくていいだけ」と連歌づくりのこつを説明し、山村さんは「連歌は楽しんでやるもの」と呼び掛けた。杭全神社連歌所記によると、杭全神社の連歌は、征夷大将軍だった坂上田村麻呂の坂上家の子孫と称する平野七名家を中心として室町時代に盛んになった。同神社連歌所は1614年に大坂冬の陣で焼失したが、1708年に再建された。
・・・「連歌所」については、多くの方々が知るところですが、
・・・この「ガス灯」は、私も気が付きませんでした。「ガス灯」については、古いだけでなく様々な思いが灯っています。
・・・杭全神社にあるものは「ラウンド型」というそうです。
《参考》神戸市の姉妹都市シアトル市から贈られたガス燈
1970年4月23日宮崎辰雄市長の時代に贈呈されたもので★ラウンド型(No.36 Boulevardと知られる)のガス燈でUSAでは6,000以上の実績があるとの解説が記載されています。
《NEWS》2012.12.25神戸新聞NEXTより
阪神・淡路大震災を語り継ぎ、遺族らの心を癒やす神戸市兵庫区のNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯(あか)り」(通称HANDS(ハンズ)、堀内正美代表理事)が今年、設立から丸10年を迎えた。遺族同士の語らいや、三宮・東遊園地にともるガス灯「1・17希望の灯り」の管理など、手探りの活動は東日本大震災の被災地の道しるべにもなっている。震災から間もなく丸18年。きょうも地道に歩みを重ねる。今月16日、東遊園地にHANDSのメンバーら約10人が集まった。多くの震災犠牲者の月命日に当たる17日前後に、毎月実施する清掃の日。参加者はにこやかにあいさつを交わし、希望の灯りや地下にある「慰霊と復興のモニュメント」を磨き、ごみを拾い集めた。設立は2002年3月にさかのぼる。前身は震災直後、俳優の堀内正美さん(62)らが同市北区で設立したボランティア団体「がんばろう!!神戸」。堀内さんは救援物資を被災者に届ける活動を続けるうち、街が復興しても心を閉ざしたままの遺族の悲しみを知った。「止まったままの遺族の心をどう溶かしていくかを考えた」と堀内さん。震災で長男を亡くした理事の白木利周(としひろ)さん(70)は「堀内さんに紹介され、初めて別の遺族と顔を合わせた。同じ苦しみを知る人の存在を知り、外に出ようと思えるようになった」と振り返る。設立前から活動に加わり、今では中心的な役割を果たしている。毎年の1・17のつどいの準備や、復興の象徴となった「はるかのひまわり」の種を配る活動など取り組む内容は幅広い。支えるのは会員ら個人、企業など約1500人・団体からの寄付。11年3月の東日本大震災以降は東北支援が柱に加わった。物資を送る「たすきプロジェクト」では、被災地の作業負担を減らせるよう、衣服のサイズを袋に記して届けた。希望の灯りをモデルにした★ガス灯は、岩手県陸前高田市など東北の3カ所に広がり、被災地を照らす。支援を通じ、新潟県中越地震や東日本大震災の遺族らと育んだ関係は今も続く。来年1月17日に東遊園地である「阪神淡路大震災1・17のつどい」実行委員長も務める白木さんは「また、あの日が訪れる。これまで通り、仲間との歩みを続けていきたい」と話す。