【中野のはり】
546-0011大阪市東住吉区針中野3-2-17/06-6702-7673
http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033874.html
中野鍼灸院は、平安時代★延暦(782~805)の頃に設立された、「中野降天鍼療院(ナカノアマクダルハリヤ)」がその屋号です。平安時代から一子相伝を守り、男児が恵まれない時は、女性も当主としての鍼灸術を習得して、現在に至っています。
43代目中野一氏の言によれば、以下のような長期にわたる経歴がわかります。初代の治平氏は延暦20年(801)生まれ、平安初期に弘法大師が布教の途上、当家に宿を借りたお礼として、当時最も進歩した鍼術とつぼを示す「遂穴偶像」(スイケツグウゾウ) (大人と小人の丈1m弱の木像)と金針を授与されとのことです。その木像は現在も中野家に伝えられています。3代目主禮氏は年度が不明ですが、旧暦満月の8月15日に開業されたので、「月見の鍼(はり)」と呼ばれ、今もその治療に訪れる人が多いといわれています。南北朝の頃に、足利軍の戦火により屋敷を焼失したが、大師伝授の木像2体と鍼と漢方薬書が残り、今日に至っているとのことです。
宝暦13年(1763)発行の★「摂津平野大絵図」にも、中野村小児鍼師と記されています。明治の頃、第41代目新吉氏は医師の資格を取得された上で、西洋医学を取り入れて独自の鍼法を築かれたので、近畿一円から「中野鍼まいり」として、一日500人以上の人々が殺到し、屋敷内に遠路の来館者を泊める宿舎も建てられていました。大正3年★南海平野線が開通した時には、中野駅から鍼院まで7ケ所の道辻に石の道標が建てられました。南海平野線が廃線された以降、現在も旧中野駅跡地に道標が残されています。大正時代に中野家41代目が大阪鉄道(現近鉄南大阪線)の開通に尽力し、そのお礼として大正12年の開通時には最寄りの駅名を「針中野」としたといわれています。現在も駅名が継続され、地名となって残っています。当時では珍しく遠くから見えた3階建ての塔屋敷は、老朽化したために昭和50年に取り壊されました。
【中井神社】
546-0011大阪市東住吉区針中野2-3-58/06-6702-7533
http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033872.html
中井神社は、三代実録(西暦901年)という書物に摂津の国「田辺東神(ひがしかみ)」と記されており、古くは、ご祭神にちなんで「牛頭天王社とよばれていました。その昔、社前に、清水の湧く井戸があり、人々は、「汚れのない霊水」としてたいせつにしていたので、中野村の井戸の有るところのお社として、明治時代の初めに中井神社と改められました。(中井神社発行の神社暦による)中井神社の東神に対し西神が★山阪神社といわれています。
境内に、根元5mほど残った榎(えのき)は、世に異変のあるときは必ず夜間にごう音がすると言い伝えられていました。現在、白龍社のご神木として祀られています。また大阪市の保存樹林に指定された、大楠、公孫樹(いちょう)、メタセコイヤ、小賀玉木(おがたまのき)があります。元旦未明には(午前0時の合図とともに)初詣の参詣者に、干支いりの「かわらけ」で、お神酒が授与されます。毎年除夜の鐘が鳴り出すと長い初詣の行列ができます。毎年7月12日・13日に行なわれる夏祭りの神輿巡行の際、小中学生などが、掛け声とともに整然とたたく枕太鼓は見事で、一見に値すると思われます。また神輿巡行は、猿田彦命の装束で、(北ブロック、南ブロック各年交互に)行列を先導します昭和56年以来、笑福亭松喬一門会の落語会は現在も続いています。
2013年2月24日、息長川の由緒について刻まれた、万葉集★息長川顕彰之碑の祈祷・除幕式が行われました。石碑は、源氏物語や万葉集に詠まれている息長川が、中井神社のすぐ側に流れていた事から、ご縁が有って境内に建てられる事になりました。
【息長川(おきなががわ)】
河内国伎人郷(クレサト・現平野区喜連)の豪族、馬史国人(ウマノフヒトクニヒト)が万葉集の巻20-4458番に詠んだ、「鳰鳥(ニホドリ)の 息長川(オキナガガワ)は絶えぬとも 君に語らむ 言(コト)尽きめやも」に見える息長川は、通説では近江の天野川とされていますが、河内の川という説もあり、私たちは現在の今川がその流れを汲むものだと考えています。そして「この歌は古今和歌六帖に僅か一文字違いで、『君に語らふ 言尽きめやも』(読み人知らず)と詠まれている、古歌の引用である」とする通説に対して、私たちは国人の歌が本元で、これが詠まれた奈良時代中期(756年)より、150年も後に編纂された、「古今和歌六帖」に載っている歌の方が、万葉集の歌を引用したものであると考えています。つまり、巻20-4458番に詠まれた「息長川」は、奈良時代末期から平安初期に至る度重なる大洪水で、息長川の水源となる馬池谷筋が埋まってしまったため、この歌が「古今和歌六帖」に詠まれた頃には、豊かな水量を維持していた「息長川」が姿を消し、何処の川か分らなくなったからだと考えています。{大阪春秋(平成20年秋号、平成10年10月、100~108頁)を引用}
また、源氏物語の夕顔の巻では、初めての道行きに、光源氏が夕顔に対して、何の説明もなく突然に「息長川と契り給ふよりほかのことなし」として、「末永い愛を誓って『息長川』を繰り返した」と「息長川」を引用しています。文学界の通説ではこの台詞は、古歌を書き写した屏風絵や歌扇に書かれ、また鳰鳥の歌も歌人に広く詠まれていたため、「息長川」と言えば「誠実な恋」を意味するものと考えられていたようです。しかし国人の歌意は恋ではなく、客人・大伴家持の挨拶歌に対する答礼歌であった(鴻巣盛廣説)と考えられ、両方の歌は僅か一字違いで、全く異なった意味の歌であると考えています。
【桑津今川堤跡】大阪市東住吉区中野3-5川原橋東詰
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009394.html
江戸時代今川に沿う堤には、約4kmに渡って「はぜ」が植えられていた。紅葉の季節には、ちょうど平野大念仏寺への道筋にもあたり名物の「桑津のしんこ餅」の売店が並び賑わった。ここで一息つく老人たちが、嫁の悪口を言い合ったところから「嫁そしり堤」ともよばれていた。なおこの付近は「平等堤」の名もあったが(現在、平等橋の名が残る)、これはこの辺一帯の杭全(くまた)庄が、一時期、名目上の宇治平等院領となったことによるという。