喜連環濠集落(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《大和科学教材研究所》

547-0032大阪市平野区流町4-6-13/06-6709-2864

http://www.daiwa-e.com/

創業1946年(昭和21)以来、常に子供たちが楽しく学習できる教材を目指して開発、製造し、現在全国の小学校で活用して頂いております。特に理科教材に関しては業界トップ40年の実績です。教材は文部科学省の学習指導要領に準拠して製造され、児童一人一人の体験学習を重視し、製作・実験・観察を通しての正確な結果が出せるように製造。製品は安全で作りやすくよくわかり、考える力を育成できるように工夫しております。また理科・図画工作科だけでなく、学校行事やクラブ活動にも役立つ製品も開発販売しております。これからも児童一筋。学力向上のお手伝いを続けてまいりますので、大和製品をご愛顧賜りますようお願い申しあげます。


だいわ1


・・・「直吉地蔵尊」、何かいわれがありそうですが、不明です。

《喜連環濠地区まちづくり研究会》

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000292730.html

喜連地域の方々で構成されます「喜連環濠地区まちづくり研究会」(以下「研究会」といいます。)は、渡来人「伎人(くれひと)」の最初の定住地であるとも言われる喜連環濠の歴史的な成り立ちや伝統行事等を調査するとともに、歴史の香り豊かなまち並みや文化を次世代に継承する方策を研究している団体です。このたび、研究会の皆様のご尽力によって、案内板構想の集大成として、まちづくりのシンボルである「中高野街道の道標」が復元され、2016年3月15日には除幕式を行われました。この間、研究会の皆様は、環濠地区の歴史や文化を喜連地域の方々に知ってもらい、地域の魅力と感じていただくとともに、近年この地区に「まち歩き」等に訪れる来訪者の方々を温かく迎えることを目的に、古の環濠の出入口であった地蔵尊や歴史ある7つのお寺を紹介する「案内板」の設置構想が立てられ、順次設置しておられます。ぜひ一度、喜連地域のまちを散策して、その歴史や伝統を感じてください。

・・・歴史と伝統文化を後世に伝えるべく、地域の方々が積極的に取り組まれています。新しい「案内板」や「道標」などが設置されています。


だいわ2


《平野区の都市景観資源(平成24年12月21日登録)》

喜連環濠地区の6つの地蔵尊(北口、尻矢口(しりやぐち)、西口、馬倉(ばくら)、東口、南口)

http://www.city.osaka.lg.jp/toshikeikaku/page/0000196283.html

古くから喜連環濠集落の6か所の出入口には地蔵尊が祀られている。中高野街道の環濠南入口の大手前を意味する「馬倉(ばくら)地蔵尊」から反時計まわりに、「安政」の石碑が傍らに残っている立派な体格の「東口地蔵尊」、地蔵盆には「寛政」の膳が供えられる「尻矢口(しりやぐち)地蔵尊」(背後の防備を固めたと思われる名称である)、中高野街道の北の玄関口として立派な地蔵堂を備え、環濠を跨いでいた松山橋跡も残る「北口地蔵尊」、本尊の左に謂われ有りげな首地蔵が祀られている「西口地蔵尊」、中世からの歴史を感じさせる線刻の地蔵が脇に控える「南口地蔵尊」である。6つの地蔵尊の位置と名称から中世の喜連城の惣構が浮かび上がる。また、地蔵尊は戦乱の時代に一揆も戦った村の関所跡でもある。 戦が止んでからは集落の出入口で田畑に通う人々を見守り、喜連環濠集落を守護する存在として、人々の生活に溶け込んできた。次第にこどもたちを守る仏様に転じ、夏の風物詩「地蔵盆」(毎年8月23、24日)の舞台となって、今もこどもたちに親しまれている。地蔵尊は隣近所の人々の温かい善意の気持ちによって何百年と護り続けられている。

【北口地蔵尊】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000228293.html

天文年間(1532~頃)の喜連城主細川氏綱が地蔵堂を寄進と伝える。北口は中高野街道が喜連環濠と交差する村の玄関口で地蔵堂も大きい。深い軒は旅人を休め、雨宿り地蔵の名も残す。堂前の濠端は石垣をめぐらせ、立派な石橋(松山橋)が架かっていた。


だいわ3


【西口地蔵尊】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000297125.html

「明治15年西金若中」香炉銘より西町と金元町で護持してきたと思われる。堂には明治から既に首地蔵が祀られ、元の金元地蔵か。地蔵堂の前と西面(左)は濠の石垣が埋まっている。もう一体お地蔵さんが並んでいた。★「旭園」から求められ移設された。

【寶圓寺】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000297077.html

村にまだ浄土真宗がなかった頃、当時久宝寺にあった慈願寺の法円に帰依する門徒団によって興された西喜連村惣道場が寶圓寺の前身である。寺号の「寶圓寺」も法円の音から採ったと思われる。

【專稱寺】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000297073.html

專稱寺は元亀二年(一五七一)僧恵光(現慧光寺)により本願寺末の道場として開創され、寛永二年(一六二五)道場を再建、本・寺号を承応元年(一六五二)西本願寺より免許され寺院となった。


だいわ4


★「中高野街道の道標」を復元しました/2016年3月28日

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000297137.html

中高野街道は、北は平野郷を抜けて、守口で京街道に接続、南は三宅(松原市)を抜けて河内長野市で東西の高野街道と合流する高野山参詣の道である。旧喜連村の中と西の村境とされていたこの細い道が往時の姿をそのまま伝えている。すぐ北の中小路との交差点にはこの街道の道標(天保四年 辻吉兵衛建立)が建っていたが、近年紛失したので、平成二十六年末、やや南側に地元有志により復元された。交差点を挟んで北には造り酒屋 (明和年間以前に創業。門と塀を残す)、南に油店など江戸時代の地場産業を代表する店が建ち並んでいた。明治二十年頃築の油店と安永四年(一七七五)再建の専念寺、嘉永五年(一八五二)築の中谷家に囲まれたT字路は落着いた景観を残し、今では「屋敷小路」の名で親しまれている。また、街道南端に見える佐々木家は安永年間築造の建築物であり、民家では喜連で最古の建物である。

【専念寺】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000297069.html

専念寺は、『大念佛寺四五代記録并末寺帳』によると「慶長二年(一五九七)摂津国住吉郡中喜連村に創建されたり」とある。寺伝では道善上人の開基である。


だいわ5


【楯原神社】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000210303.html

喜連西北端の旧字楯原(現喜連西1丁目)にあったが、兵火・台風などの被災で文明13年春現在地付近に移ったとされる。延喜式(867)神名帳記載の古社。明治以後の祭神は武甕槌大神と大国主大神。平成23年大阪市文化財の指定を受けた奥殿の氏神天神社は大坂夏の陣後真っ先に再建された元和年間の築造で、喜連で最古の建物である。明治37年環濠浚えの時広住塚前で発見された「息長眞若中媛」標柱が境内最奥に移されている。昭和59年旧社地近辺の今川に古地名を顕彰して★楯原橋(大阪市「歴史の橋」第1号)が架けられている。


・・・「喜連」と「今川」がつながっているとは、驚きです。