庚申街道(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《北河堀町五つ辻の道標》

「これより右たなべはうらくじみち」田辺「法楽寺」を示す道標です。


しんこ1


《本清水(谷の清水)》堀越町3-11

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000073508.html

四天王寺南門の南、庚申堂南向かいにある。現在も湧出中である。水源は当井戸から約10m南西の民家庭先にある同型の井戸で、そこから桶でひいていた。この元井戸の水も涸れてきたので、昭和51年より現井戸の地下約15mをボーリングしポンプで汲み上げている。戦前は井戸の向かい側にあった風呂屋、庚申堂の前にあった醤油醸造所がこの井戸の水脈を利用するほど水量は豊富であった。


しんこ2


天明9年(1789)の「摂州大阪地図」に本清水としてこの井戸の所在が示され「摂津名所図会」には谷の清水、庚申堂の南一丁ばかりあり。清泉にして甘味あり、四天王寺名水のその一つなりというと出ている。この地の旧字名、清水はこの井戸から出た名であって今一般には清水の井戸と呼ばれている。この清水の元井戸は西南方崖上にある。噴井でその湧水を土管を地下に通して導き戦後冷房用の地下水のため水がとまってしまった。清水地蔵尊はいつごろつくられたか不明であるが明治32年と明治43年両度の清水改築記念碑がたっている。


しんこ3


【四天王寺庚申堂】

543-0056大阪市天王寺区堀越町2-15/06-6772-9420

http://www.shitennoji.or.jp/

日本最初の庚申尊出現の地。本尊は青面金剛童子(秘仏)。大宝元年(701)正月七日庚申の日、豪範僧都が疫病に苦しむ多くの人々を救わんと一心に天に祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現し、除災無病の霊験を示され、以来千三百年、庚申の日及びその前日(宵庚申)に本尊に祈れば、必ず一願が叶うと尊崇されている。初庚申は最も盛大で、前日に大般若転読会、当日に柴灯大護摩供が行われる。庚申の縁日には境内に「北向きこんにゃく」等の店が出て賑わう。「病に勝る」「魔も去る」という三猿堂の加持を受ければ、痛い所もたちまちに治るという。


しんこ4


《庚申こんにゃく》

古来よりの俗信で、『庚申の縁日に、お願いことを考えながら「庚申こんにゃく」を北を向いて黙って食べると、その願い事は叶う』といい、江戸時代には大人気だったようです。

《四天王寺庚申堂由緒(庚申堂由来記)》

庚申堂は四天王寺南大門より南二百米の処にあり、本尊は青面金剛童子を祀る。今から千二百余年前、人皇第四十ニ代文武天皇の御代、大宝元年春庚申の日はじめて本地を示し我朝に降臨し給う。その由来をたづねると、このまえいろいろ疫病が流行り、諸人大いにこれを悩み、良医の薬をもとめ、高僧のいのりなどさまざまであったが、なんの効験もなかった。


しんこ5


この頃津の国、天王寺に民部の郷僧都毫範という貴い御僧があって、慈悲の心ふかく、広く人間の悩みを助けようと天に祈る丹誠の余り、あらたなる霊験を得て、諸人の悩みをまぬがれしめた。時に正月七日庚申の刻であったが、年の頃が十六歳ぐらいと思われる一人の童子があらわれて、僧都のみまえで「帝釈天のおつかわし者であるが、天の命によって、汝が人間のなやみをあわれむ、その至誠を感じて我を天より下さしめ、除災無病の方便をあたえよう」とのお告げがあった。以来毫範阿闍梨が感徳した青面金剛童子を祀ることとなった。庚申とは一年に六度あるいは七度あって、庚申を祀る人々は一願をかなえられ、これを申の刻に行うと身も心も清浄となり、百味の飲食を供えて本懐を念ずればこの世の雑科速やかに滅し請願が成就するのである。これすなわち庚申の霊験となって我が国庚申のはじめなり。庚申を祀ろうとする者は皆当寺にきて免許を得、尊像の分身を勧請するのを例としたのである。