喜連環濠集落(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・平野から喜連へと、懐かしい道を南下してみることにします。

《大阪学芸大学平野分校》

1949年、学制改正により大阪第一師範学校及び大阪第二師範学校を包括して大阪学芸大学が設置され、同年6月に開学しました。1967年(昭和42)大阪教育大学に学名変更しました。

1900大阪府女子師範学校附属小学校として、大阪市南区(現・天王寺区)で開校。

1927現在地に移転。

1941国民学校令により、大阪府女子師範学校附属国民学校と改称。

1943官立へ移管。大阪第一師範学校女子部附属国民学校と改称。

1944初等科児童、南河内郡川上村へ集団疎開。観心寺に楠郷国民学校(分教場)を設置。

1945学校再開。

1947学制改革により大阪第一師範学校女子部附属小学校と改称。

1947大阪第一師範学校女子部附属中学校を開校する。

1949新制大阪学芸大学の設置により、大阪学芸大学第一師範学校平野附属小学校・中学校と改称。

1951旧制師範学校が新制大学へと完全移行したことに伴い、大阪学芸大学附属平野小学校・中学校と改称。

1967大学の名称変更により、大阪教育大学附属平野小学校・中学校と改称。

1973大阪教育大学教育学部附属平野小学校・中学校と改称。

1992柏原キャンパス(現在本部所在地)が完成。★平野分校・池田分校が廃止される。

199柏原キャンパスへの統合移転完了。(一部施設は、天王寺キャンパスに残る。)

2004大学の法人化により校名を大阪教育大学附属平野小学校・中学校に改称。


がくげ1


・・・昔のままのコンクリート塀が続く道、そして


《常磐会幼稚園》

547-0032大阪市平野区流町2-2-28/06-6709-0330

http://www.tokiwakai.ac.jp/tokiwakai-kg/

1927大阪府女子師範学校同窓会である常磐会により創設開園

1943大阪府女子師範学校代用付属幼稚園として実習指導開始

1955学校法人常磐会学園に移管

1974常磐会短期大学付属常磐会幼稚園と名称変更

1975新園舎落成

2015新園舎完成。新制度による幼稚園型認定こども園の認定を受ける。


がくげ2


・・・最新の建築、美しい。


がくげ3


《旭園の碑(石柱)》

・・・いろいろ調べましたが、詳細はわかりません。その昔、宅地開発があり「旭園」と呼ばれていたのでしょう。以下、ヒットした情報です。

《参考》★旭紙工株式会社

580-0046松原市三宅中6-14-19/072-336-5360

http://www.asahishiko.co.jp/

先代の生家があった平野区喜連★「旭園」という土地で事業を開始しました。日本人は旭・富士・日の出と言った言葉を好む傾向があり、それにちなんで社名を旭紙工と名付けました。その後昭和55年に松原市に移転し、現在に至ります。

「旭園美容室(ビューティーサロン)」547-0027大阪市平野区喜連1丁目1-2506-6708-8482

「旭園アパート」547-0027大阪市平野区喜連1丁目4-7


【喜連(きれ)】

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000001772.html

喜連は、1798年(寛政10)刊行の「古事記伝」に「河内の堺なり、昔は河内に属して、万葉に河内国伎人郷とある處なるを、久礼を訛って喜連と云うなり」と記され、かつては伎人郷とよばれ河内の国に属していた。のちに久禮と語られ、中世室町時代ごろから喜連とよばれるようになった。また、古き時代、呉の国から来た機織の技術者、呉織・穴織等の呉人が、この地に住みついたので、「くれ郷」となり、それがなまって「きれ」になったという説もある。現在使われている「喜連」の文字は、地名を漢字で表す際、美しい・喜ばしい意味を持つ字を使う習慣から用いられたと言われている。


がくげ4


★「灌漑長閘紀功之碑」を移設しました/2016年3月28日

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000333520.html

長年★「如願寺」弥勒堂裏に仮置きされていた喜連の歴史を物語る「灌漑長閘紀功之碑」が喜連北小学校の東三差路(喜連1-5-25)へ移設されました。喜連環濠地区まちづくり研究会の「喜連地区案内板構想」の一連の事業として、平成27年11月13日完工しました。当日は同碑のお披露目と共に、藤井清美区長の祝辞、白川俊義喜連村史の会代表の解説を頂きました。


がくげ5


「当碑は宝永元年(1704)の大和川付け替えにより、狭山池からの水源を断たれる危機に際し、西喜連村庄屋増池彌右衛門の尽力で、東・中・西三村が協力し、国役(幕府持ち)で、新川からの取水樋を設置したことの記念碑です。事業を村民の記憶に留めるため、明治三十三年(1900)、村の人々により建立されました。新樋設置とは、単に川から水を引く水門を作るという単純なものではありません。大和川川(かわ)違(たが)え自体が日本史上の大土木工事でしたから、堤の中腹に埋設された導水管の長さだけでも十八間(約三二m)、これに堤から北へ長原村領に五十間(約九十m)の水路を村人の人力で掘るという大工事でした。設置の後も享保年間まで何年も、喜連領内の灌漑網の再整備が続けられたことが、村の古文書から明らかになりました。意外なことに「五十間樋」は設置後わずか七年の正徳元年に全面的に工事し直していることも判りました。「五十間樋」は高度成長期まで二五〇年、喜連の農業を支え続けてきましたが、これも先人の努力があったからです。江戸時代の農村の水の確保に対する多大の努力研鑚の経緯をまとめた五十間樋関連の史料を冊子にしております。(★天野茶屋【喜連6‐1‐38】に置いています。)多くの方々に読み取って頂ければと思います。碑文の撰は藤沢南岳。当時を代表する文人(漢学者)で、石碑自体の価値も高く、当時の喜連の学識を示す記念碑ともいえます。紀功碑脇の小碑の建設委員の方々が南学の門人だったことも最近分かりました。新たな設置場所は元の「水道の川」跡で、村の「バチカル(揚水)」ポンプ場・後の精米所跡であり、旧字名「山の上」。古墳跡と推定される地です。喜連の古い歴史を偲ばせる、村の水利の要衝です。喜連北小学校通学路に、この灌漑長閘紀功碑が区役所の解説碑と共に並んだことは、今後、郷土の歴史を継承していく上でも意義深いことです。地域のみなさまの深い関心を呼び起こす移設となってくれることを願ってやみません。」


・・・ここも美しくなりました。