・・・五代さんを追いかけて「靭公園」まで来ましたので、せっかくなので、あるものを再度探しに行くことにしました。大阪は「八百八橋」、橋や川を知らずして大阪は語れません。埋め立てられた「西横堀川」の痕跡を求めて、これまで散策を繰り返してきましたが、どうしても見つけられなかった「親柱」があるのです。
【西横堀川】
土佐堀川の錦橋上流側より分流し、南に向かって流れて道頓堀川に注いでいた。江戸期の大坂市街において、西横堀川の東岸は材木の集積地として賑わい、西横堀二十四浜と呼ばれた。開削者は大坂北組惣年寄を務めた材木商の永瀬七郎右衛門で、当初は七郎右衛門堀川とも呼ばれた。西国橋 - 京町橋間には七郎右衛門町の町名が1872年(明治5)まで存在した。
1600年(慶長5)開削。信濃橋下流側より西へ阿波堀川開削。
1617年(元和3)筋違橋上流側より西へ江戸堀川、京町橋下流側より西へ京町堀川開削。
1625年(寛永2)長堀川開削により四ツ橋において直交。
1626年(寛永3)助右衛門橋上流側より西へ立売堀川開削。
1698年(元禄11)木綿橋上流側より西へ堀江川開削。
1962年(昭和37)埋立。
【筋違橋(すじかい橋)】
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000030552.html
筋違橋は高麗橋筋から江戸堀1丁目にかけて筋違いに架けられていたためその名がつけられたようである。江戸時代初期には、江戸堀川に架かっていた★「撞木橋」とともにT字形をした橋が架けられていたという話も伝わっているが、1657年(明暦3)の古地図にはすでに2橋になっておりT字形の橋は、ごく限られた時期にしか存在しなかったと考えられる。
《「摂陽奇観」編集:浜松歌国》
西横堀撞木橋の事、西横堀「高麗橋筋」より「江戸堀」へ図のごとく撞木形りにはしを架して「撞木橋」という。後世高麗橋筋の橋を少し南へ筋違に架して、すなわち「筋違橋」と名づけ、江戸堀の小橋は古名を用いて撞木橋と呼びて、今のごとく2橋に成りたり。
この碑文の左にある親柱は、昭和3年に筋違橋が架け替えられた時のものである。昭和39年、西横堀川の埋め立てによって橋は消えたが、筋違は今も筋違いである。
【すし萬】大阪市中央区★高麗橋4-5-11
元々は1617年(元和3)に掘られた江戸堀川に南北に架けた橋の真ん中から東に(西横堀川に)架けた撞木形の橋がありました。京町堀生まれの暁鐘成『摂津名所図会大成』には、撞木橋の形が尋常でない形であるために架け替え時の普請料が嵩み、江戸堀川の川幅を狭めて橋が二つに分けられた経緯が記されています。その際、江戸堀川の南北に架けられた橋とは別に、高麗橋筋から江戸堀川南岸へ筋違いに斜めに架けられた橋が「筋違橋(すじかいばし)」と命名されました。小鯛雀鮨で有名な★「すし萬」の系譜を遡れば、17世紀半ば頃には西横堀川から一本東の筋である魚の棚筋で魚屋を営業する傍ら、雀鮨を販売していたようです。すし萬は江戸堀から筋違橋を渡ってすぐの所にあったので、筋違橋は、すしを買いに行く(すしかい)橋であったとも言えます。→ 大阪市西区★靭本町2-3-7
・・・そんなこともあってか、「筋違橋」の「親柱」のうち1本が「すし萬」の軒下に置かれていたのですが、移転のため「靭本町」に持っていかれたということでした。「靭公園」近くに行く機会があれば、近辺をうろうろしてみるのですが、なかなか発見することができませんでした。
【小鯛雀鮨「鮨萬」】
550-0004大阪市西区靭本町2-3-7/06-6448-6435
鮨萬(すし萬)は、承応二年(1653)に創業いたしました。正確にはその頃魚の棚(現在横堀二丁目付近)で魚屋渡世をし、副業に雀鮨を作っておりましたが天明元年(1781)の頃、京都の宮廷へ献じるにあたり西宮沖の小鯛の二才物を用いて雀鮨を作りましたところ評判を得ましたため、雀鮨専門となりことさらに総本家小鯛雀鮨と称しました。おそらく義太夫で名高い吉野(奈良県)の釣瓶鮓と共に、すし業のはしりではないかと思われます。その頃大阪には摂州福島の雀鮨(毛吹草:1670年頃)が既に地方名産として挙げられていましたが当時は浪速江鮒(ボラの稚魚)が材料として使われ【魚の腹脹れて形雀に似たるを以て号之(摂陽郡談)】と記されているように、現在のものとは作り方がかなり異なるものでした。初代河内屋長兵衛より十五代・三百六十年の間に禁裏御鮨師を世襲し、明治元年・五年には津村別院(北御堂)で明治天皇の御用命を蒙り、御膳所御用御包丁人の看板が下されております。昭和十七年戦争による一時的な休業はございましたが、昭和二十五年四月組織を法人に改め関西圏以外の土地でもすし萬のおすしを広く皆々様に食して頂けるようになりました。最近でも三笠宮秋篠宮家はじめ宮内庁の御下命をいただき今日に至ります。これからも、伝統を守りながら新しいものを取り入れ、皆様に愛される「すし萬のおすし」をお届けいたします。
《NEWS》2013.7.24産経WESTより
阿倍野歩道橋「鮨屋萬助」と命名
大阪市は24日、高さ日本一のビル「あべのハルカス」(大阪市阿倍野区)前の「阿倍野歩道橋」の命名権の購入者が、老舗の寿司製造・販売会社「小鯛雀鮨(こだいすずめずし)鮨萬(すしまん)」(同市西区)に決まったと発表した。年間360万円の3年契約。名称は「鮨屋萬助(すしやまんすけ)・阿倍野歩道橋」となる予定。同社は江戸時代の承応2(1653)年創業。大阪市内を中心にレストランなど29店舗を展開し、あべのハルカスにも出店している。歩道橋の名称は店主が「萬助」だったことにちなんだ。同社は創業360周年の記念事業として応募。「大阪の食文化としてみなさんに育てていただき、お礼をしたかった」(担当者)としている。市は財源不足を補おうと昨年3月から、歩道橋125カ所の命名権の購入者を募集。阿倍野歩道橋は昨年12月から公募しており、「ロート製薬」が契約したJR大阪駅前にある「梅田新歩道橋」に次いで2番目の売却となった。残りの123橋にはまだ応募はなく、引き続き募集を続ける。
・・・もしやと思い、「すし萬」駐車場を探させていただきました。幸いにも休憩中の板前さんがおられたので許可をいただいて、駐車してある自動車のさらに奥へと進みますと、やっとやっと見つけることができました、スッキリ。