・・・菅楯彦さんに続いて、大阪画壇「北野恒富」さんを紹介します。
《北野恒富展「艶麗な美人画の世界」》/於:滋賀県立近代美術館
2003年5月31日~2003年7月6日
http://www.shiga-kinbi.jp/?p=2125
日本美術院同人で艶麗な美人画で知られる北野恒富は、明治13年(1880年)金沢に生まれました。金沢や高岡で印刷物の版下を彫る仕事につきながら日本画を学び、18歳で大阪に出ます。華やかな美人画ポスターで認められるとともに、明治43年には第4回文展に初入選します。院展でも大正3年(1914年)の第1回展から活躍します。大正美術会や大阪美術展覧会の設立に加わるなど地元大阪画壇の振興にも尽力し、彼の画塾白耀社では島成園など有力な後進を育成しました。北野恒富の作品は浪速情緒にあふれた美人画に代表されるといえます。しかしそれは独特の粘りある感性と強い造形性で貫かれ、浪速情緒を越えた創作上の実験も試みられています。また明治末・大正初期にはアール・ヌーヴォーなどの影響を受けて、★「画壇の悪魔派」とされる退廃美を誇り、大正中期には古典学習も踏まえた内面性の表現を深化させました。さらに昭和初期になると、大阪の商家などを題材にした作品の中に品格ある古典美をきわだたせ、谷崎潤一郎らとも親交を結んでその小説挿絵を多く手がけました。昭和22年(1947年)、68歳で大阪で没しました。没後50年以上が過ぎた今日まで、恒富の大規模な回顧展は開かれていませんでした。今回の展覧会では主要な展覧会の出品作を中心に、ポスター・素描・挿絵を含む約110件の作品で、その個性的な造形の世界を展望します。皆様お誘い合わせの上、ぜひご鑑賞ください。
《日本絵画「組み合わせの美」》/於:滋賀県立近代美術館
2012年4月14日~2012年6月3日
http://www.shiga-kinbi.jp/?p=15947
掛け軸・絵巻物・屏風・襖絵…と、実にバラエティ豊かな形態を誇る日本の絵画。さらにそれらをよく見ていくと、2点・3点、あるいはそれ以上の点数がセットになり「組み合わせ」て鑑賞する作品が多いことに気づかされます。たとえば、岸竹堂(1826~1897)の屏風「保津峡図」(1892)のように、2枚の屏風を左右合わせて鑑賞することで、まるで眼前に迫るような荒々しい保津川の流れと雄大な渓谷のパノラマが出現したり、★北野恒富(1880~1947)の対で制作された美人画「暖か」「鏡の前」(1915)のように、着物の色・女性のポーズとも異なる2面を並べることで、色彩や構図的な対比の面白さはもちろん、鑑賞者にさまざまなドラマを感じさせたりと、「組み合わせ」の作品には1つの画面で完結する作品とはまた異なる表現や創意工夫を見いだすことができると言えます。また、季節の移ろいを感じさせる四季や十二ヶ月、近江八景のような景勝を描くために、何枚・何面もの絵が「組み合わせ」られている場合は、それぞれの画面に個性を持たせながらも、いかに全体のバランスを取って1つの作品としてまとめられているかがひとつの注目ポイントと言えるでしょう。そんな「組み合わせ」の面白さにスポットを当てた本展では、当館所蔵の屏風や掛軸を中心に「一双」「一対」「揃い」など、1点だけでは完結しない日本絵画の作品24点をご紹介します。本展が、日本絵画の持つユニークな形態と表現に改めて注目していただく機会になれば幸いです。
《平成27年度「大阪商業大学商業史博物館」秋季企画展》
577-8505東大阪市御厨栄町4-1-10/06(6785)6139
「北野恒富と中河内~知られざる大阪画壇の発信源」
平成27年10月20日(火)~11月28日(土)
http://ouc.daishodai.ac.jp/museum/event/exhibition.html
妖艶な美人画で知られる北野恒富は、菅楯彦や矢野橋村とともに近代大阪を代表する日本画家として知られています。しかし、その晩年に画室と住居を中河内に設けたことは意外に知られていません。また、恒富は単独の展覧会が大阪で開催されたことはなく、ゆかりの地、小阪(中河内)において本館が開く意義は深いと考えます。本展覧会では「燕子花」や「汐汲み女」など恒富若描きの作品をはじめとし、「茶々殿」など代表的な作品、約50点を紹介します。あわせて中河内に所在したアトリエ★白耀社のことなど、地域と恒富の関係についても考察します。
《画塾「白燿社」》小川智子「北野恒富と大阪の女性画家」より
当時の新進女性画家で活躍が目立っていたのは恒富の門下とみなされていた島成園や吉岡千種だった。大阪では江戸時代を通じて南画や風俗画が盛んで、明治から大正にかけては橋本青江や守住周魚、河辺青蘭や大橋香陵など女性の画家が活躍していたが、近代的な美人画は、恒富が女性画家を巻き込みながら、大正時代に真に開花させたのである。白耀社には「雪月花星」と謳われた星加雪乃、別役月乃、橋本花乃、四夷星乃をはじめ、生田花朝、宮田隆子、広野初枝などがいた。大正十一年の第一回白耀社展には、恒富の孫弟子にあたる島成園や木谷千種の門下生も加わって六十名が参加したが、そのうち何と、過半数の三十三名が女性だった。
昭和34年、恒富13回忌に建立された★恒富筆塚(高津宮参道、大阪市中央区)には「北野門下生葉束会」として十九名が挙っている。
【曹洞宗「蔵鷺庵(ぞうろあん)」明月林(本尊:釈迦如来)
543-0037大阪市天王寺区上之宮町4-33/06-6771-4569
https://www.ueroku-wake.net/cgi-bin/shops/detail_60.php
上宮高校のほど近く、路地を少し入ったところに小さなお寺があります。1691 年(元禄4)天桂傅尊禅師開山阿波徳島藩蜂須賀家の重臣稲田家(洲本城代家老)開基。この地は、聖徳太子創建とされる四天王寺の周囲に配置した七宮のうち、四天王寺の鬼門方向の鎮守「上之宮神社」(太子の祖父欽明天皇を祭神とする「欽明天皇社」)の仏事を行う社坊を「春海庵」とし、四天王寺の附庸とした。その後、春海庵は長い間無住寺になっていたが、元禄4(1691)年、阿波の藩主蜂須賀の家臣稲田稙栄の奥方が開基となり、天桂傳尊禅師が曹洞宗の寺院「蔵鷺庵」として再興された。「上之宮」は、南に毘沙門池を有し、周辺は桃畑、上空には鷺が舞う長閑な処だった。そこで禅師は、中国における曹洞宗の開祖洞山良价禅師(807~869)撰「寶鏡三昧」の一節にある「銀盌に雪を盛り、明月に鷺を蔵す」という句を用いて山号を「明月」、寺号を「蔵鷺」とした。当時は、戦乱の世ではないものの、何時敵が攻めて来ても迎え撃つ態勢を整えるため、本堂は南向きに建立されているが、山門は西向きに立っている。これは、飛び道具が直接来ないように、また、南側の崖下にあった池は御堀の役割をしていたと考えられる。さらに700 坪ほどの敷地に4ヶ所の井戸があり、深さ14mの間にはもしかすると横穴が存在するかもしれない。このように何時でも、「お寺」が「お城」に代われる準備の整った境内である。境内には、医聖・永富独嘯庵の墓がある。彼は1732年 (享保17)長門国豊浦で生まれ、萩の井上元昌や京都の山脇東洋に学び、逢坂で開業し、漢方にも西洋医学にも通じた天才として評判を呼んだが35 歳でこの世を去る。彼が訴えた病理解剖の必要性は後世に大きな影響を与え、現在でも大阪で学会が開催されると多くの関係者が参拝に訪れる。
蔵鷺庵は、文化人との縁も深い、その1 人が、★織田作之助である。短編小説「アドバルーン」の中で、上之宮を描写する際に当庵を使用している。また、横山大観の友人の画家★北野恒富は1920年(大正9)から3年間寄宿しており、本堂で名作「茶々殿」や「淀君」を創作している。さらにその弟子★生田花朝は、大阪の歴史風俗を描き、その父南水は上之宮神社の宮司であり、大阪考古学の草分けでもある。彼らも当然当庵に出入りしているに違いない。他には、表千家13 代家元即中斎宗匠は離れにあるお茶室を好みたびたび訪れている。彼ら以外にも、記録には無いが各方面の人物が訪れていると聞く。山門は、京都哲学の道にある法然院の山門をモデルに建造されている。
《支那鐘》本堂奥に安置している梵鐘は、双頭の竜の細工が施され、全国でも数少(現在36 口が確認される)ない中国から入ってきた「支那鐘」である。銘文中の紀年は万暦36(1608)年、総高125.2 ㎝、口径81.5 ㎝。