喜連環濠集落(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「息長眞若中媛」や「息長川」のことも調べてみましたが、私の理解を超える難しい内容で降参しました。せめて、橋だけでも紹介しておきます。

《楯原橋》

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030731.html

この辺りは古代には百済郡と呼ばれ、朝鮮からの渡来人が定住し、日本へ先進的な仏教文化が伝えられたところである。橋には百済の象徴である百済瓦の文様をデザインに取り入れて歴史を顕彰している。単弁の軒丸瓦の文様を高欄のデザインに使用し、花弁模様の舖装を施している。

《緑橋と楯原橋》

今川の改修にあたり、大阪市はこの2つの橋を歴史を通じて、人々になじんで貰いたいと願って「歴史の橋」第1号に指定し、百済瓦風のデザインが採用されました。


いきな1


●楯原橋:このあたりの古い字名が「楯原」であったので、橋の名前も「楯原橋」とされました。実際にこの近くに元の★楯原神社が鎮座していたという伝承があります。 橋の四隅の親柱には楯型の御影石が使われています。この場所から古代の瓦が出土したので、百済の地名があるこの付近に百済からの渡来人が多く住み付き、瓦造りを行ったと考えられています。

●緑橋:平成10年頃に、この橋近くの川面に大きなオニバスが群生し、美しい花を咲かせました。最近は今川吐水口から定常的に平野処理場の3次処理水が放出されているので、オニバスが発芽しなくなり、川底に埋まっているとのことです。つまり、オニバスには川底が干上がるような渇水期が必要なのです。かわりに、ホテイアオイやコナギが川一面に繁茂しています。


いきな2


【尻矢口地蔵尊】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000228295.html

尻矢口(ししゃぐち)は喜連城後方の矢口で村の東北の出入口。地蔵堂の背面は環濠の石垣だった。1940年頃まで荷車や馬車も通る石橋が架かっていた。谷川家に寛政2年(1790)の「如来御膳」(漆器一式)が伝わり、今も地蔵盆に供え続けられている。

【東口地蔵尊】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000228302.html

中喜連村の東口に位置し地蔵堂の東が濠だった。石標に安政四年宗右衛門、常治郎、佐助、文治郎の銘あり。弘化四年の太神宮常夜燈があった(楯原神社南入口に移設)。


いきな3


《大阪市立喜連小学校》

547-0027大阪市平野区喜連7-6-4/06-6709-7700

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000313664.html

明治時代初期の学制発布に伴い、1872年10月1日に第七大区第一小区喜連小学校として当時の住吉郡喜連村に設置された。現在の大阪市平野区喜連地域では最も歴史の古い小学校である。

【馬倉地蔵尊】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000228300.html

南へ馬場先・馬場口と続く古字名は当地が喜連城の大手前に当ることを語る。地蔵堂の横に馬繋ぎ場があった。環濠はここで石垣の桝形を成し中高野街道に馬場先橋が架っていた。街道より広い馬倉~鳥居間の道は江戸期より幅7間長さ80間の馬場だった。


いきな4


【道しるべ地蔵】

嘉永4(1851)(正面)「右、すミよし/さかい」(右面)「すぐ 高野山ミち」(裏面)「すぐ、大念佛寺十八町/四天王寺一里半」/正面上部に地蔵立像を陽刻

【南口地蔵尊】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000228301.html

元は法明寺横の環濠脇に東向きにあった。明治期は門があり関所の役も果たしたと伝えられる。明治42年~の出納帳が存在。昭和41年頃の環濠埋立・道路拡幅で現在地に移設。その際旧町割り南町(ミナンジョ)住民33軒で南口地蔵講を設立し護持している。


いきな5


【法明寺】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000290499.html

貞和3年(1347)融通念仏宗中興の祖七世法明上人が創建。江戸時代は融通念仏宗の中本山であり、良忍上人の元祖忌や法明上人の中興忌など、本山大念佛寺の大切な法要を、河内末寺の代表として執り行ってきた。壁の五本線がその格式を示している。法名に後を託された喜連の興善が八世上人となった後は、法明はこの寺に隠居した。当寺に伝来する銅喚鐘の銘文は喜連西向寺が法明寺の前身であったことを伝えている。元禄10年、法明上人ゆかりの西向寺が法明寺として定堂化した。平成26年「下別時関連仏画群」として、寺所有の刺繍聖徳太子画像・二畳大の刺繍釈迦涅槃図・銅喚鐘等13点が大阪市有形文化財に指定された。

交差点を挟んで北には造り酒屋 (明和年間以前に創業。門と塀を残す)、南に油店など江戸時代の地場産業を代表する店が建ち並んでいた。明治二十年頃築の油店と安永四年(一七七五)再建の専念寺、嘉永五年(一八五二)築の中谷家に囲まれたT字路は落着いた景観を残し、今では「屋敷小路」の名で親しまれている。また、街道南端に見える★佐々木家は安永年間築造の建築物であり、民家では喜連で最古の建物。

・・・残念ながら取り壊されて更地になっていました。弘法大師腰掛石がちょっと寂しい、この後どうなるのかな。