平野区喜連西町と東住吉区湯里町との境界線と、長居公園通=古代の磯歯津路(シハツミチ)交差点に、現在の今川の「水源」である人工★吐水口があり、★平野下水処理場で高度砂濾過法により2次処理された水が、約10トン/分の割合で注ぎ込まれています。
・・・ということで、今川の「水源」を紹介しておきましょう。
・・・素敵な「せせらぎの道」が整備されています。
・・・とてもたくさんのの魚たちが元気に泳いでいたので、びっくりです。下水の2次処理された水はなかなかのものです。
・・・「東住吉区」から「平野区」へ。
《平野下水処理場》
547-0001大阪市平野区加美北2-6-69/06-6757-3309
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000141050.html
平野下水処理場は、平野区、東住吉区、生野区など本市東南部の下水を処理し、隣接する東大阪市、八尾市域の下水も処理しています。平野下水処理場には、処理水の放流先である平野川分水路の水質環境基準を維持達成するために、流入下水量のほぼ全量(312,000立方メートル/日)を処理できる高度処理施設があります。この高度処理水の一部は、場内再利用水として活用するとともに、★今川、駒川、細江川の上流へ送水され、固有水源の無くなった河川に「せせらぎ」が復活しています。このほか、下水の処理によって生じる汚泥は平野下水処理場で発生する汚泥以外に、中浜・今福・放出各下水処理場で発生する汚泥も送泥管によって平野下水処理場に集約して脱水処理しています。さらに、脱水処理した汚泥を減量、安定化し有効利用するために汚泥炭化炉(150t/日)と汚泥溶融炉(150t/日)を設けています。
★「平野せせらぎの里」
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000011304.html
平野せせらぎの里は、ひと昔前まで大阪の周辺でも見られた小川や里山の風景をイメージしてつくられています。園内には、木々の間に流れるせせらぎに沿って水車小屋、パーゴラ(つる棚)なども設けられており、四季折々の草花のなかを自由に散策していただけます。せせらぎの水には下水の高度処理水が使われています。園内のホタル舎の見学は★平成20年3月30日をもって休止し、現在は行われていません。
・・・残念です。さて再度「東住吉区」にもどって、
《晩年の坂田三吉》
http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000039263.html
『吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を 笑わば笑え』
村田英雄の歌う「王将」で有名な坂田(阪田)三吉と言えば、関西を代表する有名な将棋の名人です。明治3年(1870)7月1日、堺★舳松村生まれ。独力で将棋に強くなり、関根金次郎に惨敗してプロの道に進んだ。後にその関根八段に勝利して、「銀が泣いている」という言葉を残した。大正14年55歳の時、関西名人を自称したことから関東の棋士たちと対立した。昭和12年67歳のに東京側と和解し、復帰戦で木村義雄八段および花田長太郎八段と対局し、いずれも「後手番、初手端歩突き」の奇策を取るが連敗した。豊中服部霊園にある将棋の駒形をした墓石は、勝負師坂田にあやかろうとする心無い人が削り取ったと思われる跡が残っています。坂田三吉が堺市に生まれ、大正時代は天王寺区伶人町で暮らしていたことはよく知られていますが、このあと★吹田市に移り、昭和18年に★東住吉区に転居してきたことは、あまり知られていません。ここは、三女の方の住まいに近かったようです。坂田三吉はこの場所で、終戦(昭和20年)を迎えています。終戦翌年、昭和21年当時の新聞には下記の記事が掲載されています。〔坂田三吉(八段)昭和21年7月23日午後3時、大阪市東住吉区★田辺東之町3丁目23の自宅で死去。77歳。〕晩年の坂田三吉が、田辺に落とされた「模擬原子爆弾」に肝をひやしたり、晴れた日にはすぐ近くにある樹齢300年の「北田辺の大楠」あたりを、杖つきながらゆっくり散歩したりしたのではないでしょうか。『棋神阪田三吉』は三吉が慕っていた中村眉山の長男、中村浩が書いた実像です。
《参考》「王将碑」/大阪市浪速区恵美須東1丁目18番(通天閣下)
http://www.city.osaka.lg.jp/naniwa/page/0000000886.html
大正時代の将棋名人・坂田三吉を偲んで、通天閣の真下に建てられました。毎年7月の王将まつりには多くの将棋ファンが集まります。
[碑文]王将坂田三吉は明治3年6月堺市に生まれる。幼少より将棋一筋に見きわめめぐまれた天分と努力は世の人をして鬼才といわしむ。性温厚にして妻小春とともに相扶け貧困とすべての逆境を克服する。昭和21年7月(77才)大阪市★東住吉区に没す。同30年10月生前の偉業をたたえられて日本将棋連盟より棋道最高の名人位・王将位を追贈される。翁によって大阪人の土根性の偉大さをしらしめたる功績は私たちの追慕しやまざるところここ由縁のち通天閣下にこれを顕彰する。昭和44年10月吉日・王将碑建立有志の会/書:氏野寒木
《参考★「舳松人権歴史館」》
590-0822堺市堺区協和町2丁61-1(人権ふれあいセンター内)
http://jinken-fureai.jp/?page_id=105
舳松人権歴史館は、展示室(くらし・しごと・歴史・教育・啓発・特別展示の各コーナー)と阪田三吉記念室、人権資料・図書室で構成しています。