庚申街道(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

《サンクンガーデン(Sunken Garden)》

「オープン地下道」を意味する建築用語である「サンクン」と庭を意味する「ガーデン」を組み合わせたものであり、和訳すれば「沈んだ庭」となる。都市部などでは、地下に開放的な空間を設け、人々が集う憩いの場所として近年さかんに建築設計に取り込まれており、オフィスビル、ホテル、都市公園、学校など様々な用途で事例も多い。


さんく1


・・・近鉄阿倍野橋駅東口(庚申口)を出て「あびこ筋」を渡ると、


さんく2


《参考》「JR天王寺駅」の歴史

初代の大阪鉄道が1889年(明治22)5月14日にのちの関西本線にあたる路線の、湊町駅(現在のJR難波駅)~柏原駅間を開通させたときに、その中間駅として開業したことに始まる。当時の天王寺駅周辺は、四天王寺に代表される寺社群の集まる地であり、また明治に入って東成郡の郡役所が置かれて発展しつつある場所であった。大阪市街と町続きであった天王寺村の南で★上町台地に★掘割を設けて線路を敷いた。大阪鉄道は引き続き、後の大阪環状線にあたる路線の建設を進め、1895年(明治28)5月28日に玉造駅まで開業し、天王寺駅はその分岐駅となった。1900年(明治33)6月6日に、関西鉄道が大阪鉄道を合併して関西鉄道の駅となったが、その関西鉄道も1907年(明治40)10月1日には鉄道国有法により国有化され、国有鉄道の駅となった。


さんく3


天王寺駅は掘割の中に東西方向に伸びるプラットホームが3本南北に並ぶ構造となっていた。北側から城東線(現在の大阪環状線の一部)ホーム、関西本線上りホーム、関西本線下り、南海天王寺支線共用ホームの順だった。城東線ホームより北側には貨物積卸場と貨物上屋が並んで貨物扱いを行っており、この部分の西側の地上と同じ高さに駅本屋が設けられていた。駅本屋の北側を東西に抜ける貨物扱い用の道路があり、天王寺駅前交差点から貨物積卸場へ荷車が出入りできるようになっていた。駅本屋は地上の高さにあることから、本屋内からそのままの高さで南へ掘割を横断する★跨線橋が架かっており、そこから各ホームへ降りる構造だった。2代目大阪鉄道の駅はこの国鉄天王寺駅の南側に隣接して東西方向にプラットホームを設けていた。第二次世界大戦後はさらなる利用の増加に対応するための改良工事が行われた。戦争で中止されて木造の仮駅舎となったままだった天王寺駅舎の工事も再開されることになった。阪和線の輸送需要の増加はさらに続き、8両編成に対応させるための工事が昭和50年代に実施された。しかし阪和電気鉄道時代に降車専用客を通す★地下道として建設された構造がプラットホームの下に残されており、それに設計を制約された関係でプラットホームの幅がばらばらになったりプラットホームの屋根の柱の位置が中心からずれたりする影響を受けている。


さんく4


以上の歴史があって、駅構造は、★上町台地上に位置する地上部と、それを東西に貫通する★掘割部の2層構造になっている。地上部に阪和線ホームと中央コンコースがあり、掘割部に大阪環状線、関西本線(大和路線)のホームがある。かつて阪和電気鉄道が使っていた阪和線のホーム(1 - 9番のりば)と、かつて関西鉄道が使っていた関西本線(大和路線)、大阪環状線のホーム(11~18番のりば)とで構造的にも実務的にも分かれている。

・・・JRの軌道敷上に架かかる歩道橋を渡り、地下道をくぐります。地上に出て、さらに北へと向かい「玉造筋」を渡ると、


さんく5


《西下医長病院》

543-0053大阪市天王寺区北河堀町4-15/06-6771-2450

http://nttbj.itp.ne.jp/0667712450/index.html

《西下胃腸病院前の道標》

「右 かうや」(安政4年)

《おはぐろ地蔵》

「右かうやさん、左ふじい(でら)」

地蔵堂の中の向かって左側の地蔵に記されています。藤井寺へは、平野経由の奈良街道になります。