住吉名勝保存会(7) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《すみよし村ギャラリー(住吉福祉会館)》

558-0045大阪市住吉区住吉1-9-16

大正時代に住吉村の村長を3期勤めた油屋さんの住宅で、古い部分は江戸時代にさかのぼり、明治時代に移築されたものだそうです。今は住吉福祉会館とすみよし村ギャラリーとして使われています。家の前には「馬つなぎ」が残されており、昔の街道を彷彿させます。


ぎやら1


《南海電鉄「住吉東駅」》

558-0045大阪市住吉区住吉1-8-49/06-6671-4025

http://www.nankai.co.jp/traffic/station/sumiyoshihigashi.html

住吉大社の裏門にあたる高野線の最寄り駅として、高野鉄道当時の明治33年(1900)9月に開業しました。駅構内は複々線となっており、高野線の円滑な運行を支えています。駅から難波方面へ進むと、天王寺駅前と住吉公園を結ぶ阪堺電気軌道上町線が線路上を交差しており、築堤上に神ノ木停車場があります。住吉大社へは駅の西側を徒歩で約5分。境内に入ると、第1本宮の裏に樹齢千年以上の楠と「南珺社」があります。毎月はじめの辰の日が例祭日であることから「初辰さん」と呼ばれ、初辰の日には商売繁盛・家内安全・除災招福を祈願する人でにぎわいます。

《浄光寺》

558-0046大阪市住吉区上住吉1-9-29/06-6671-6760

御堂の中には、等身大の油掛地蔵尊が錫杖を持って立っておられます。残念ながら、後ろの光背が欠けていました。


ぎやら2


《参考》株式会社ウジタオートサロンHPより

http://ujita.co.jp/%E7%A4%BE%E9%95%B7%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E7%A4%BE%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%AF%BE%E8%AB%87/%E9%95%B7%E5%B2%A1-%E7%BE%A9%E5%AD%9D%E3%81%95%E3%82%93/

住吉区に数多くあるお地蔵さんの中でも、ユニークな存在である「油かけ地威」について、浄光寺住職★長岡義孝さんにお話いただきました。

お寺と地蔵さん、どちらも仏教からでたものですが、ご本尊をはじめとして、全く別のものですね。この寺は浄土宗ですから阿弥陀さまを御本尊として、法然上人の教えに従って心の修養をし、檀家の方々が集っていろいろと運営します。一方お地蔵さんの方は、地蔵講という信仰団体があって百人ほどの方がおられて毎月二十三、二十四日にはお地蔵さんの縁日として集まって御詠歌を唱えられます。又、八月の地蔵盆にはちょうちんを百五十くらい境内にめぐらしてそれは賑やかです。又日課として毎日地蔵さんをおまいりする人もおられます。私の寺は毎朝六時に表門をあけますが、しばらくするとカンカンカンとお地蔵さんをおまいりする音がして、すぐ隣りの無縁墓に参るということを日課にしておられる人もあります。お寺の方から話しますと、浄光寺としては、永禄元年といいますから一五五八年、桶狭間の戦いのあった頃、今から四百四十年ほど前の開山です。ところが昭和二十年六月一日の空襲で本堂及び境内建物も何もかも焼けてしまったのです。本当に何もかも焼けてしまいまして、残っていれば重文クラスと言われた御本尊の阿弥陀如来、寺の宝物、由来、檀家さんの過去帳、又、私のところの系図もすっかり焼失しました。もちろん「油かけ地蔵」さんの由来も全部焼けてしまったのです。焼け残ったのは石造りの地蔵さんのお堂だけです。中は油をかけておまいりしますからすっぼり焼けてしまってお堂だけが残ったのです。戦後に地蔵講の人々が口伝えに伝えていたものをまとめたものを紹介しますと「昔、この地蔵は、故あって住吉の東長居の里に移されたが、浄光寺の岌誉上人の夢に現れ「長居の里は化縁拙(けえんつたな)く、吾れ本懐に非ず、願わくば大領に移せよ」と言うので上人が弟子達を引連れて行くと、地蔵堂は傾き、香華も絶え、痛々しい有様であったのでこの寺に運んでおまつりしたという。そして江戸時代の末期のある年の初夏に住吉地方に赤痢、疫痢といった悪い病気が流行した時のこと、董信女という信心深い老婆が吾が子の病を治そうとこの地蔵尊に参籠祈願したところ、満願の夜、いずこともなく異香漂い、心身が爽快になるのを覚えた。その時「吾が身に油を注げ。吾れよく堪え忍び、一切衆生の、今世、未来め苦難を救うべし」とお告げをいただき、ふと尊像を見れば三つに割れて倒れていた。恐る恐るもとの座に復してお参りしたところ、やがて吾が子の病気も治り、近隣の人達も次第に本復したという」ということなのです。仏像に油をかけて諸願成就を祈る浴油信仰というのは古くからありまして空海上人(弘法大師)がそれを広めることに熱心で全国の主要都市に一つずつ浴油仏をつくる運動を起されています。大阪でも南区南船場に「油掛地蔵」北区与力町に「油掛大黒」というのがあります。私のところの油かけ地蔵もそういうものの一つでしょう。油とホコリでドロドロになってお顔なんか見えません。焼け残ったお堂が壊れかけていたのでやりかえまして、その時にお地蔵さまを洗って油をとってきれいにしたのですが、またすぐドロドロです。毎日油をかけられますから。まあしかし、このお地蔵さまは手についただけでもベトベトして不快な油を頭からかけられてその不快さに堪えて人間を救うというお地蔵さまですから、耐えていただかないと仕方がありません。お地蔵さんというのは地蔵菩薩のことで、菩薩というのは仏の位にいる人と庶民との中間に位置する方で庶民の願いを何でも仏さんに取り次いで下さるのです。庶民と一番関係のある方で、特に子どもの守り役です。文明が発達し、生活が豊かになった現代こそ、お地蔵さんを大切にし、その心で子ども達をはじめ、すべての人の心の触れ合いを大切にするように努力することが必要ではないでしょうか。


ぎやら3


NEWS》2015.7.30毎日新聞より

「わが町にも歴史あり・知られざる大阪」

戦乱の世、安穏願い 巨石、13に割って彫る

阪堺電車神ノ木駅から南に歩く。旧熊野街道だ。大阪案内人の西俣稔さんが「旧街道の特徴は、曲線を描いていること、神社仏閣が多い、呉服店や和菓子店など老舗が多い。それとドトールコーヒーや吉野家がない」とオチを付ける。しばらく歩いた左手に公園がある。ここで立ち止まった西俣さん、「この公園の名前の由来が面白い」と語り始めた。★住吉一二三(ひふみ)公園の一二三とは何を意味してるのか。「ここは住吉区住吉。住吉は1~3丁目まであるんじゃないかと思たんやけど、2丁目までしかないねん。昔は3丁目があったのかも、と昭和50年の地図を見ても2丁目までしかあれへん」。ふむふむ、それからどうした?話は一気に結論に。「神主さんがあげる一二三(ひふみ)祝詞から来てるんやと思う。神さまを慰め、多くの災いを福に変えるというもので、まさにこの土地がそうなってほしいという願いを込めたんちゃうかな」。住吉大社に近く、神社仏閣が多い「信仰の町」ならあり得るかも、と思わせる仮説だ。


ぎやら4


公園の斜め向かいには宝泉寺。平安中期に名僧と名高い源信が開いたという古寺だが、見ものは門前のお堂に並ぶ十三仏だ。織田信長が延暦寺を焼き打ちし、浅井長政を攻め滅ぼすなど、戦乱の世のただ中で、世の安穏と後世の極楽往生を願って刻まれた石仏だ。「さっき通った神ノ木駅のあたりで巨石が見つかって、それを13に割って仏さんを彫ったんです」と西俣さん。「手前の3体だけ、ちょっと小さい」と細かい。1体ごとに名札が付いていて、仏の名前が書いてある。それだけでなく、十二支が振られている。石仏は13体だから、1体だけ、釈迦如来には干支(えと)がない。12仏は、それぞれの干支の守り本尊らしい。しばし、この辺をそぞろ歩いてみる。南海高野線の住吉東駅に通じる路地を入ると、立て込んだ住宅街の中に白壁の土蔵がひっそりと残る。近くの荘厳浄土寺の松村隆誉住職の筆による由来によると、1840年(天保11)に建てられた太田家の蔵だという。この当時の油とは菜種油。このあたりは菜種の一大産地だった。蔵を管理している村上彰さん(75)に伺うと「油の原料を入れておく蔵でした」。蔵の向かいは空き地になっていて「昔は製油工場が何棟も建っていた」という。7年前にしっくいを塗り直すなど改修したそうだ。蔵の中には太田家ゆかりの品々のほか、村田さんが近所から譲り受けた古い調度品や書物などを保管してあり、区のイベントなどの時に開放して見学してもらっている。旧熊野街道と交差する旧住吉街道を東へ歩くと、古寺がある。荘厳浄土寺で、平安中期の創建と伝わる。門前には「後村上天皇聖蹟」の碑。松村住職によると「父にあたる後醍醐天皇の法要を、ここで2回執り行った」とのことだった。


ぎやら5


《参考》平野区画整理記念会館「八尾街道」道標

この道標は、現東住吉税務署より東へ約90m(平野区平野西1丁目11番地先)の処、平野から南下してきた八尾街道が西に方向を変える場所に建っていました。明治18年(1885年)政令によって大阪府が府道・里道などの整備に伴い、明治36年(1903年)12月に建てられたものです。現在、旧八尾街道に残っている道標の内、大阪府が建てたものが7基残っていますが平野以西ではこの1基のみです。八尾街道は、八尾市老原で奈良街道(国道25号線)より分岐し、八尾久宝寺を経て、平野区の鞍作から平野に入り、中野、湯里、鷹合を経て、長居公園通りを西へ、西長居町のところで北西に進み住吉神社東門から同神社の北側沿いを西に紀州街道に至る街道です。別名、平野以西を住吉街道とも呼んでいました。沿道には久宝寺御坊、平野大念仏寺、住吉神社など神社仏閣が数多くあり、昔は往来の人々で賑わったものでした。