東住吉区(6) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《参考》磯歯津路

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033859.html

長居公園通にほぼ沿っていた街道で、住吉区の浜口町付近に上陸した外国使節がこの街道を東進し、奈良に向かったものと考えられています。日本書紀★雄略天皇紀に書かれている内容では、「雄略8年2月条に青(アオ)と博徳(ハカトコ)が呉国に出使し、10年9月条に筑紫に帰国したが、12年4月条に再度派遣され、14年正月条に帰国し、呉の使いと共に機織の技術者を連れて、住吉の津に上陸し、そこに泊った。この月に呉の来朝者のため道を造って、磯歯津路を開通させて、これを呉坂(クレサカ)と名づけた。」と記載されています。「しはつ」は磯果、磯歯津、四極等と万葉集にも出てくる地名です。

《雄略天皇十四年(庚戌四七〇)正月戊寅【十三】》十四年春正月丙寅朔戊寅。身狭村主青等共呉国使。将呉所献手末才伎、漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。

《雄略天皇十四年(庚戌四七〇)正月》是月。為呉客道、通★磯歯津路。名★呉坂。

《雄略天皇十四年(庚戌四七〇)三月》三月。命臣・連迎呉使。即安置呉人於檜隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛為漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。


こうし1


・・・さて、紹介した「今川」沿いを「庚申街道」が通っていましたので、「川」の次に「街道」を調べてみたいと思います。


こうし2


【庚申街道】

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000256383.html

「庚申街道」は、四天王寺南大門から約100m南下した★「庚申堂(四天王寺庚申堂)」を過ぎ、東南方へ蛇行しながら★文の里を通り、★桃ヶ池の北端で東に折れ、旧北田辺村の北辺を横断、さらに東へ駒川を越え★今川で川沿いを南下、★針中野(旧中野村)、湯里(旧湯谷嶋村)、旧住道村を過ぎ、大和川に突き当たると川沿いに東へ★「古市街道」と出合う明治橋北詰(旧川辺村)にいたるという街道です。

江戸時代の北田辺村は、大坂の近郊農村で木綿や★田辺大根などの生産地でしたが、庚申街道は四天王寺や庚申参りする信仰の道であるとともに、日常的には牛馬車を使って農作物や肥料の運搬に利用されていました。街道の名前となる庚申信仰は、中国の道教に由来し、六十日毎の庚申(かのえさる)の日の夜、体内に住む三尸(さんし)の虫が抜け出し、その人の罪業を天帝に告げ、天帝は報告によってその人の寿命を決めるといわれ、三尸虫の行動を封じることで広まった信仰です。庚申堂は三尸虫を押さえる青面金剛童子を祀ります。庚申堂の縁起では、飛鳥時代、疫病が流行り高僧が祈ったところ、庚申の年の正月7日庚申の刻に青面金剛童子が現れ、祀ると疫病が退散したということから庚申の日に青面金剛童子に祈れば願いがかなうという信仰がはじまりました。

《古市街道》明治36年大阪府誌より

本街道は東成郡平野郷町に於ける奈良街道より起り、南向して中河内郡長吉村に入り、同郡大字川邊に於いて大和川を横断し恵我村に入り左岸堤腹に沿い行進すること千餘間にして南河内郡小山村に下り藤井寺村大字岡に於いて長尾街道と合し、又、東南に岐れ本道は南行し同郡古市村大字誉田に於いて東高野街道に連結するものたり。延長二里十七町二十六間、幅員平均二間、奈良街道と略その方向を同じうし、地勢概平坦なれども、河内南部の交通は高野街道により柏原村に出づる捷路あるを以って本道は専平野郷町と古市村との間各村の往来に便せるものの如し。

《参考》大阪市都市工学情報2次情報集より

旧街道名庚申街道の起終点、経路、街道の変遷、及び旧街道筋旧態残存箇所と顕彰地点について解説した。庚申街道の現道路名で一貫した名称はない。同街道の起点は★四天王寺南大門(現天王寺区大道1丁目)で、終点は★丹北郡川辺村(現平野区長吉川辺1丁目)である。現在、生きている庚申街道は、桃ケ池のあたりまでで、田辺を東西に貫通する古道は庚申街道と呼ばない。現在の庚申街道はあびこ筋より一筋西の道で、北進するとバス停★「庚申街道」に行き当たる。同街道筋旧態残存箇所と顕彰地点としては、熊野遥拝石、竹本義太夫墓、庚申堂、清水の井戸、おはぐろ地蔵、桃ケ池、中井神社、はりみちの道標、湯里住吉神社、湯里の井戸、中臣氏の氏神を祭った中臣須牟地神社、川辺八幡神社及び明治橋北詰の道標が挙げられる。

《川辺八幡神社》平野区長吉川辺1-4-38/06-6769-0323

http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000210333.html

《明治橋北詰道標》平野区長吉川辺2

(南面) 右 柏原 信貴山   左 平野 大阪

(東面) 明治四十五年三月建設  大阪府

(西面) 右 葛井寺 道明寺 天神 誉田八幡

・・・残念ながら「道標」を見つけることはできませんでした。


こうし3


《中臣須牟地神社》東住吉区住道矢田2-9-20

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009409.html

中臣須牢地神社は、延喜式内(えんぎしきない)の古社であるが創建不詳。祭神は須牢地神、住吉三神ほか。中臣氏(藤原鎌足(かまたり)・不比等(ふひと)らがいる)の祖先を祭り、難波において王権のもと、最も古くから行われてきた八十島(やそじま)祭に関係したという。


こうし4


《湯里住吉神社》

546-0013大阪市東住吉区湯里4丁目17-9/06-6702-7272

天神山に鎮座する須牟地神社が富田荘の氏神であったが、富田荘が分割されて河内国丹比郡に編入されたため、祭神住吉三神のうちの一座をこの地に勧請して須牟地神社と称した。住吉二の宮、湯屋島住吉などと呼ばれた。


こうし5


・・・「湯里住吉神社」の近くに、立派な鷹が入口を飾る「鷹合会館」がありました。素敵ですね。